ツインソウル‐2

先立った愛する人は、どのように見守ってくれているのか?


- ENDLESS LOVE -

飯 田 史 彦



 以下に公開する内容は、実在する2組の男女の事例に焦点を当てているため、私の著書『ツインソウル・完全版』(PHP文庫)の続編というタイトルを採用していますが、まだ『ツインソウル・完全版』をお読みでない御方であっても、問題なく理解できる内容にしてありますので、安心してお読みください。

 また、インターネット環境やスマートフォンなどの発達に応じて、本稿は、どなたにでもご自由にお読みいただけますよう、「出版社からの有料出版」という方法ではなく、「ウェブページ上での無料公開」という方法を採用いたしました。その目的や理由につきましては、本稿を最後までお読みくだされば、ご理解いただけることでしょう。

 特に、近年の若者たちからは、「お金を払って文章を読む」という方式での「読書」の習慣は、ほぼ無くなっていますからね・・・(本当は、過去の出版物も、すべて無料公開したいところですが、出版社さんとの契約書が存在しますし、出版社さん&編集者さんから頂戴した御恩も大きいですから、それは不可能&不適切なのです)



 
はじめに


 本稿は、私の創作を一切含まない、純粋なドキュメンタリー(事実報告)と、その解説から構成されています。

 私の著書の読者の皆様であれば、よくご存知でしょうが、私のもと(完全無料の社会奉仕施設である京都市の「光の学校」)には、両親、兄弟姉妹、配偶者、子ども、親友など、身近な愛する人に先立たれて、悲しみや自責の念で苦しむ方々が、たくさんおいでになります。これらの方々をお救いするカウンセリングは、現在の私の活動のうち、3分の1程度を占めているのが実態です。

 また、先立った方々からのご依頼により、この世に残した愛する人のもとへ、私の方から出向いて、「愛する故人からの伝言」を、(訪問に要する諸経費を含めた完全な無料奉仕として)お届けする活動も、長年にわたって続けてきました。(事の発端の詳細については、私の『生きがいの創造-Ⅱ』を、ご参照ください)


 これらの活動は、私が大学生の頃から、大学院生時代 ~ 大学の助教授・教授時代 ~ 辞職後の「光の学校」時代と、過去40年間にわたるものであり、27歳で大学に助教授の職を得て以降の30年以上の間に、さまざまな著書を通じて、それらの一部を、世の中に公表してまいりました。

 その過程で、近年、「先立った愛する故人とのコミュニケーションの実例を、できるだけ詳しく教えてほしい」というご要望が増えており、その動機も、単なる興味本位ではなく、「他者の実例を生々しく知ることによって、今後の人生を頑張って生きていく勇気の源泉にしたい」という、純粋で前向きな理由なのです。

 そこで、このたび初めて、そのようなご要望にお応えできるであろう具体的な実例を、できるだけ詳しくご紹介しようと、決意いたしました。(国立大学の助教授・教授という公職に就いていた時には、立場上の難しい諸事情により、不可能なことだったのです)


 これからご紹介するのは、仮に「エピソード1」「エピソード2」と名付ける、2つの実例です。私が、過去40年間にわたって関与してきた、数えきれないほど多数の実例のうち、なぜ今回、この2つを取り上げるのかという理由としては、次の5つを挙げることができます。

 1つめは、故人および夫婦関係のイメージを誰もが想像しやすいような、公的なご職業の方々であること。2つめは、京都やその周辺に実在しており、誰もがイメージしたり調べたりすることが可能な、具体的な場所や建物の名前を、すべて明らかにしながらご紹介できること。3つめは、「愛する故人とのコミュニケーション」に関する、私が知る限りの典型的な要素やパターンが、具体的かつ豊富に含まれていること。4つめは、「最愛の人に先立たれた当事者」であるご本人が、プライバシーに深く関わる具体的かつ詳細な情報の公開を、完全な形で快くお許しくださったこと。そして5つめは、その当事者であるご本人が、「ご自身で詳細な手記を書き残す」という難事に、果敢に挑戦してくださったことです。

 これら5つの条件のうち、どれか1つが欠けても、「愛する故人とのコミュニケーション」に関する具体的かつ詳細なご報告を、信頼性に満ちた内容として公開することは不可能だというのが、私の持論です。そして、数年前になってようやく、これら5つの条件を、すべて満たしてくれる複数の事例に出会ったことが、今回の「具体的かつ詳細な情報公開」に、つながったというわけです。


 まずは、この「はじめに」において、素晴らしい「手記」を執筆してくださった奥様と、それを可能にしてくださったご主人という、2組のご夫婦に対して、心からの感謝をお伝えしておきます。おそらく読者の皆様も、本稿を読み終えてくださった時には、私と同じ深い感謝と感激の想いで、胸が熱く満たされることでしょう。

 それでは、これから第1章、第2章と続く、「実際に起きた愛の奇跡の物語」を、(ハンカチをご用意なさったうえで)どうぞお楽しみくださいね!!



 
第1章:エピソード1 ~偶然では説明できない現象の連続


 第1章は、京都大学の教授をなさっていたご主人に、突然の病気で先立たれた奥様の事例です。単なる「偶然の積み重ね」では片付けられない、「奇跡的な一致」と呼ぶしかない不思議な現象が、次から次へと展開していきますので、どうぞお楽しみください。

(もちろん、最初から最後まで、すべて100%の実話であり、創作は全く入っていないことを、お約束いたします。奥様とは、何度もメールで原稿をやり取りして、「世の中に公開しても良い正しい内容であること」を、確認いたしました。それらのメールのやり取りも、すべて保存されています)



 
第1節:2ヵ月と5日間の新婚生活


 この奥様(Mさん)は、40歳の時に、当時55歳のご主人に出会いました。ご主人は離婚歴をお持ちであり、奥様は未婚でした。そして、その2年後に、わずか2ヵ月と5日間の新婚生活ののち、ご主人は先立たれました。

 以下、《 飯田の回想&解説 》と記してある部分以外は、すべて、奥様ご自身が書いてくださった文章です。(誤字誤植や漢字表記の統一性、句読点の位置など、日本語について私が修正・変更した部分が一部に含まれる以外は、奥様のお言葉を、そのまま活かしてあります)


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《 奥様の手記 》


(1)主人との出会いから、お付き合いを始めるまで


 主人とは、2014年、京都市伏見区にある飲食店で出会いました。そのお店のオーナーさんから、「小学校からの同級生が集まるから、遊びに来ない?」とお誘いいただき、その会で、主人のことを紹介してもらいました。何度か、そのお店で集まりに参加させてもらっているうちに、私がマッサージの仕事をしていることを知っていたオーナーさんが、主人に、「仕事で疲れてるだろうから、みっちゃんにマッサージしてもらったら?」って言ってくださいました。

 主人が興味を持ってくれて、後日、お店にベッド(折りたたんで持ち運べるもの)を持ち込ませてもらい、施術させてもらうことになりました。東京への出張が頻繁にあった主人は、出張帰りに私の施術を受けるのを楽しみにしてくれるようになり、次回の予約のために、メールアドレスの交換もするようになって、しだいに親しくなりました。


 メールアドレスの交換をしたのは、2014年8月のことですが、それから、2か月ほどメールのやり取りをするうちに、ある日突然、「あべのハルカスに遊びに行かない?」と誘ってもらいました。夜に2人で食事だけをしたことはあったのですが、昼間(主人の休日)に遊びに行けることがすごく嬉しくて、すぐOKをしました。 (飯田注:「あべのハルカス」は、大阪南部の「阿倍野」に建つ日本一の高層ビルであり、最上部にある展望階からは、360度の素晴らしい景色を楽しめます)

 そして、10月26日に、「あべのハルカス」へ出掛け、朝から晩まで一日、本当に楽しく過ごせました。主人との、初めての本格的なデートは、今でも私にとって、特に大切な思い出です。「あべのハルカス」に行ったのは、この時が初めてでした。


 その後、京都にある「知恩院」や「金戒光明寺」の紅葉、「大阪中央公会堂」や「御堂筋」のクリスマス・イルミネーション、「醍醐寺」のお花見など、楽しいデートを重ねたうえで、2015年の4月に、お互いに「恋人」としてお付き合いするようになりました。

 クリスマスのイルミネーションでは、初めて腕を組んで歩きましたが、この時にはまだ、「酔った勢いで」という感じでした。でも、ちょうどこの頃から、出会ったお店で定期的にお会いする主人の同級生の方々に、「2人の関係はどうなってるの?」と、尋ねられるようになりました。 主人から、「お付き合いをしてください」と、正式な言葉で言われたことはありませんでしたが、4月に手をつないで鴨川を歩きながら、「お付き合いをしているような関係」になったという、そんな流れを覚えています。

 今、正直に書けば、「あの頃、主人から、きちんと言葉にして欲しかったな~」という気持ちは、心の奥に残っています(笑)。


(2)お付き合いが始まって


 お付き合いが始まってからも、週末には、いろんなところへ出掛けました。私が行ったことのない素敵な場所へ、たくさん連れていってくれました。付き合って間もない、5月のゴールデンウイークには、奈良の「春日大社」や「ならまち」を散策しました。春日大社では、ご本殿にお参りしたあと、「萬葉植物園」に入りました。藤が見頃で、あんなにも見事な藤棚を見たのは、初めてのことでした。お天気がとても良く、晴天に映える藤は、本当に美しかったです。

 さらに、ご本殿の近くにある「夫婦大国社」というお社にも、お参りしました。こちらは、名前の通り、夫婦円満・良縁の神様をお祀りされていて、「水占い」というおみくじがあったので、私がひくことになりました。水に浮かべると、文字が浮き上がってくるという珍しいおみくじで、浮かび上がってきたのは、なんと「大吉」でした!!

 その時、「恋愛」の項目のところに書いてあったのは・・・「たがいに 気持ちがつうじあい しあわせに」という言葉でした。大喜びで主人とおみくじを見たあの時、「きっと、これからも幸せでいられる!!」と信じた瞬間でした。

 ※ 次の写真が、その時に撮影した実物です。




 7月には、「ビルボードライブ大阪」へ・・・「クリス・ボッティ」というアーティストのライブに誘ってもらって、初めて訪れたのですが、すごく素敵な空間に魅了されました。音楽とお酒をゆったり楽しめる、大人のための空間という感じで、この場所が大好きになり、今でも、聴きたいライブがある時には一人で訪れています。

 あとは、京都大学の吉田キャンパスにある、「ラ・トゥール」というフレンチレストランのディナーにも、連れていってもらいました。このレストランに誘ってもらった時、「私と2人で食事しているところを、学生さんや同じ学部の先生方に見られる可能性もあるので、大丈夫かな?」と思って、主人に聞いてみたんです。そしたら、「かまへん(^^)」と言ってくれたのが、すごく嬉しかった記憶があります。 ワインが好きだった主人と、ゆっくりお食事&お酒を楽しみ、帰る時に見た、夜の有名な「時計台」(飯田史彦先生が講演会をなさった百周年記念ホールの上にあります)が、とてもきれいだったのを、鮮明に覚えています。

 秋には、10月31日~11月1日の一泊二日で、主人の同級生数人と、箱根旅行をしました。大観山の展望台から、芦ノ湖と富士山の絶景を楽しんだり、「ガラスの森美術館」にも行きました。ランチは、「鈴廣かまぼこ」さんの直営のお店に入ることになり、かまぼこの食べ比べをして、わいわい楽しくお食事しました。今までで一番遠くに出掛けられたのが嬉しく、秋の箱根を満喫した、思い出の旅行となりました。またいつか、同じ場所を巡る旅ができたらいいな、と思っています。


 このように、デートに出掛けた思い出もいろいろありますが、どこにも遊びに行かずに、主人の家でゆっくり過ごしたことも、本当に幸せな思い出です。料理が好きだった主人は、土曜日には、「今日の晩ごはん、何がいい?」ってメールをくれました。普通、女性の私が送るべきメールだと思うのですが・・・(笑)

 料理好きの主人は、いろんなメニューでご飯を作ってくれて、時々、焼肉や、たこ焼きパーティ(関西ではよく行われます)もしました。料理が苦手な私は、「食後の洗い物」の担当だったのですが、夜は、洗い物が終わると、主人がコーヒーを淹れてくれました。

 ソファーでDVDを見ながら、コーヒー&スイーツを一緒に食べている時に感じた幸福感は、月日が経っても薄れることはなく、今も、私の心に大切に刻まれています。ほぼ毎週末、私が主人の家に泊まりに行きましたが、食事は、すべて、料理好きの主人が作ってくれました(笑)。


(3)病気発覚 ~ 結婚 ~ お別れまで


 お付き合いして半年経った頃から、主人が、「胃が痛む」と、不調を訴えるようになりました。胃カメラなどの検査を受けましたが、原因がわからず、「仕事のストレスかな?」と言いながら、やり過ごしてしまっていました。

 そして、年が明けてから痛みが強くなり、とうとう、2016年の1月末には、食後に嘔吐するようになってしまい、大きい病院で検査してもらうことになりました。私と一緒に、主人の家で食事をした後、主人が嘔吐した時のショックは、今でも忘れられません。

 その結果、なんと「すい臓がん」だと、わかりました。かなり進んでいて、「ステージ4」でした。がんが大きくなって、十二指腸を押しつぶすような感じになり、食べたものが通らなくなってしまったのが、嘔吐の原因とのことでした。

 私には、「がん」という病気についての知識が無かったので、インターネットで「すい臓がん」や「ステージ4」を調べてみると、どれにも深刻なことばかり書いてあったので、大ショックを受けて指が震えたことを覚えています。


 がん治療より先に、「胃から小腸へのバイパス手術をしなくてはいけない」ということで、即入院し、私は、毎日のように病院に通うことになりました。ほぼ毎日付き添いをしていたので、お医者さんや看護師さんから、「奥さんですか?」と聞かれて、「違います」と答えないといけないことに悶々と苦しみ、籍が入っていないため、大事なことは実弟に頼むという状況が、とてもつらくなっていきました。

 このままでは、肝心な時に力になれないと感じ、「このままの中途半端な立場だと、充分な看病ができなくて後悔する・・・最期の瞬間まで、思う存分、彼のお世話をするためには、正式な奥さんにしてもらうしかない」と思うようになりましたが、「こんな私に、その資格があるのだろうか」とも悩み、口にすることをためらっていました。


 すると、そんな私の願いを知った、主人の同級生の方々が、私の思いを、主人に伝えてくれました。しかし、「こんな深刻な病気の身で、いつどうなるかわからないのに、結婚を求めることなんかできない」と、主人は泣き顔でつぶやいたそうです。

 それでも、私の気持ちは固まっていたので、病院に認めてもらって充分なお世話をするために、いっそ自分からプロポーズしようかと考えていたところ、同級生の方々が、「みっちゃんの方からプロポーズさせるなんて、かわいそうすぎる」と、主人を懸命に説得してくれました。そのおかげ様で、バイパス手術の前日(2月7日)に、「京都医療センター」の病室で、ついに主人から、正式に、結婚のプロポーズをしていただけました。


 その後、一旦退院して、通院で抗がん剤治療を始めることになり、主人の家での生活が始まって少し経った、3月30日に入籍しました。抗がん剤の副作用で、歩くのもしんどくてヘロヘロ状態の主人でしたが、「どうしても一緒に行く」と、私の運転する車に頑張って乗ってくれ、伏見区役所に向かったのを覚えています。入籍日を3月30日にしたのは、暦の上で、縁起の良い日だったからというのが理由です。主人の病気が良くなるのなら、どんなことでも信じるつもりでした。

 退院後は、抗がん剤の副作用に苦しむ姿を見たり、その日の気分で、食べられるものが変わってくるので、食事の用意に戸惑ったりしながらの、つらい毎日でしたが、一番つらかったのは、主人が、私に弱さを見せてくれなかったことでした。それが、重い病気の主人が私にできる、精一杯の愛情表現だったからだと思います。


 淡々と治療を続け、職場復帰を目指す主人を、複雑な思いで見ていた毎日は、幸せな結婚生活とはほど遠かったですが、4月30日には、主人の友人の方々が集まって、ウエディング・パーティを開いてくださいました。当初は、主人と出会ったお店でパーティをしていただく予定でしたが、副作用がきつすぎて、主人は外出できなくなっていたので、急きょ、主人の家に集まっていただくことになり、心温まるお祝いをしてくださいました。本当に嬉しい一日でした。

 ところが、そのウエディング・パーティの夜に、ある処置が必要になり、再び、入院することになってしまいました。バイパス手術のあと、少しの期間、胆汁を体の外に出す処置をする必要があり、チューブを通して、体の外にバッグをつけて胆汁を排出していました。退院できる頃には、バッグを外して、きちんと体の中で胆汁が流れるのを確認してもらい、チューブを通していた穴を縫って、その上から防水シート&テープで覆って、家でお風呂にも入れる状態にしてもらいました。

 ウエディング・パーティの日、その縫ったところが外れていて、防水シートの中に胆汁が染み出てきていることに気付いたので、処置をしてもらうために、病院に向かったという経緯です。容体が悪くなったのではないのですが、その後、放射線治療も控えていたので、入院しましょうということになりました。主人が自分の家で過ごせたのは、その日が最後になってしまいました。


 再入院後の放射線治療も効果がなく、どんどん身体が弱っていきました。そして、とうとう、2016年の6月5日に、病室で、主人とお別れすることになってしまいました。入籍から、2ヶ月と5日後のことでした。  

 主人が先立つ前夜、4日の夜に、看護師さんから、初めて、「病室に泊まってもいいですよ」と許可が出たので、あわてて身支度をしました。主人に、レモンのシャーベットを食べさせてあげたら、「おいしい」と、喜んでくれました。

 その数時間後、5日になった夜2時頃に、看護師さんが見回りに来た時、「呼びかけにお応えになりません!!」と、急いで医師を呼ばれました。主人の容態を診た医師が、「ご親族に連絡なさった方がよろしいかと」とおっしゃるので、あわてて、親類縁者の方々に、ご連絡しました。

 そして、主人のご兄弟や、(前妻さんとの)お子様や、仲良しの友人の方々が、病室に集合してくださった後・・・5日の13時27分に、皆様に看取って頂きながら、主人は、光の世界へ先立ちました。


 主人が息を引き取るまでの間、私は、主人と一緒によくカラオケで歌っていた歌を、主人の手を握りながら、ずっと耳元で歌っていました。目が見えなくなっても、聴力だけは最後まで残るのだと、誰かから聞いたからです。

 私が歌い続けていたのは、主人が大好きで、よく歌っていた、エルビス・プレスリーの『好きにならずにいられない』(Can’t Help Falling In Love)と、私が主人から「うまいね!!」と褒められたことがある、『アメイジング・グレイス』という有名な讃美歌です。きっと主人は、息を引き取る瞬間まで、私の歌を聴いてくれていたと信じています。これが、主人と私が2人でこの世に残した、最後の思い出になりました。



 
第2節:連続して起きた奇跡現象


《 奥様の手記 》


(1)飯田先生との出会い


 主人と出会う前、40歳を過ぎても彼氏もいなかった私は、「もうこのまま、1人で生きていくのかも知れないな」と、思っていました。それが、突然、こんなに大好きになれる人が現れて、「やっと、これからの人生を一緒に生きていきたいと思える人に出逢えた!!」と、待ち望んでいた幸せの絶頂にいたのに、まさか、こんなことになるなんて・・・

「結婚して、たったの2ヶ月でお別れしなければならなかった理由なんて、あるんだろうか?」

「私の今までの行いが、悪かったからなのか?」

「死後の世界は、あるんだろうか? あるなら、主人はどうしているんだろうか?」

 こんな疑問を、誰かに答えてほしくて、本やネットで調べ続け、あるブログに出会いました。関東地方に住む男性で、死後の世界のことを書かれていて、ご自身もスピリチュアルな感覚があるそうで、故人のメッセージを感じることができるとのことでした。私も、「主人からのメッセージを聞きたい!!」と思って、その男性のブログのコメント欄に、主人とのことを事細かに書いて、送信ボタンを押したのですが・・・なんと、ネットワークのエラーで、文章が全部、一瞬で消えてしまいました。「そんなことってある?!」って、信じられない気持ちでしたが、「もしかすると、この男性に連絡してはいけない理由があるのかも知れない」という思いが湧き起こり、再度送ることはやめました。


 その後、また別の、スピリチュアルな感覚をお持ちの方を探そうと思い、いろいろ調べ続け、だいぶ経ってから、「飯田史彦」というお名前を、初めて目にしました。書かれている本を順に読んでいくうちに、「私が探していたのは、この人だ!!」と感じ、京都で「光の学校」という無料のカウンセリング・ルームを開かれていることも知って、「ぜひとも、この先生にお目にかかりたい」と思うようになりました。

 飯田先生のカウンセリング受付の日に、「光の学校」へ申し込み電話をしたのは、2017年の2月だったと思います。しかし、申込者が多くて、かけ続けても全然電話がつながらず、つながった時には、受付終了になっていました。

 そこで、「この状況では、いつになったら電話がつながるかわからない」と焦った私は、「飯田研究室」のホームページを詳しく読むうちに、必ず先生と電話でお話できたり、直接にお会いできる「ハートメイツ」というシステムがあることを知り、「ゆっくりお話がしたい」と決心して、翌3月に、申し込みをさせていただきました。ドキドキしながらメールしてみると、飯田先生は快くカウンセリングの予約を入れてくださり、翌4月、初めて先生にお目にかかれました。


 今では、関東の霊媒師もどきの男性に書いたコメントが、不思議なエラーで全て消えてしまったのは、主人の仕業だと思っています。「君が頼るべきなのは、そんな人じゃなくて、飯田史彦という人だよ!!」と、教えてくれたに違いありません。もし、あのままコメントが送信できていて、その男性とやり取りをしていたら、飯田先生のところには、たどり着いていなかったのですから・・・



(2)ラーメン屋さんでの奇跡


 主人がいなくなってから、楽しかった頃を思い出したくて、一緒に出掛けた場所(鴨川、下鴨神社など)や、飲食店(ぽんと町や祇園など)を巡っていたのですが、どうしても一人では入りにくいお店があって、一緒に行っていただけないか、飯田先生にお願いをしてみました。それが、京都市左京区の白川通り沿いにある有名なラーメン屋さん、「天下*品」の本店です。


《 飯田の回想&解説 》

 ハートメイツのメンバーになられたMさんから、「主人と訪れたお店を、思い出をたどりながら巡っているのですが、私が1人では入りにくいお店がありますので、できれば一緒に連れて行っていただけませんか?」というご依頼を受けた時に、それがラーメン屋さんだと聞いて私が感じたのは、「ラーメン屋さんなら、女性が1人でも、問題なく入れるはずだが・・・」という疑問でした。

 しかも、お店の名前を尋ねてみると、(私は訪問したことがありませんでしたが)ラーメン好きの知人たちから何度も勧められたことがある、有名なお店ではありませんか・・・つまり、女性が入りにくいような、怪しげなお店ではないはずなのです(笑)。私は、「有名なラーメン屋ですから、女性が1人でも、ぜんぜん問題なく入れるはずですよ」と、正直な気持ちを口にしたくなりました。

 そのうえ、私が毎月通って検診を受けている、糖尿病専門医の先生や栄養士さんから、血糖値と体脂肪をコントロールする目的で、「ラーメン類」は敬遠するよう指導されている身の上なのです(涙)。事実、大好きだったラーメン類を、もう長い間、口にしていませんでした。


 ところが、この時、私の心の中に、「この奥様の願いを叶えて差し上げなければ」という、不思議な使命感が湧いてきたのです。しかも、そのお店は、「光の学校」から車で10分~15分程度あれば着けるであろう、私も良く知る街道沿いにありましたから、お断りするほどの理由も思い浮かびません。

 ただし、(私にとっては)バスで訪れるのは不便な場所であり、帰路のタクシーを拾える可能性は低そうだったので、「短時間で着ける近場だし、自分の車でお連れするのが楽だな」と、判断したことを覚えています。何度も通りかかって、「ここが、あの有名店か」と、店の前に並ぶ客の行列を眺めたことがあるため、お店の横に駐車場は無いことを知っていましたが、「きっと周辺に一般の駐車場があるだろう」と、楽観的に考えていました。


《 奥様の手記 》

 主人は、あまり車の運転をしない人だったので、そのお店に行った時も、どこかに出かけた帰りに、バスで立ち寄りました。

 飯田先生には、車で連れて行っていただいたのですが、お店の付近に駐車場があるのか知らなかったので、飯田先生が、お店のすぐ横の通りを曲がって駐車場を見つけられた時は、「こんなところに駐車場があったんだ!?」と、不思議に感じました。先生は、すぐに見つけられたので、「やはり勘が鋭くていらっしゃるんだな~」とは思いましたが、この時点では、まだ、特別なことが起こるという予感は無かったです。


《 飯田の回想&解説 》

 やがて、約束の日になり、「光の学校」で待ち合わせて、私の運転する愛車で、そのラーメン屋さんに向かいました。そして、お店まで数百メートルの距離まで近づいた時のこと・・・突然に、「ご主人」が、私に話して来られたのです・・・しかも、かなり強い口調を感じさせる調子で、「急げ!!」と。この時が、ご主人との初めてのコミュニケーションでしたが、私には自然に、「この奥様のご主人だな」と理解できました。

 このような、「故人とのコミュニケーション」ができるようになった経緯については、私の著書『生きがいの創造 Ⅱ ~永遠の愛・めぐり逢う生命』において、詳しくレポートしてあります。(私が20歳の頃に生じた、ある体験を契機として始まり、それから40年間にわたって、私は、本稿でご紹介するような「メッセンジャー活動」を、個人的な奉仕活動として、全国各地を訪れながら続けてきました。その集大成が、11年前に京都に開設した、「光の学校」なのです)


 この世を先立った故人からのメッセージは、私が予期しない状態で、ある瞬間に、突然に届きます。人間の言葉(例えば日本語)として「耳に聴こえる」のではなく、「非言語の情報」として、一瞬でまとめて届くのです。文章にすると原稿用紙何百枚にもなるような内容であっても、すべてが一瞬で私に届き、その非言語の情報を、私が自分の脳で言語化(人間の言葉に翻訳)する、というのが実態です。したがって、届いた非言語情報を、どのような日本語に翻訳するのかについては、「翻訳者」としての私の力量が大切になるため、私が日本語を扱う「文筆家」としての訓練を積んできたことが、大いに役立っているというわけです。

 例えば、英語で「 I LOVE YOU 」と言われた言葉を、日本語に翻訳する作業を取り上げるだけでも、「愛してる」「愛してるよ」「愛してるわ」「愛しています」「愛しております」などの単純な直訳だけでなく、伝わり方の調子に「強さ」や「深さ」を感じる場合には、「とっても愛してるよ」「めちゃ愛してます」「いつも愛を送っています」「いつまでも愛してる」「永遠に君だけを愛すると誓うよ」「絶対に離さないよ」「心から愛しています」「いつもあなたのことだけを想っています」など、翻訳者の状況判断に応じて、様々な訳し方があるのです。

 それと同じように、私も、相手同士の関係や、相手の性格や、その言葉を伝える状況などによって、故人からのメッセージを、最適な日本語として伝えることができるよう、大いに心がけています。もちろん、故人のメッセージのニュアンスを的確に反映する形で、わざと、「方言」や「敬語」や「俗語」や、「2人の間で使っていた慣用句」などに、翻訳することもあります。そのような場合は、先方(故人)から、「これは方言を使って、こう伝えてほしい」などと、具体的な言葉を指定する形で、情報が届くのです。どのような言葉を使えば、最も的確に伝えることができるのかは、愛する故人が、詳しく知っていますからね(笑)。


 そこで、この日の展開に話を戻すと・・・この時、ご主人が私に伝えてくださった非言語情報は、とても強い調子を感じさせるものであり、「急いでください」とか「急ぐ方がいいですよ」といったノンビリしたものではなく、「全力で急げ!!」といった、かなり強引で切迫感のあるものでした。

 しかし、いくら「急げ!!」と命じられても、お店の横には駐車場が無かったうえ、私には、近辺の駐車場の位置などわかりません。カーナビを見ても、(その当時の地図には)近場の駐車場マークが表示されていないのです。お店に近づきながら、「どこかに一般の駐車場が無いだろうか?」と探しましたが、通り過ぎた後ろや道路の反対側には駐車場が見えたのに、お店の並びには見当たりません。私は、「これは困った」と、大いに焦りました。





 すると、ご主人から、「店の裏側にあるから、店の横の道を左に入れ!!」とのご指示・・・私が、「店の隣に、道なんか、あったっけ?」と疑いながらも、やむを得ず車を進めてみると、確かに、店を通り過ぎた隣りに、道があるのです。しかも、その道へと左折した瞬間、私の目に飛び込んできたのは、ラーメン屋さんの裏手にある(表通りからは見えない)専用駐車場の姿でした。

 大喜びで車を停め、表通りに面しているお店の玄関に向かおうとすると、またもやご主人から、「裏口から入れ!!」とのご指示・・・確かに、従業員用の通用口のような簡素なドアは見えますが、「このドアから、客が入っても良いものか」と迷っていると、さらにご主人が、「急げ!! 早く!!」と、無茶苦茶な催促!!


 そこで、仕方なく、恐る恐る、そのドアから入ってみると・・・「いらっしゃい」との声がかかって、店員さんと目が合いました。そこで、私が「Vサイン」のように指を2本立てて、「2名」と声を上げると、男性の店員さんは、「あちらへ」と、ある4人掛けのテーブルを示してくれました。その時点で、お店はほぼ満席であり、残っているのは、その4人掛けのテーブルだけでした。私たち2名が入った裏口から見れば、表通りに最も近い場所にある、いちばん遠い座席でしたから、他の席が空いていれば、もっと裏口から近くて便利な座席を示してくれたはずです。

 より正確に描写すれば、店員さんが「あちらへ」と手で示してくれたのと同時に、私の後ろにいた奥様が、「あっ!! あそこに座ってもいいですか?」と、大きな声で叫んだのを覚えています。いずれにしても、その4人掛けテーブルしか空いていなかったのですから、私も「いいですよ」と、その座席に向かいました。


《 奥様の手記 》

 駐車場は、お店の裏側にあったので、裏口からお店に入ったのですが、なんと、主人と座った席が、ちょうど空いていたのです!

 すごく嬉しくて、先生に、「あそこの席に座りたいです!」とお願いして、あの時と同じように、こってりしたラーメンと、唐揚げをいただきました。飯田先生に、「あの時の主人と同じものを、食べていただいてもいいですか?」とお願いしたら、快諾してくださったのです。


《 飯田の回想&解説 》

 テーブルに座ると、奥様が興奮して、「主人と来た時も、この席だったんです!!」と、目を輝かせていらっしゃるので、私もビックリ仰天しました。なぜなら、先ほどからご主人が、「急げ!! 早く!!」と、わざわざ駐車場の場所や裏口の存在までを具体的に教えて、お店に入るのを大いに急がせた理由が、ようやくわかったからです。

 私と奥様のすぐ後から、他の数名組のお客様が入って来るのが見えましたので、急がなければ、「ご主人と奥様が座った同じテーブル」が、わずかな時間差で、それらの客に奪われてしまっていたことは、間違いありません。ご主人が急がせてくださったからこそ、その「想い出のテーブル」に、ギリギリ間に合って、めでたく座ることができたというわけです。


 奥様は、満面の笑顔で大感激なさっており、「この同じテーブルで、主人と同じものを食べていただいていいですか?」と、ご希望なさいました。私は、「もちろん、いいですよ」と答えながらも、内心では、「本当は、ラーメン類は禁止されているんだけどなぁ・・・唐揚げも、脂肪分が多そうだし」と、正直、複雑な気持ちでした(笑)。

 しかも、今生で初めて経験したほど、メチャクチャな「こってり度」を誇るという、このお店の看板商品・・・味は最高に美味しかったのですが、「これをスープまで飲んでしまうと、カロリーと脂肪分が、とんでもないことになるぞ」と、飲み干したがっている自分の欲望を抑えることに、必死だったのを覚えています(笑)。


《 奥様の手記 》

 これでまた一つ、思い出巡りができたことに感激で、私のお願いを聞いてくださった先生に感謝していたのですが、後日、さらに、驚きのお話を聞かせていただきました。駐車場の場所を教えてくれたのは、主人だとおっしゃるのです。「ご主人の言われる通りに道を曲がると、本当に駐車場があった」とお聞きした時は、私も本当にびっくりしました。

 これが、「先生は、主人と、非言語コミュニケーションをされているのだ!!」と、私が初めて知った、衝撃の出来事でした。主人の指示通りに、急いで駐車場に入り、急いで裏口から入店したからこそ、ぎりぎり間に合って、主人の時と同じテーブルが確保できたのだ、と・・・

 飯田先生にとっては、よく起きる当たり前のことなので、いちいち私に解説しなかったのでしょうけれど、後日になって詳しく聞いてみると、すべてその通りだったので、ますます感激しました。



(3)「あべのハルカス」が当たる奇跡


《 飯田の回想&解説 》

 ラーメン屋さんにお連れしてから、しばらく経った頃、その奥様から、今後のお仕事の方法に関する相談の依頼があり、「光の学校」まで、おいでいただきました。(ハートメイツの皆様に対しては、ご希望があれば何度でも、カウンセリングに応じることをお約束しています)

 すると、ある瞬間、突然に、またもやご主人が現れて、「『あべのハルカス』に連れて行ってやって欲しい」と、おっしゃるのです。正直、先日のラーメン屋さんで、私の役割は終わったものだと思っていましたから、まだ「行きたい場所」が残っているとは、予想していませんでした。奥様からも、「あべのハルカス」という名前は、一度も聞いたことがありませんでした。


 しかも、行き先が「あべのハルカス」と聞いて、なおさらビックリ仰天しました。なぜなら、日本一の高層ビルである「あべのハルカス」は、京都から60キロほども離れており、大阪の街を通り越した南方にあるため、どのような方法で向かっても、片道90分程度は必要になるためです。現地での滞在時間を最短に抑えても、往復で、合計4時間程度は、覚悟しておかなければなりません。

 わずかな回数のカウンセリングを行い、「想い出のラーメン屋さん」にお連れしたことがあるというだけの、ほとんど知らない人妻(ご主人は先立ちましたが「夫婦」であることに変わりはありません)に対して、「あべのハルカスまで遊びに行きませんか?」と申し上げるのは、ご主人を利用してデートに誘っているかのようなものであり、「飯田先生って、そんな人だったの?」などと誤解されては、大変困るのです(涙)。前回のように、奥様の方から「オーダーメイド・ドリームツアー」(つまり正式なお仕事)としてのご依頼があるならば検討できますが、私の方から「遠方への同行をご提案する」というのは、問題がありすぎると感じて、ドン引きしたのを覚えています。


 私は困り果てましたが、奥様は信頼できるお堅いお人柄であり、ご主人が「ハルカス!! ハルカス!!」と、うるさくおっしゃるので、「ちょうど目の前にいらっしゃるわけだし」と考え、やむを得ず、恐る恐る、申し上げることにしてみました。

 「あのう・・・先ほどから、ご主人が、『あべのハルカス』に連れて行ってやってほしいと、うるさくおっしゃるのですが、あまりにも遠いので・・・ハルカスという建物のことは、ご存知ですか?」

 すると、私には予想もできなかった、驚きの展開が、待っていたのです。


《 奥様の手記 》

 天下*品のお店に連れていってもらって間もなく、先生にご相談したいことがあり、お会いいただきました。その時、先生が、「ご主人が、これから、『あべのハルカス』に連れて行ってやってほしいと言っておられますが・・・」と、突然、おっしゃいました。

 もう、言葉にならないほど、びっくりしました。だって、「あべのハルカス」は、主人と初めてデートした、大切な思い出の場所でしたから・・・ 信じられない気持ちと嬉しさで、先生に、「初めて、2人で昼間に出かけてデートした場所だったんです!」とお伝えすると、先生もかなり驚かれて、「なぜ、『あべのハルカス』なのか、そんなに重要な理由があったんですね!!」と、おっしゃいました。

 そして、先生のお言葉に甘えさせていただき、思い出の「あべのハルカス」を、訪れることができました。あの時の主人と同じように、テラスに並んで座ってもらって、主人の想い出話をしながらお茶できた時間は、本当に幸せでした。





 しかも、それだけでは終わらず、またびっくりすることを、教えていただきました。実は、この日の前日まで、先生は夕方から、別のお仕事が入っておられたそうなんです。もし前日よりも前に、主人が「あべのハルカスに」と先生にお願いしていたら、先約があるため断るしかなかったそうですが、当日になり、予定が急にキャンセルになったのを見計らったように、「今からハルカスに」というメッセージが、突然に届いたとのことでした。先生から断られないように、ぴったりのタイミングを見計らって、カウンセリングの当日に先生にメッセージを伝えてくれたのが、主人の作戦だったとは!!

 それを知った時は、「そうまでして、私をハルカスに連れて行きたい」と思ってくれている、主人の思いに胸が熱くなり、それを快く引き受けてくださった先生にも、お礼の言葉が見つからないほど、感謝でいっぱいになりました。

(飯田注:実際には、前述したように遠方すぎるため、私からみると決して「快く」というわけにはいかず、大いに迷ってしまったのですが・・・笑)


 光の世界の大切な人からの思いを、飯田先生を通じて受け取っておられる方々のことを、先生のご本を読みながら、「私にも、こんなことがあったらいいのにな」と思っていましたが、それが現実になっている・・・自分に起きている奇跡が、「まさか自分に」と、夢みたいでした。

 京都にも大阪にも、素敵なデート・スポットがたくさんある中で、「思い出の初デートの場所」を、ピンポイントでたまたま当てられる確率なんて、ゼロに近い・・・この日の出来事を通じて、「主人が今も生きていることは間違いない」と、確信しました。

 この時、先生が、「ご主人が持っていないのは体だけですよ」とおっしゃったように、「主人は、いつも近くで見守ってくれているのだ」という事実を体験できた私は、本当に幸せ者だと思います。


《 飯田の回想&解説 》

 ご主人との「初デート」の場所が、まさか「あべのハルカス」だったとは、私自身の想像を超える展開でした。なぜなら、奥様がご指摘なさるように、わざわざ大阪の街のさらに南方(和歌山方面)まで出向かなくても、地元の京都に、素晴らしい観光地やお店などのデート・スポットが、山ほど存在するからです。

 しかも、京都から「あべのハルカス」まで行くだけの距離を活用できるならば、神戸の港や六甲山、琵琶湖、奈良の史跡巡りなど、素敵なデート・スポットの数は、爆発的に増加することになります。

 それらの「何百か所」にものぼるデート・スポットやお店の候補の中から、記念すべき初デートの地で、京都を離れた初めての遠出場所でもある「あべのハルカス」の名前を、私が直感で当てられるはずがなく、「推理」できるほどの(2人に関する)情報も持っておりませんでした。


 したがって、奥様から、ご主人が「あべのハルカス」を指定くださった理由を聞いた時には、失礼ながら、「ええ~っ、なんで、わざわざ初デートの場所に、あんな遠いところを選んだんでしょうね?」と、逆に、理由がわからず質問してしまったくらいです(笑)。

 しかし、その後、奥様から、ご主人のお人柄をうかがううちに、「山登りが趣味のため、景色の良い高いところが好きだった」という事実を知り、「なるほど、それで、ハルカスがお気に入りだったのだな」と、ようやく納得することができました。

 つい、ご主人に対して、「ちゃんと理由まで説明してくだされば、あんなに悩まないで済んだのに」と、心の中で文句を言った私でしたが・・・ご主人は「お茶目」な性格だそうですから、わざわざ、奥様の方から理由を教えるという展開に持って行き、私を驚かせて楽しむおつもりだったのでしょうか?(笑)



(4)プラネタリウムでの奇跡


《 飯田の回想&解説 》

 その後の数か月間は、何事もなく過ぎていきましたが、やがて冬の寒い時期に、久しぶりに、ご主人が現れました。そして、いつものように「要点のみ」という感じで(笑)、「妻をプラネタリウムに連れて行ってやってほしい」と、おっしゃるのです。

 私は、「えっ、今度は、プラネタリウムですか!?」と、またもや驚かされましたが、過去数回の経験から、「よほどの理由があるに違いない」と察して、「わかりました、奥様に、お尋ねしてみますね」と、(快諾というほどでもありませんでしたが)一応、了解しておきました。

 なぜ、「一応」かと言うと、なにしろ相手(奥様)の存在する問題ですから、奥様から、「どうして飯田先生が、主人の名前を出して、そんなところに連れて行こうとなさるのか、さっぱり理由がわかりません」と、断られる恐れもありますからね(涙)。


 そして、久しぶりに奥様にご連絡し、「あのう、ご主人が、今度は、プラネタリウムに連れて行ってほしいとおっしゃるのですが・・・きっと、お心当たりが、おありですよね?」と、お尋ねしました。関西地区だけでも、大阪や神戸をはじめ、何ヵ所ものプラネタリウム館がありますから、過去の経緯をもとに、「お2人で訪れた思い出の建物があるはず」と、推察したのです。

 ところが、奥様から返ってきたのは、「いえ、主人とプラネタリウムに行ったことは、一度もありませんが・・・」という、予想外のお言葉でした。私は、意表を突かれて大あわてになり、「えっ、そうなんですか!? それじゃ、理由もなく私がお誘いしている形になってしまいますから、この話は、聞かなかったことにしてください」と、さっさと「終了作業」にかかったのを覚えています(笑)。

 奥様も、「でも、主人が、そう望んでるんですよね?」と、不思議そうなお返事・・・「いったい、どこのプラネタリウムなんですか?」と問われた私は、(正直、なるべく近場で簡単に済ませたかったので)「いちばん近くて混んでいないのは、琵琶湖畔にある『ほたる』なんですが」と、ありのままを返答。

 すると、奥様は、「主人が望んでいるのなら、ぜひ行ってみたいです・・・きっと、主人も一緒に観てくれると思いますから」と、一転して、前向きなお返事に。私も、「まあ、近いですから、ご主人のご希望通りにして差し上げましょうか」と、久しぶりに、ご案内させていただくことになりました。


 訪れてみると、プラネタリウムの番組の前に、まず係員さんが、10分か20分かを使って、当日の星空の解説をしてくださり、その後から、番組の上映を開始・・・全体で60分間くらいだったでしょうか、私は面白く観賞したのを覚えています。

 そして、上映が終了し、隣りに座っていた奥様の様子を、恐る恐る、うかがってみると・・・なんと、ポロポロと涙を流され、「先生、主人が、プラネタリウムに連れて来たがった理由が、開始後すぐにわかってしまい、それからはもう、涙、涙で、ずっと泣いていました」とのこと!!

 「ええっ、いったい、何がわかったんですか?」と驚く私に、奥様が話してくださったのは・・・


《 奥様の手記 》

 2018年の2月6日には、飯田先生に、琵琶湖近くのプラネタリウムに、連れていっていただきました。その時も、先生がおっしゃるには、「プラネタリウムに連れていってやってほしい」という、主人からのメッセージが届いたそうなのです。内容と上映時間なども調べてくださって、「琵琶湖マリオットホテル」に併設されている、「デジタルスタードーム・ほたる」という会場を選んで、連れていってくださいました。





 この時も先生は、「なぜ、プラネタリウムなのかは、僕には全くわかりませんが」と言っておられましたが・・・会場が暗くなり、満天の星空が投影された瞬間に、私には、主人が連れて来てくれた意図が、すぐにわかってしまい、あとは涙、涙でした。

 実は、私と主人には、「星空観賞」に、「嬉し恥ずかし」の思い出があったんです。まだお付き合いする前のことですが、ある日、突然、まだ「友人」の1人だった主人が、「今日は星がきれいだよ」って書いたメールを、私に送ってくれたことがありました。私より15歳も年上で、お堅いイメージの職業(理系の大学教授)でしたので、「あの人、こんなにロマンティックで可愛いことを言う人なんだな」と驚き、見た目のイメージとのギャップに、心ときめいた記憶が、はっきりと残っています。


 そして、お付き合いを始めてからは、実際に、主人の家の屋上(ベランダを兼ねています)で、一緒に星空を見上げた思い出もあるのです。飯田先生に、「プラネタリウムに連れて行って」と頼んだということは、私だけでなく主人も、「2人で過ごした星空観賞」の思い出を、大切にしてくれてるんだと感じて、本当に嬉しく、先生に、そのお話をさせていただきました。この時も、先生が、真顔でビックリなさったのを覚えています。

 これだけでも、充分すぎるくらい嬉しいことだったのですが、さらに、このお話には続きがあります。 このプラネタリウム観賞から、数か月後だったと思いますが、あることで先生と相談している時、突然、「星空の話で、まだ話してないことがあるから聞いてやってほしいと、ご主人がおっしゃってますが・・・」と、困った顔をなさったのです。先生にとっては、何のことかわからないまま、主人にそう言われるままに、私に尋ねてくださったようなので、その時の先生の不思議そうな表情は、今でもはっきり覚えています。


《 飯田の回想&解説 》

 この時のことも、興味深い展開だったので、よく覚えています。Mさんから、お仕事のことで相談を受け、アドバイスしている最中のこと、突然、久しぶりにご主人が現れて、このように、おっしゃったのです。

「私と妻とで、一緒にベランダから星空を見上げたことを、妻が飯田さんに話しましたが、その時の出来事について、妻がまだ飯田さんに隠していることがあるんです。私たち2人にとって、とても大切な想い出なので、どうにかして、妻の口から、その事実について、飯田さんに告げるように、うながしていただけませんか?」

 正直に申し上げると、これは私にとって、想定外の困ったご依頼でした。確かに、数ヵ月前、奥様とご主人がお宅のベランダから星空を見上げたという、ロマンティックな想い出話をうかがって、「素敵なお話ですね~」と感動したことは覚えていましたが、「妻がまだ飯田さんに隠していることがある」と言われても、私にとっては、どうしようもないことだからです。


 ご夫婦の間で、何か大ゲンカにでもなったのかもしれませんが、私にとっては「どうでも良いこと」であり、奥様にとって都合の悪いことがあれば、私に隠しておく権利をお持ちなのです。夫婦のプライバシーについて、何でもペラペラと私に告げる必要など無いからです。

 実際、カウンセリングにおいでになる方々とお話しながら、「ご自分にとって都合の良い内容に捻じ曲げていらっしゃるな」とか、「都合の悪い情報は隠していらっしゃるな」と見抜けることが多々ありますし、それもまた各人のご自由なのですから、裁判官でも神様でもない私には、叱ることなどできません(笑)。


 しかし、同時に、私から見ると、ご主人が、わざわざ、「妻が隠していることを聞き出してほしい」とおっしゃるからには、よほどの事情や動機があるはずなのです。大原則として、このご夫婦は、今でも深く愛し合っていらっしゃるのですから、ご主人が、妻の名誉に傷をつけるような行為を、お望みになるわけがありません。

 そこで、私は、「こうなったら、ご主人を信じて、ありのままのお言葉を、率直にお伝えしてみるしかない」と決心し、奥様と交わしていたカウンセリングの話題を中断して、恐る恐る、このようにお尋ねしてみました。(ただし、奥様を傷つけてしまわないように、「隠している」ではなく、「話してくださっていない」という、より柔らかな表現を採用して、表現上の配慮はいたしましたが・・・)

「あのう・・・突然のお話ですみませんが・・・今、久しぶりにご主人が現れて、お宅で星空を見上げた夜のことに関して、奥様が、まだ私に話してくださっていないことがあると・・・まあ、そんなふうにおっしゃるのですが、何か、心当たりはおありですか?」

 そして、「もちろん、何でも私にお話くださる必要はありませんので、まったくご無理は申しませんよ・・・私には、さっぱり見当のつかないお話ですが、とにかく、ご主人がご要望なさっていますので・・・」と、奥様を困らせてしまわないよう、慎重に付け加えておきました。


 すると、奥様は、わずかの間、「えっ!?」と驚いた顔をなさってから、すぐに「はっ」と気づかれた表情になり、まだ私に伝えていなかった、「ある大切なこと」について、恥ずかしそうに顔を赤らめながら、お話しくださったのです。


《 奥様の手記 》

 私は、飯田先生からのお言葉を聞いて、「あのこと!?」と・・・まだ先生にはお話していなかった、ある内容のことだと、すぐにわかりました。私と主人にとっては、とても大切な想い出なのですが、ほかの人にとっては、どうでも良いことでしょうし、自慢げにお伝えするのも恥ずかしいことなので、飯田先生には黙っていたのです。

 実は、主人と一緒に星を見た時のことですが・・・ベランダ(屋上)に毛布を持って上がって、2人で並んで横になり、一緒に毛布に包まりながら星空を見上げたという、今思い出しても、胸がきゅんとなる思い出がありました。主人の家は、かなり変わった作りの建物で、部屋からハシゴをかけて、天窓から外に出ると、ベランダ状になっている屋上へ出られるのです。


 飯田先生とプラネタリウムに行った日に、この思い出をお伝えできなかったのは、先生に聞いていただくには恥ずかしすぎる内容だったからです。聞いていただきたいような、でも恥ずかしいし・・・と迷って、お話するのを控えた私の気持ちは、主人にはすべてお見通しだったこと、そして主人も、この話を先生に聞いてほしかったこともわかって、驚きながらも嬉しくなり、「もう主人ったら~」という心境でした(笑)。お茶目でロマンティストな主人が、「生前の性格そのままに生きている」という現実を、またもや先生に教えていただきました。


 そして、このお話を、先生が、毎年秋にハートメイツのメンバー向けに開催されるセミナーで、皆様の前でお話しくださることになり、「なんて光栄なことだろう」と思っていましたが、2019年9月10日のセミナーの中で、さらに衝撃の出来事がありました。「毛布に包まって・・・」のお話の締めくくりに、先生が、参加者の皆様に向かって、こんなフレーズを口にされたのです・・・「つまり、私はご主人から、オノロケ話をきかされているんですよ!!」と。 先生が、このようにおっしゃった時、くすっと笑えるようなお茶目な言い回しをなさったので、会場の片隅に座っていた私は、思わず、顔がにやけてしまいました。

 主人と私のことを、こんなにたくさんの皆様にお話しくださることへの感謝の気持ちで一杯でしたが、その日の夜、お礼のメールをさせていただいたところ、先生から、「あの名言も、実はご主人から『こんな風に表現するといいですよ』と、つい数日前に教えてもらったものなのです。そこで僕も、『ええっ? な~んだ、オノロケだったんですか!!』と、驚きながら納得したというわけです(笑)。だから、本日のセミナーから、正式に取り入れた言葉なんですよ」というお返事をいただき、「信じられない!!」という、嬉しすぎる気持ちでした。


 先生が主人と、普通に生きている人間同士と何一つ変わらない、ユーモアに満ちた会話をしてくださっているという事実に驚くとともに、こんなにも私のことを思ってくれている、主人の深い愛を感じることができ、本当に幸せな一日となりました。


《 飯田の回想&解説 》

 以上のことは、まさに、奥様が書いてくださった文章の通りなのですが、ひとつだけ、私の立場から補足しておきますと・・・

 ご主人にとっては、「一緒に1枚の毛布にくるまりながら星空を見上げた」(飯田の推理では、おそらく、手を握ったり抱き合ったりしながら)という出来事は、この世で(健康な状態で)妻と過ごしたわずかな期間に残した、最高ランクの素敵な想い出であることは、間違いありません。それなのに、奥様が私に、その想い出話をなさった時に、肝心の「一緒に毛布にくるまって」というラブラブな事実を「省略」(笑)してしまったので、「べつに隠さんでもええのに」(関西弁)と、かなり残念無念に思われたのでしょう。

 そこで、ユーモアのセンスがありお茶目だったというご主人は、(同業者の国立大学教授でもあり)気の合う私に対して、「妻から隠し事を聞き出してほしい」と頼んだだけでなく、「人様に話す時には、あれは自分が聞かせたがったオノロケ話だということにして、笑いを取って結構」と、楽しそうにおっしゃったというわけです。


 この件もまた、わざわざ私が奥様に対して、「星を見上げた夜のことで、まだ隠し事をなさってるでしょ?」と、当てずっぽうで責めて追及する必要のない内容であり、私の勝手な妄想が生んだ創作話ではないことを、充分にご理解いただけるはずです。



(5)スイスの「氷河特急」での奇跡


《 奥様の手記 》

 2019年8月には、JTBさんが主催する「飯田史彦と巡るスイス&イタリア旅行」に、参加させていただきました。 しかし、最初にツアーのお話を聞いた時には、参加しないつもりでした。その頃、飯田先生と「光の学校」スタッフの皆さん以外、ハートメイツのメンバーさんのことは誰も知らなかったので、知らない人ばかりの中、1人で行くのは不安すぎて、先生にも「ちょっと無理です・・・」とお伝えしていました。

 ただし、主人が大学時代、山岳部に所属していて、1985年5月には、チベットの「ナムナニ峰」(7694m)の初登頂を果たしたほどの登山家だったことは聞いていたので、スイスツアーの「マッターホルンを見る」という内容に、心が揺れたことも事実です。その後、飯田先生から、「きっと、ご主人も、奥様と一緒に、大好きなマッターホルンを見たいはずですよ!!」というお言葉をいただいたので、思い切って、参加を決意しました。


《 飯田の回想&解説 》

 奥様はお忘れになっているようですが、奥様から最初に「主人は登山家でもあったそうです」と聞いた時に、私の脳に地図が浮かんだので、「なんだか、中国の奥地というか、チベットというか、ヒマラヤというか・・・とにかく、めちゃ難しくて高い山に、初登頂なさったようですね」と申し上げて、「そんな感じの場所にある高い山だと言ってました!!」と、奥様を驚かせたことを覚えています。どうやら、その山に登ったことが、「登山家」としてのご主人の、最高の誇りだったご様子でした。(私自身は、その地域の山々には詳しくなく、その山のことは知りませんでした)

 やがて、ご主人から、「何とかして、妻を、大好きなマッターホルンに連れて行ってやりたい」と頼まれたので、「知らない人たちと海外なんて無理です」と嫌がる奥様を、「ご主人が大好きだった山を、ご主人も連れて、一緒に見に行きましょうよ!!」と、ダメもとで(笑)お誘いしてみました。

 すると、「海外なんて危ないからと反対するはずだった両親が、飯田先生のツアーだということを話したら、『ぜひ行ってこい』と大賛成して、大きなスーツケースまで貸してくれると言うんです!!」とのこと・・・それを聞いた私は、「ははぁ、ご主人が暗躍して(笑)、ご両親の心まで動かしたのだな」と、裏事情を察してニヤニヤしたのを覚えています。


《 奥様の手記 》

 スイスでは、最高のお天気に恵まれ、山ってこんなに美しいのかと、感動しっぱなしでした。

 実は、この旅行には、主人が愛用していたお財布を持っていったのですが、登山鉄道(飯田注:正しくは「氷河特急」)の車内で、このお財布を手に持った私の写真を、帰国後、先生が、ホームページ「飯田史彦研究室へようこそ!」で公開したツアーレポートに、載せてくださったんです。イタリアに移動するため、スイスフランを残しておいても仕方ないと思い、ほぼ使い果たしてしまっていたので、「車内販売の商品を買うのにお金が足りるだろうか」と、お財布の中身を確認していたような気がします。


《 飯田の回想&解説 》

 この写真は、現在でも、私のウェブページ『飯田史彦研究室へようこそ!』の中にある「飯田史彦と巡るフランス&スイス&イタリア・ツアー」の詳細レポートの中に、そのまま掲載してあります。スイスのツェルマットから、有名な「氷河特急」に乗って、イタリア方面に移動する途中の車内で、私自身が愛用のデジカメで撮影したものです。

 女性が赤茶色の財布を開いて、真剣に中身を確認していることが、はっきりとわかる写真であるため、本来であれば、その女性に対して失礼な写真であり、いつもの私であれば、絶対に掲載しませんでした。しかし、なぜその時に、その写真を撮ったのかと言えば・・・私には、その女性(Mさん)の肉体と重なるようにして、ご主人であろう男性の姿が、はっきりと見えていたからです。

 正直、内心では、「ご主人らしき男性は、どうして、奥様と一緒に、財布の中をのぞき込んでいらっしゃるのだろうか?」と、不思議でたまりませんでした。「ある人と一緒に重なるようにして、先立った故人のビジョンが見える(感じる)」という現象は、私にとっては、ごく普通に起きることであり、それ自体は、特筆すべき現象ではありません。しかし、「奥様と一緒に財布をのぞき込むご主人」というビジョンは、初めて目にした不思議な構図だったので、面白すぎて、とっさに撮影してしまったのです。


 その後、ホームページの編集作業をしながら、「う~ん、財布をのぞき込んでいる姿なんか掲載されても、恥ずかしいだけで嬉しくないよなぁ」と、いったん削除しようとした、その時のこと・・・またもやご主人が現れて、「せっかく、2人で一緒に写ってる記念写真なんやから、載せてやってや!!」と、お茶目なお言葉・・・

 やがて、ネット上で公開してある、その写真を見た奥様から、「あんな恥ずかしいもの削除してください」と、抗議文が届くのではないかと、ドキドキしていたところ、案の定、奥様から、「あの写真には、何か意味があるのですか?」と、やんわりと削除を希望なさっているかのような、微妙な表現のメールが・・・


 そこで、私は、ご主人とのやり取りをご説明したのですが、むしろ私の方が、奥様から「ある情報」をお聞きして、ビックリ仰天したのです。それは、「あの財布は、主人が使っていた形見の財布で、主人が先立ってからは、一度も使っていなかったんです・・・でも今回は、主人が大好きだった、きっと登りたがっていたマッターホルンを見に行くというので、初めて持ち出して使ったんです!!」という、想定外の事実でした。

 なるほど、あの財布は、もともと、ご主人が愛用なさっていた財布・・・だからこそ、奥様と一緒に、楽しそうにのぞき込んでいらっしゃったというわけなのですね!!


《 奥様の手記 》

 ツアーレポートに載せるには、あまりにも変な写真だなと思ったので、恐る恐る先生に、「あの写真、何か意味があって載せてくださったんですか?」とメールでお尋ねしたところ、こんなお返事をいただきました。

「バレましたか・・・あの写真は、ご主人と2人で一緒にいる姿を、シャッターチャンス!と撮影したんですよ。だから、どうしても、あのような形で公開して、残しておきたかったのです」

 このお返事を読んで、泣きました。思い出すたび、今でも泣けてきます。先生にお尋ねして、「特に何も意味はない」とのお返事が返ってくるのか、主人に関する何かをお伝えくださるのか、ドキドキしながら返信を待っていたのですが、主人が私と一緒にいてくれているのが、先生には見えていたなんて!!


 想像をはるかに超えるお返事に、信じられない気持ちと嬉しさで、一杯でした。スイスに行けて本当に良かったと、心から思いました。

 主人とお付き合いしている頃、「一緒に山に登ろうよ」と何度も誘われ、「山ガールの衣装一式、買ってあげるから」とも言ってくれていたのに、「山に登るのは、しんどいからイヤ」と、いつも本音で断っていました。「主人とお別れすることになるのなら、一緒に登っておけば良かった」と、本当に後悔していたのですが、この後悔を「喜びの涙」へと変えてもらったスイスツアーも、一生、忘れられない出来事になりました。

 きっと、そんな私の後悔を、主人もよくわかってくれていたからこそ、「一緒にスイスに行こう」と、飯田先生にお願いして誘ってくれたのだと思います。


《 飯田の回想&解説 》

 ご主人から頼まれて、奥様をスイス・スアーに誘ってみたものの、私自身は、「きっと無理だろうな」と思っていましたし、「光の学校」スタッフたちにも、「Mさんは来ないと思うよ」と、何度も告げたことを覚えています。

 なぜなら、Mさんは、「長距離を歩くこと」が大の苦手だそうで、私が案内して巡る「桜の(紅葉の)京都ミステリーツアー」などのイベントにも、「しんどそうなので」と、参加なさったことがなかったからです。京都市内でさえも「しんどそう」なのですから、海外、特にマッターホルンを眺めながらの山歩きなど、どう考えても、ご参加くださる気がしませんでした(笑)。

 ところが、一転して「参加します」とおっしゃったので、正直、私もスタッフたちも、「ええっ!?」と、ビックリ仰天したのです。スタッフたちが、「本当ですか?」と驚くので、「うん、ご両親からも了解を得て、スーツケースを借りるそうだから、まさかとは思うけど、どうやら本気らしいよ」と、皆で不思議がったのを覚えています(笑)。



(6)コロナ感染をめぐる奇跡


《 奥様の手記 》

 2022年7月末、コロナウイルス第7波の真っ只中の時に、ついに私も、コロナに感染してしまいました。ちょっと油断してしまい、感染リスクの高い場所へ出掛けてしまったことが原因だったのですが、私から両親にも移してしまい、翌月、家族で旅行に行く予定をしていたのに、キャンセルすることになってしまいました。

 今年、両親が結婚50周年を迎えるので、金婚式のお祝いに、妹家族とみんなで、沖縄に行く計画を立てていました。それが、私の不注意でキャンセルすることになり、家族みんなに申し訳ないという、罪悪感でいっぱいの療養期間を過ごしました。


 気持ちが落ち込んでしまい、飯田先生にメールしようかと何度も思ったのですが、ご心配・ご迷惑をおかけするだけなので、悩んだ末、メールは控えることにしました。元気になって、またいつかお会いする機会があれば、「実は感染してしまったんです」と、お伝えしようと思っていました。

 その後、療養期間を終えて少し経ってから、友人のHさんと一緒に「光の学校」へうかがい、先生にご挨拶をさせていただいたのですが、その件で先生から返信メールをいただいた時に、「Mさん、体調は大丈夫ですか? 先週末に、ご主人が、『妻を励ましてやってほしい』とおっしゃっていましたので・・・」という、意味深な内容が書かれていました。


《 飯田の回想&解説 》

 この件については、奥様が書かれている通りです。その先週末に、久しぶりにご主人が現れて、「妻がヘコんでいるから励ましてやってください」と、おっしゃったのです。私が、「なんでヘコんでらっしゃるんですか?」とお尋ねすると、「コロナや・・・まあ、それはそれで、ええんやけどな」とのこと!!

 私は、「それは、ちっとも『ええこと』じゃなくて、いけないことじゃないですか」と、さらに質問しようとしましたが、ご主人が、それきり現れなくなり、真相は不明のまま・・・そこで私は、「なるほど、近々、奥様からメールがあるから、そこで大いに励ましてあげてくれ、ということなのだな」と解釈し、そのまま忘れていました。


 しかし、奥様からは、まったく連絡が届きません・・・私は、よほどの理由が無い限り、(誰に対しても)私の方からはご連絡しない方針なので、この件に関しては、当分の間、放置されたままになっていたというわけです。ただし、「光の学校」スタッフたちには、何かの話の流れの中で、「そう言えば、Mさんも、コロナにかかったらしいよ」と、知らせておきました。

 すると、しばらく経ってから、Mさんよりメールが入り、「今度、東京からHさんがいらっしゃるので、一緒に、ご挨拶にうかがっても大丈夫ですか?」とのこと・・・私は、「そう言えば、ご主人から、あなたを励ましてほしいと頼まれていたんですが、ぜんぜんご連絡が無かったので、その機会が無いまま、すっかり忘れていました、すみません」と、ありのままを告げて謝りました。


《 奥様の手記 》

 私は驚き、「もしかして、先生、何か知っておられるのかな?!」と胸がざわざわしました。とりあえず、「今はもう元気でいつも通りですので、お会いできるのを楽しみにしております」とお返事したら、さらに意味深なメールが返ってきました。「せっかくの機会なのに、どこにも行けなくなってしまって残念でしたね」と・・・ 私の沖縄旅行がキャンセルになったことを、先生がご存知のはずがないので、主人から何か聞いておられるのは間違いないと思い、光の学校に伺う日まで、ドキドキしながら過ごしました。

 お邪魔した当日、やはり、先生は私の感染をご存知だったことを知りました。数日前、スタッフの皆さんに、「Mさんが感染したようだ」とお伝えになったそうで、私からその通りだと聞いて、スタッフの方々も驚かれました。私も、「先生には知らせてなかったのに」と、びっくりして、思わず泣いてしまいました。

 飯田先生からは、「せっかくご主人から頼まれていたのだから、もっと早く、療養期間中に、僕の方からメールして励ましたら良かったね・・・すっかり、君の方から相談メールが入るものと勘違いして、待っていたから」と、優しいお言葉もかけていただき、滅相もないと思いながら、あまりに衝撃の出来事で、言葉がうまく見つからなかったです。


 それだけでなく、その日の夜に、また御礼のメールをさせていただいたら、 「ご主人に、『僕の方から連絡してあげなくてゴメン』って謝りましたが、ワハハハハ!と笑うばかりで、何もおっしゃらないため、不思議に思っていたんです。でも、今日、あなたから事情をうかがって、『なるほど、奥様を驚かせたかったんだな』とわかり、ほっとして、僕もワハハハハ!と、ご主人と一緒に爆笑しました(笑)」 というお返事をいただきました。こんな楽しい会話を、こちらの世界とあちらの世界で、普通になさっているなんて!!

 先生がいつも、主人のことを、「僕とご主人とは、大学教授という同業者でもあった親友だから」と言ってくださるのを、とても嬉しく思っていました。この時の先生と主人の会話を知って、本当にそうなんだと思えることができ、本当に感謝しています。

 主人が旅立ってから、もう6年が過ぎましたが、先生のおかげで、今でも主人が私のことを大切に思ってくれていること、愛されていることを実感しながら、生きていくことができています。



 
第3節 これからも共に生きる


《 奥様の手記 》

 主人が他界してから、「なぜ、こんなことになってしまったのか」と、自分で考えても答えの出ない疑問に苦しみ、「大好きな人がいない人生を、これからどうやって1人で生きていけばいいのか」と、絶望感で一杯でした。

 そんな私を、飯田先生が、救ってくださいました。主人が、今も生きていること・・・私の思いは、思った瞬間に、主人に通じていること・・・主人は、いつもそばにいてくれて、いろんな場面で励まし、導いてくれていること・・・そして、必ず、また逢えること・・・ これらのことを、私は、数々の奇跡のような出来事から、教えていただきました。

 これらのことを知らずにいたら、どうなっていたかと思います。私には、主人のことを何も感じることはできませんが、先生のおかげで、「ひとりぼっちじゃない」という安心感に包まれながら、生きていられます。飯田先生には、「ありがとうございます」の言葉では足りないくらい、深く感謝しています。


 そして今、周りの方々に心配をかけないで過ごせているのも、先生のおかげです。主人の他界直後は、私を1人にしたら、変な気を起こしそうだからと心配して、家族や友人たちが、家に来てくれたり、外に連れ出したりしてくれました。

 それが、先生に出会って、主人の存在を確信できるようになってからは、そんなつらいことがあったようには見えないくらい、元気に日々を過ごせるようになりました。 久しぶりにお会いした、主人の同級生の方々は、私がもっと落ち込んでいると思っていたのに、全然そんな感じではないことに驚いて、(私の精神がおかしくなってしまったのではないかという逆の意味で)「大丈夫?」と心配してくれたこともあります(笑)。


 両親にも、その当時、たくさん心配をかけました。実は、主人とお付き合いを始めたことは、両親には内緒にしていたのです。結婚をせかされるのが嫌で、2人のペースでゆっくりお付き合いしたいと思っていたので、また時期を見てから話すつもりでした。そのため、主人の最初の入院の時も、両親には何も知らせないままで、こっそりと病院通いを続けていました。

 しかし、主人が退院することが決まり、看病のため一緒に暮らすことになったので、「さすがに話さない訳にはいかない」と、その時に初めて、両親に打ち明けました。「彼氏ができたんやけど、すい臓がんで、余命が長くない・・・最後まで、後悔のないように看病したいから、結婚することにした」・・・こう伝えた時の両親の表情は、一気に曇りました。

 父は、無言のまま、何も言いません。母からは、「看病は一生懸命してあげないといけないけど、籍は入れないでほしい」と、はっきり言われました。私は、「でも、私の人生だから、私の好きにさせてほしい!!」と、泣きながら必死で説得・・・ようやく、両親ともに理解してくれた、といういきさつがあります。そんな両親に、今の私の前向きな姿を見せることができて、とても嬉しく思っています。


 飯田先生にお世話になって、スタッフの方や、ハートメイツのメンバーの皆さんにも仲良くしていただき、スイスや上高地などのツアーに参加させてもらって楽しんでいることを、今では、誰よりも両親が喜んでくれています。これからも、両親をはじめ、私の大切な人々に心配をかけないよう、この世を卒業できる時が来るまで、頑張っていきたいと思います。

 もちろん主人にも・・・主人に安心してもらって、光の世界で幸せに過ごしてもらえるようにすること、それこそが、最愛の主人のために、今の私ができる、たったひとつの恩返しかな、と思っています。


 最後に・・・主人に今も愛されていることを教えてくださり、生きる希望を与えてくださった飯田先生には、何度お礼をお伝えしても足りないくらい、深く感謝しています。そして、私だけでなく、たくさんの方々を絶望の淵から救って差し上げていらっしゃる先生のことを、心から尊敬しています。

 そんな、愛と優しさに溢れた先生からいただいた、奇跡のような体験とお言葉の数々を、私の宝物として、大切にしながら生きていきます。


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第2章:エピソード2 ~365分の1の奇跡


 第2章は、ある公立学校の校長をなさっていたご主人に、突然の病気で先立たれた奥様の事例です。単なる「偶然の積み重ね」では片付けられない、「奇跡的な一致」と呼ぶしかない不思議な現象が、次から次へと展開していきますので、どうぞお楽しみください。

(もちろん、最初から最後まで、すべて100%の実話であり、創作は全く入っていないことを、お約束いたします。奥様とは、何度もメールで原稿をやり取りして、「世の中に公開しても良い正しい内容であること」を、確認いたしました。それらのメールのやり取りも、すべて保存されています)


 
第1節:突然のお別れ


《 奥様の手記 》

 以下の記述につきましては、私の手帳に記載されていましたので、正確な記録だと思います。

 主人とは、2000年(平成12年)1月18日(火)の10時20分頃に、異動面接の場で、初めて出会いました。〇〇大学附属の特別支援学校に、一緒に異動してきて同期となり、4月から同僚として働きました。その学校で、3年間一緒に働き、その後、それぞれ別の学校に異動しました。

 やがて、2006年に運命(?)の再会・・・〇〇に向かうバスの中で、偶然、ばったりと出会ったのです。その後、またもや偶然同じハイキング・クラブに参加することになり、時々、顔を合わせるようになって交流が深まり、2008年には、お付き合いをするようになりました。


 2010年、主人が校長昇任試験に合格しました。2人とも再婚同士でしたので、結婚にはとても慎重でした。年齢的にも「しなくてもいいのではないか」と思いましたが、試験に合格して立場が変わったので、「きちんとしておかなければ」と話し合い、その年の12月30日(木)に入籍し、それ以後、泣いたり、笑ったり、喧嘩をしたり、沢山の色々な事がありましたが、5年間のとても幸せな結婚生活を送りました。

 2015年には、5月2日(土)〜4日(月)にかけて、夫婦で、高野山を旅行しました。これが、2人の最後の旅行になってしまいましたが、この年には、元気であれば、夏休みには北海道旅行、9月のシルバーウイークには長崎旅行、年末年始には恒例の温泉旅行を計画していました。


 旅行後、5月11日(月)頃から、主人が、心臓の不調を口にするようになりました。そこで、14日(木)に、自宅(神奈川県)の近くにある病院で診察を受けてみると、心筋梗塞の疑いがあるとの診断で、精密検査を指示されました。急きょ、16日(土)に検査入院し、18日(月)14:00から心臓カテーテル検査を受ける予定となり、その結果によって、「手術するのか、薬で治すのか」等の、治療方針を決める予定でした。この時点では、20日(水)には、退院できるはずでした。

 17日(日)所用を済ませ、夕方に自宅へ戻ってから、病室へ、主人の様子を見に行ったところ、会話中に主人の胸が苦しくなったので、あわてて私が、ナースコールで看護師さんを呼びました。看護師さんに、「主人は我慢して無理をする人なので、よろしくお願いします」と、しっかり頼んだことを覚えています。


 5月18日(月)、朝8時過ぎに、主人からメールで、「昨晩はありがとうございました。今日の検査よろしく」とメールが入り、私も、「午後は休暇を取っているから大丈夫、13時に行くから」と返信しました。ただし、いつもの主人ならば私に対して使うはずがない、「ありがとうございました」という丁寧語を読んで、違和感を感じたことを覚えています。

 その後、主人は元気で、職場にもメールをしていた様子です。後から知りましたが、入院している事を職場には知らせないで、2、3日ほど休むことを伝え、仕事の指示を出しただけだったそうです。看護師さんの話では、朝食も元気に完食して、普段通りに、パソコンで仕事していたようです。


 やがて、検査前のバイタルチェックのため、10時30分過ぎ頃(?)に、看護師さんが病室に入ってすぐに、突然、主人は嘔吐、痙攣をおこし、容態が急変したそうです。

 11時13分頃に、病院から私の携帯電話へ、容態急変の電話がありました。勤務校の職員室から帰ろうとしている時に、13分の携帯着信に気が付き、当方から電話しようとしたところ、病院から再度かかってきて、「ご主人が急変したので、至急、来てください!!」と知らされました。私は驚いて動揺しながら、「今、都内の職場にいますので、1時間くらいかかってしまいます!!」と、返答したのを覚えています。


 それから大急ぎで、自宅近くの病院まで移動し、12時30分過ぎに最寄り駅に着き、懸命に走って病室に向かいました。病室に入ってからは、急変した姿を目にして、主人にしがみつきながら、泣き叫んでいたのを覚えています。お医者さんたちが、心臓マッサージなどの救命措置をなさっていましたが、心電図を見ると、心停止状態でした。

 しばらく尽力してくださいましたが、12時50分頃に、とうとう、死亡と診断されてしまいました。私は主人の体に取りすがり、「どうして? どうして? おかしい! おかしい!」と、泣きながら繰り返し、つぶやいていた事を、うっすらと覚えています。


 主人の死亡時刻は、13時12分と、診断されました。死因は、「おそらく肺梗塞」とのことでしたが、精密検査をする前でしたから、正確なことは解剖しないとわからない、と言われたように思います。「死亡診断書には、病名を記載しないといけないので」とも、説明されたような気がします。

 死因解明のために解剖するかどうかを問われましたが、主人の体にメスを入れるのは、やめておきました。なぜなら、体が戻って来るまでに、2,3週間くらいかかると言われたうえ、主人から、ひと時も離れたくなかったからです。主人も私も原因を究明したり、物事の本質をはっきりさせることが好きな性格でしたので、知りたい気持ちもありましたが、知ったところで主人は戻らないとも思いました。


 葬儀は、斎場等の都合で、1週間後に決まりました。その間は自宅で、親しかった方々にお別れをしていただきました。私も主人と最後の別れをする迄、長く一緒にいられ、今思うと色々な意味で大事な時間だったと感じています。

 主人の葬儀は、親族だけで行いました。双方の職場からは、「手伝いも出すので、公式な葬儀も行って欲しい」と言われましたが、主人は生前、「お葬式はいらない、お墓もいらない」と、強く言っておりましたので、主人がお世話になり尊敬して慕っていた恩師(元校長)のみに友人代表として参加していただき、他は身内親族のみで行いました。

(その年の夏から翌年の夏までに、主人のお別れの会をいくつか計画していただき、主人が大好きで、日常の会話の中にも名前が出てくるほど親しくしていた方々と、一緒に準備をさせていただきました。主人の為に無我夢中でした)


 その後、10日間の慶弔休暇(配偶者は10日間休めます)と、土日を入れて2週間、仕事のお休みをいただいて、6月1日(月)に、どうにか職場に出勤しました。

 この時からずっと、飯田先生の御本にたどり着くまで、苦しい日々が続きました。勤務先の「学校」という場が、主人を思い起こさせるうえ、「きちんと健康管理をしてあげられなかった私のせいで、主人を死なせてしまった」と後悔するばかりで、「仕事も人生も、何もかもやめてしまいたい」と思っていました。

 仕事の立場上、自死はできないし、してはいけないと思ってはいましたが、主人がいないこの世に残っても、何も楽しくないし、「私の人生も終わった、終わっても良い」と感じていました。主人と一緒にいなければ、生きている意味がない、とさえ思っていました。社会的にも必要とされ、生きていなくちゃいけないのは主人で、何のとりえもない私が死ぬべきだったと、ずっと思っていました。

 妹に電話をかけては、泣いたり叫んだりする日々で、ご飯も食べることができず、気が付けば体重が10㎏ほど減り、痩せていました。妹は、「姉も死んでしまうんじゃないか」と、心配してくれていたそうです。  


 ある日、勤務校で生徒がけいれん発作を起こし、救急搬送する対応をしなければならなくなったのですが、その時に、「ほら、まだあなたを必要としている子どもがいるんだから、働かなくちゃだめだよ」という、「声のような思い」が浮かんできたことを覚えています。主人は、私が、「仕事を辞めたい、家庭に入って、あなたの健康管理をしたい」と言うたびに、「辞めてどうするの? 働かなくちゃ!!」と言っていました。

 また、この頃、自宅にいると、時々、主人の気配や匂いが漂っているのを感じていたので、「主人の魂」の存在を信じたいと願っていましたが、「単なる思い込みじゃないか」とも思っていました。私自身、「自分は気が変になってしまったのかも」と思い、10月から翌年の2月頃まで、ある大学の心理学研究室のカウンセリングルームを見つけて、カウンセリングを受けてみました。職場に近くて通いやすかったので、色々と話を聞いてもらいましたが、ある時に、「主人の魂など存在しない」という意味のことを言われて落胆し、カウンセリングを終わりにしました。


 やがて、翌2016年になり、1月30日(土)に、職場の同僚だった先輩のお宅へうかがいました。前年の11月中旬〜下旬にかけて、その先輩にも喪中はがきを出したところ、12月初旬にお返事とお香典をいただき、電話でお話したうえで、お宅にうかがう事になりました。その先輩のご主人も校長先生をなさっていましたが、私の主人よりも半年ほど前に他界され、同職で管理職だった私の主人も、お葬式に参列していたのです。

 そして、その先輩から、ご自宅で、飯田先生の『完全版・生きがいの創造』の御本を、紹介されました。先輩のご主人が、闘病中に、お見舞に来られた御方からもらって読んでいた本を、「今、私が読んでいるの」と言って、私にも紹介してくださったのです。「まだ途中なので、貸すことは出来ないんだけれど」とのことで、少しだけ読ませていただいたのですが、すぐに、「私もこの本を読みたい」と思いました。


 帰宅の途中で、いくつか本屋さんを回り、〇〇〇〇書店で、やっと見つけた『生きがいの創造・実践編』を購入し、帰宅しました。その御本を読んで、著者の飯田史彦先生が、「光の学校」というところで無料カウンセリングをなさっていることを知り、「どうしても先生と会いたい! 先生を通して、もう一度、主人と話したい、心を交わしたい!」と思い、カウンセリングの申し込みをすることにしました。

 飯田先生の御本は、それから順に、『生きがいの本質』、『ソウルメイト』、『ツインソウル・完全版』、『ブレイクスルー思考』、『完全版・生きがいの創造』、『これでいいのだ』、『歩き続ける』、『いきるって、どういうこと?(絵本)』と、どんどん読んでいきました。(その他の御本も、ほぼ全部読んでいますが、以上は手帳に記録してあった順番です)


 その先輩とは、しばらく、食事をしたり美術館に行ったりと、3~4か月に1回ほどお会いして、色々と、お互いの夫の話や、飯田先生の御本の話などをしていました。不思議な事に、食事に入るお店では、いつも2人なのに、4人掛けのテーブルに通されるのです。混んでいるにも関わらず、4人掛けに座らせてくださるので、いつも不思議でした。でも2人で、「あちらの2人(主人たち)も同席しているのね」と話して、心が安らいだ記憶があります。


 2月7日(日)の10時から、飯田先生の3月分のカウンセリング予約が開始され、私も電話してみました。最初はつながりませんでしたが、しばらく時間を置いて何度もかけてみたら、10時40分頃に電話がつながり、なんと予約が取れたのです。私が京都にうかがえる日程の中で、最後の残り一枠だったので、「主人が私を呼んでくれたんだ!!」と、大喜びしました。

 3月18日(金)の11:00から、京都の「光の学校」で、飯田先生に初めてお会いして、カウンセリングを受けました。神奈川県***市の自宅から、日帰りでした。行きの新幹線も帰りの新幹線も、混んでいるにもかかわらず、やはり私の席の隣には、誰も座りませんでした。私の隣に、主人が座ってくれていたのでしょうか? 主人は旅行好きだったので、そう感じました。


 3月26日(土)には、東京・六本木の「サントリーホール」で開催された、飯田先生の音楽療法コンサート「幸せの森で、愛と勇気と希望を歌おう!!」にも、申し込みをしました。先輩を誘うために2枚チケットを申し込みましたが、先生の御本を紹介して下さった先輩はどうしても都合がつかず、1人で参加いたしました。チケットは申し訳ないので、どなたか参加したい人がいたらと思い、お返ししようと「光の学校」に電話をかけましたら、受付のスタッフが出られて、「そのまま持っていて大丈夫ですよ」と、言っていただきました。

 当日は、1人で参加いたしましたが、やはり混んでいるにもかかわらず、私の横の席は、空席のままでした。(飯田注:チケット枚数は満席状態だったうえ、先着順で各自が選んで座る自由席形式でしたから、この奥様の隣が最後まで空席のままだったのは、不思議な現象です)

 コンサート中は、主人の事を思い出し、涙が溢れましたが、とても素晴らしく素敵で、大感激いたしました。その後、「飯田先生との交流を通じて、主人とつながっていられる」という気がしたので、ハートメイツのメンバーになり、先生のコンサートやイベントに参加させていただきました。


 主人が先立ってからは、家を空けることが怖くなり、近くの妹の家にさえも泊まりに行くことができなくなっていたのですが、この頃には、「先生のコンサートやイベントに参加する」という目的意識のおかげで、家を空ける泊まりも、できるようになっていました。 2017年3月18日(土)には、「光の学校」での飯田先生のコンサートに参加・・・そして、翌3月19日(日・大安)こそが、今思えば、「奇跡の一日」となりました。

 飯田先生が提供なさっている様々なプログラムの中に、「オーダーメイド・ドリームツアー」というプランがあることを知った私は、「主人が『好きなんだ』と言っていた想い出のある京都を、先生のご案内で巡ってみたい」と思い、先生にお願いしてみたのです。

 飯田先生とスケジュールを調整し、ツアー日程は「3月19日」と決めましたが、「どこを巡るかは、当日の天候などで、臨機応変に決めましょう」とのことでした。私は心の中で、以前から行ってみたかった「三千院」に行ってみたいという気持ちがありましたが、「とにかく飯田先生にお任せしよう」と決め、先生には伝えませんでした。



 
第2節 奇跡的な一致の連続



(1)「西京焼き」の一致


《 飯田の回想&解説 》

 奥様とは、3月19日の11時30分に、「光の学校」のドアを開けて、お会いしました。その日は、「夕食後まで、京都のどこかを案内して欲しい」と依頼されていましたが、行き先については、何も打ち合わせていませんでした。私としては、当日の天候や、お客様のご要望や、私のお勧めなどを総合して、当日にお会いしてから、行き先を決めることが多かったのです。したがって、この時点では、この奥様のために、特別な対応をとったわけではありませんでした。

 すると、奥様と合流する直前に、突然、ご主人が現れて、「西京焼きを食べたいなぁ」と、おっしゃるのです。生前のご主人には、お会いしたことはありませんが、特に挨拶を交わさなくても、私には「ご主人だな」と、すぐにわかりました。


 生前にお会いして、言葉を交わしたことがある御方であれば、私の脳が「その人の声」に変換することにより、「聞こえるように感じる」ことはありますが、それ以外の場合には、「相手の意思が、情報として私に届く」という方法が原則です。その「意思情報」を、「日本語として翻訳しながら解釈する」というのが私の方法であり、その過程においては、翻訳者としての私の日本語能力も問われることになります。

 例えば、相手が伝えてきた想い(意思情報)を、「愛してるよ」と日本語化するのか、「大好きだよ」なのか、「大切に思ってるよ」なのか、「絶対に離れないよ」なのか、「誰にも渡さないよ」なのか・・・その場の状況や、当事者同士の関係などによって、私がお伝えすべき最適な日本語も変わるからです。


 しかし、この時に私が受け取った意思情報は、「西京焼き」という、はっきりとした日本語の固有名詞でした。なぜ、ご主人が「西京焼き」を食べたがっていらっしゃるのか、その理由は存じ上げませんでしたが、とにかく、心の中で「わかりました」と答えて、奥様に伝えてみました。

飯田 「あのう、ご主人が、『西京焼き』を食べに行きたいと、おっしゃっているんですが・・・西京焼きという料理を、ご存知ですか?」

奥様 「えっ、本当ですか!? 西京焼きは、主人の大好物です!!」

飯田 「なるほど、それで、西京焼きを希望なさってるんですね!!」  

 なお、同じような状況で、目の前の御方に先立った故人の意思をお伝えしても、「なんで、そんなことを言うのでしょうか?」と、その時点では、さっぱり意味がわからないこともあります。しかし、私の経験では、故人の指示通りに行動してみると、「ああ、そういうことだったのか!!」と理由が明らかになり、驚いたり感心したりするという展開が、必ず待っているのです。


《 奥様の回想 》

 私は、「主人は西京焼きが好きだったなぁ」と思い出しましたが、この時点では、飯田先生が主人と直接に話をしてくださっているという現実を、まだ理解できていなかったので、「飯田先生のお勧めの料理が、偶然、主人の好きなものと一致しているのかな」という程度の、不思議な気持ちでした。


《 飯田の回想&解説 》

 ところが、私の知る限り、京都の街なかで、美味しい「西京焼き」を食べられるお店は、事前予約の必要な有名店ばかりなのです。予約なしで、急に訪れても大丈夫なお店は、「光の学校」から車で40分以上もかかる、「大原」という山間の観光地まで行かなければ、見当たりませんでした。京都盆地の北東に位置する「大原」は、「三千院」や「寂光院」などで知られる、素朴な小村です。

飯田 「それが・・・予約なしで美味しい西京焼きを食べられるお店は、大原という場所まで行かなければ、見当たらないのですが・・・ここからだと、かなり時間がかかってしまいますが、よろしいですか?」

奥様 「えっ、大原って、三千院とかで有名な、あの大原ですか?・・・私、いつか行ってみたいと、思っていたんです!!」

飯田 「そうなんですか!! それは話が早い!!(笑) それじゃ、さっそく、大原に向かいましょう!!」


 その後、大原の「竈(かまど)炊き立てごはん土井」というお店まで、私の車で移動。





 ご主人の大好物だったという「西京焼き」を、美味しくいただいてから、奥様が訪れてみたかったという「三千院」に向かい、参拝しました。

 すると、三千院に入ったとたんに、またご主人が現れて、「妻を、知恩院に連れて行ってやってほしいのですが、時間が無いので急いでください!!」とのこと・・・


 私は、なぜ「知恩院」に移動するのか、その理由はわからないまま、大急ぎで三千院を回りました。ご主人が急がせるため、もう1つの有名寺院である「寂光院」には寄らないままで、ただちに「知恩院」を目指すことに決めたのを覚えています。

 なぜなら、大原で、ほかにも巡るべき名所が残されているのに、わざわざ30分~40分をかけて「知恩院」まで移動してほしいとおっしゃるからには、よほどの理由がおありなのだろうな、と感じたからです。故人の希望通りに言動すれば、後から理由がわかって納得できるということを、過去の経験を通じて、私は知っていました。


《 奥様の回想 》

 三千院には、短時間しかいなかったと記憶しております。先生が、「近くに他にも有名なお寺があるんだけど、それはまた今度に」とおっしゃった事が、記憶にあります。

 大急ぎで回りましたが、「いつか訪れてみたい」と願っていた三千院に行くことができて、とても嬉しかったです。



(2)「知恩院」(納骨堂)の一致


《 飯田の回想&解説 》

 その後、愛車を運転して「知恩院」に向かいながら、私は、「知恩院」というお寺の成り立ちや特徴について、知っている範囲内で、奥様に解説しました。

 知恩院は、「浄土宗」の開祖である「法然」(ほうねん)上人(しょうにん)が入滅(この世を去ること)なさった後で、弟子たちが築いてきたお寺であり、豊臣秀吉や徳川家康などに守られながら、日本を代表する大寺院のひとつとして発展してきました。

 それまでは、現実として、社会の上層部にいる選ばれた人々のための仏教でしたが、法然は、貧しくて教養も乏しい庶民であっても、あるいは多くの人を殺してきた武士であっても、万人を救おうとしてくださる阿弥陀如来(あみだにょらい)のお力を信じて、「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ = 私は阿弥陀様を信じます)と一心に念じる(念仏する)だけで、誰もが極楽に往生できる(救われる)と説くことによって、仏教界に革命を起こしたのです。


 奥様は、「知恩院」が、「法然」を教祖とする「浄土宗」の総本山だということを、この時まで知らないご様子でした。ご主人は、「浄土宗」の信者というわけではなかったそうですが、趣味で歴史や仏教の勉強もなさっており、「僧侶の中で、法然が一番好き」だと、明言なさっていたとのこと。

 その「法然」が書き残した、直筆の「一枚起請文」と呼ばれる聖典を所有する「金戒光明寺」をはじめ、夫婦2人で、法然ゆかりの寺巡りをしたこともあったそうです。もちろん、「知恩院」にも、他界する前年(2014年)の11月に、ご主人と一度だけ、訪れたことがあるとのことでした。


《 奥様の回想 》

 飯田先生から、「次は急いで、法然ゆかりの知恩院に向かいます」と聞いて、「そう言えば、主人は、法然という人が好きだったなあ・・・」と、感慨深く思い出しました。

 でも、この時もまだ、主人が飯田先生に、直接に話しかけて行き先の要望を出しているとは理解できず、「飯田先生のお勧めのお寺が、主人の好みと一致していて良かったなぁ」、という程度の気持ちでおりました。


《 飯田の回想&解説 》

 やがて、知恩院に到着し、長い石段を登り、本堂に向かう道を歩いていた時のこと・・・

 またもやご主人が現れて、今度は、「妻を納骨堂へ連れて行き、知恩院ならではの納骨堂の特徴について、説明してやってください」と、不思議なご要望をくださいました。その理由までは、教えてくれませんでしたが、確かに、知恩院の納骨堂は、開祖・法然の「誰にでも開かれた宗教」という目標を具現化した、とてもユニークなシステムで有名なのです。

 知恩院の納骨堂に、先立った故人の骨を持って行けば、宗教思想や宗派の相違に関係なく、「予約」も「戒名」も不要で、その日のうちに、誰でも受け入れて、末永く永代供養していただけます。しかも、私が知恩院でいただいた(当時の)資料によれば、例えば「のど仏」だけの「分骨」であれば、料金(納骨冥加料)は「5万円」であり、これ以上の供養費用は一切求められません。全身の骨、つまり「全骨」であっても、8万円の冥加料だけで済むとのこと・・・


 つまり、知恩院においては、「最低限の労力と費用で、思想の違いを超えて誰もが永久に極楽往生できる」という画期的システムが提供されているわけであり、まさに、開祖・法然の万人救済の理想を、見事に具現化したものなのです。

(ちなみに、「飯田家代々の墓」は、広島県竹原市の「曹洞宗」のお寺にありますので、私自身は「浄土宗」との特別な関係は無く、ひとりの研究者&カウンセラーとして、宗教・宗派的には「中立」の立場です。過去にも現在も、浄土宗や知恩院の関係者さんの中に、友人や知り合いは1人もおりません)


 以上のように、飯田が納骨堂の説明をすると、奥様は、かなり驚いた顔をなさり、次のように告白してくださいました。

奥様 「実は、家庭の事情があって、主人には、入るお墓が無いんです・・・まさか、突然、死んでしまうとは思っていなかったので、入るお墓のことなんか決めておらず、どうしたらいいのか、困り果てていたんです・・・本人はお墓(自分の)が嫌いで、散骨が良いとは言っていましたが、どこかに行って勝手に散骨するわけにもいかず・・・私は、主人の骨をどこかに撒くことは、まるで捨ててしまうかのように感じてしまい、どうしても嫌でした。また、主人の立場上、『お墓参りをさせていただきたい』と望んでくださる方々が多かったので、『どこかお参りができるところにお墓を作らなければ』と考えて、とても悩んでいたんです・・・」

飯田 「なるほど、それで、奥様が自分の骨のことでお困りなのを見て、ご主人が、『自分たちに最適なお墓』として、誰もが簡単かつ確実に極楽往生できるという、『知恩院の納骨堂』という存在を、教えてくださったわけですね・・・法然の思想を具現化して、いつでも誰でも簡単に納骨することができ、しかも、めちゃ安上がりで済むのですから、奥様にご迷惑をおかけすることもない(笑)・・・それに、ご主人にとっても、大好きな法然上人のお膝元に骨を預けることができるうえ、奥様にとっても、ご主人のお墓参りを兼ねて、思い出深い京都を何度でも訪れることができる・・・まさに、お2人にとって、願ったり叶ったりの最適なお墓が、知恩院の納骨堂だというわけですね!!」

奥様 「本当に、その通りです!! 主人からは、知恩院の納骨堂の話など、聞いたことが無かったので、生前の主人は、よく知らなかったのだと思います。そんな理想的な納骨堂があることを知っていれば、主人と一緒に知恩院を訪れた際に、詳しく説明して、『ほら、ここだよ』と、連れて行ってくれたはずですから・・・」

飯田 「なるほど・・・生前のご主人は、知恩院の納骨堂について、あまりご存じなかったのでしょうね。つまり、ご主人が納骨堂に関する情報を得たのは、死後のことだったというわけです・・・だからこそ、生前には奥様に教えてあげられなかった重要な知識を、死後に私を通じて教えてあげることにより、『骨をどうすべきか』というこの世の悩みを、一気に解決なさったのです!!」





 その後、数年を経たのち、この原稿をご依頼した際に、奥様は、次のように回想なさいました。

《 奥様の回想 》

 飯田先生から、法然や納骨堂の話を聞いた時には、「主人が、お墓に入るならここがいい、ここに入りたい、尊敬する法然のもとに預けて欲しい、と言ってるのかな」と感じました。飯田先生がおっしゃる色々なことが、主人の好みや意見とぴったり一致しているので、とても不思議な感覚でした。



(3)「天龍寺」の一致


《 飯田の回想&解説 》

 ところが・・・このご夫婦の奇跡物語は、まだまだ、「これでもか」と続くのです。 知恩院の納骨堂を後にして、「せっかく、京都を代表する観光地の東山地区に来たのだから、周囲にある有名な神社仏閣などを、色々とご案内しようかな」と思っていると、またもやご主人が現れて・・・なんと、「次は、天龍寺へ連れて行ってやってほしい」と、とんでもないご要望!!

 正直、観光ガイド役の私としては、「ええっ!? せっかく、有名な寺社がたくさんある東山地区にいるのに、わざわざ京都盆地を西へ横断して、反対側にある嵐山へ?」とビックリ仰天しましたが、ご主人からのご要望ですから、やむを得ず、しぶしぶ従うことに・・・


 ちなみに、「知恩院」から「天龍寺」までは、京都盆地を東の端から西の端まで移動することになり、距離にして12キロメートル、車で30分~40分ほどもかかります。したがって、もしも飯田が、自分の意志で旅程を決めるならば、とんでもなく無駄な移動になってしまうため、自分では決して考えるはずのない、めちゃくちゃなコースでした。わざわざ嵐山まで移動しなくても、「知恩院」周辺の東山地区に、嵐山地区を超える数の名所が、たくさん集まっているからです。


 しかし、ご主人からのご要望であり、私としては泣く泣く受け入れるしかないため、奥様に向かって、「あのう・・・ご主人が、『嵐山の天龍寺に連れて行ってほしい』と、ご希望なのですが・・・」と、恐る恐る、お伝えしてみました。すると、奥様は、「天龍寺ですか!? 前回、主人と京都に遊びに来た時、ギリギリの時間切れで中に入れなかったので、悔しい思いをしていたんです!!」と、大喜びなさったのです。


《 奥様の回想 》

 2014年の11月に、2人で嵐山を訪れた時のこと・・・私は天龍寺に入りたかったのですが、主人は有名な竹林の散歩を望んだので、主人の希望通りにしてあげました。

 そのため、天龍寺の閉門時刻に、ギリギリ間に合わなくて、残念ながら、中に入れなかったんです。主人は、申し訳なさそうな顔をしていましたが、私は、主人の希望を叶えてあげられて、嬉しく思っていました。入れなかったことは残念でしたが、主人を責める気持ちは、ありませんでした。


《 飯田の回想&解説 》

 おそらく、ご主人は、「まずは竹林を歩いて、その後で、竹林の側から天龍寺に入ることができる裏門に向かえば、閉門時刻に間に合うだろう」と、判断なさったのでしょう。正門まで回ると時間がかかりますが、裏門であれば、竹林から直接に境内に入ることができるため、かなりの時間的節約が可能になるからです。

 ところが、残念ながら、ギリギリで閉門時刻に間に合わなかったので、ご主人としては、奥様の希望を叶えてあげることができなくて、内心、ずいぶん申し訳なく思っておられたに違いありません。


 そこで、急いで天龍寺に向かった私・・・しかし、今回も、お2人が訪れた前回と同じく、ちょうど、閉門時刻ギリギリになってしまいました。ただし、今回は、前回と違って、なんとかギリギリで間に合い、めでたく、お寺の中に入ることができたのです。

 ご主人は、奥様と一緒に訪れた前回と、ほぼ同じ時刻に天龍寺を訪れて、「今度こそは!!」と、ようやく思いを遂げたというわけです。お茶目な性格でもあるというご主人ですから、前回の訪問時と同じ状況を再現すべく、わざわざ、この時刻を狙って、閉門ギリギリで天龍寺に到着するよう、巧妙に仕向けたに違いありません。





《 奥様の回想 》

 あの時は、前回と違ってギリギリ間に合ったので、もう嬉しくて・・・その瞬間、主人の笑顔が浮かんできました。前回は、主人の希望通りに、竹林に行ってあげて良かったのですが、内心では、「一緒に天龍寺も見たかったなぁ・・・」と、残念に思っていたのも確かなんです。今度こそ、お寺に入ることができたので、「あの時の夢がようやく叶った」という気持ちがして、本当に嬉しかったです。

 よくわからないまま、行き先を飯田先生に任せているだけで、色々なことが主人と一致していて、とても不思議でした・・・主人のことを、色々と思い出させてもらえて、嬉しい気持ちで一杯でした。

 しかも、このたび、当時のことを正確に思い出そうとして、飯田先生と一緒に巡った時に持ち歩いていた、御朱印帳を調べてみると、御朱印の日付が平成29年3月19日で、三千院の後に天龍寺の御朱印になっていました。知恩院では、本堂に寄らずに納骨堂に向かったので、御朱印はいただかなかったのだと思います。その時に気づいたのですが、主人と一緒に高野山で購入した御朱印帖が、飯田先生と行った天龍寺で、見事に完結しておりました!!



(4)「いもぼう」の一致


《 飯田の回想&解説 》

 さて、私はと言えば・・・奥様と天龍寺の門をくぐった時点では、「どこか嵐山のお店で、湯葉料理か湯豆腐の夕食を」と、合理的に計画していました。なぜなら、天龍寺の周囲には、有名な湯葉料理店や湯豆腐店が多数存在しており、私のお勧めのお店も、いくつかあるからです。せっかく嵐山に来ているのですから、「嵐山の名物料理を食べさせてあげたい」と考えるのは、私にとって、あまりにも当然のことでした。

 ところが、天龍寺の有名な庭(上記写真)を見ながら、奥様と一緒に書院の縁側に座っていると、またもやご主人が現れて、「いもぼう」と、具体的な店名を指示なさるのです。私は、ビックリ仰天しました・・・なぜなら、「いもぼう」という名前の有名なお店は、先ほど訪れていた「知恩院」の、すぐ真横にあるからです。「いもぼう」で食事をとりたかったならば、わざわざ嵐山まで移動して来る前に、「知恩院」を出た時点で入店していれば、「まったく無駄の無い完璧なコース」になったはずです。


 なお、京都・東山地区の「円山(まるやま)公園」と「知恩院」の境界地点に位置している、「いもぼう」と呼ばれるお店は、正式には「いもぼう 平野屋本店」という名称です。すぐ近くに、「いもぼう 平野屋本家」と書かれた、そっくりの名前の(見た目が新しい)類似店がありますが、私と奥様が訪れたのは、歴史を感じさせる建物の、古式ゆかしい「本店」の方ですので、うっかりお間違えをなさいませんよう、お気をつけくださいね。





 また、「いもぼう」という料理名は、かつては貴重であった、「海老芋」(えびいも)と「棒鱈」(ぼうだら)という、誠にめでたい食材を、絶妙な味覚で組み合わせた料理を意味しています。





 しかし、考えてみると・・・知恩院を出た時点で「いもぼう」に入っていたら、嵐山の天龍寺の閉門時刻には間に合わず、またもや残念な結果となり、前回の失敗を挽回することは不可能でした。したがって、無駄な大移動になってしまうことは重々承知の上で、東山(知恩院)~嵐山(天龍寺)~東山(知恩院すぐ隣の「いもぼう」)と、片道40分をかけて、京都盆地を東へ西へ、右往左往する必要があったというわけです。


 つまり、京都を東の端から西の端まで行ったり来たりと、きわめて効率悪く大移動する必要があるため、無駄が多すぎて、私ならば絶対に考えなかったコースなのです。天龍寺の参拝中まで待つことなく、知恩院にいた時点で「いもぼうで食事を」と命じられたら、すぐ近くにお店があったのですから、わざわざ嵐山までは移動しなかったことでしょう。

 したがって、ご主人は、私の心理まで考慮しながら、絶妙なタイミングで、天龍寺の参拝中に、次の行き先を指定なさったというわけです。ご主人は、なんと賢い御方なのでしょう!!


《 奥様の回想 》

 それまで、「いもぼう」というお店のことは、ぜんぜん知りませんでした。飯田先生が、「ご主人から要望が来たので、また、知恩院の真横まで戻らなくちゃいけないんだよ~」と、嘆いていらしたのを覚えています。


《 飯田の回想&解説 》

 私は、奥様に、「『いもぼう』というお店に、ご主人と行かれたことはありますか?」と、当然のように尋ねてみました。おそらく、以前にも2人で食べて大いに気に入ったからこそ、また今回も、同じお店で夕食をとりたいのだな、と想像したからです。

 しかし、意外なことに、奥様からは、「いえ、そんなお店のことは、知りませんが・・・」とのお返事。私は、「えっ!? それなら、なぜ、2人の思い出が残っているわけでもなく、いつか2人で行きたいと願っていたわけでもないお店に、わざわざ入ってみたくなったのだろうか?」と、大いに疑問を抱いたのを覚えています。





 やがて、その「いもぼう」のお店に到着し、店内に入ろうとした、まさに、その瞬間のこと・・・お店の玄関前で、またもや突然、ご主人が現れて、「店の右手に回り込んでください」と、実に奇妙なことを、おっしゃるのです。「えっ!? 店の右手に?・・・確か右手は、知恩院の山門に向かう道に面しており、店の壁があるだけで、ほかに何も無いはずだが・・・」と、大いに不思議に思いながらも、やむを得ず、わざわざ回り込んでみると・・・

 そこには、ガラス張りのショーケースが設置されており、その中には、「海老芋」や「棒鱈」などの、珍しい食材の模型が展示されていました。

(その後、お店が壁を改装なさったので、現在ではショーケースの内容が変更され、後にご紹介する雑誌記事も無くなっており、その代わりに、次の写真の解説が書かれています。また、当時は無かったのですが、現在では、玄関の左手の目立つ場所に、お店の歴史に関する詳しい解説板が、建てられています)





 私は、「ああ、なるほど、ご主人は奥様に、珍しい食材の模型を見せて、食前に勉強しておくよう、求めているのだな・・・さすがは校長先生(笑)」と判断し、左隣に立ちながらショーケースを眺めている奥様に向かって、「ほら、これが海老芋で、こちらが棒鱈・・・」と、模型を指差しながら解説を始めました。


 すると、奥様の表情が一変して、驚きのあまりに、怖いほど、目を見開いていらっしゃるのです。

奥様 「飯田先生、これ・・・これ見てください!!」

 奥様が指差す先には、食材と共に展示されている、ある雑誌記事のコピーが貼られていました。

 あわてて読んでみると、かつて、このお店に、キリスト教の教育者であり同志社大学を設立した「新島襄」(にいじまじょう)さんと、同じく教育者として知られた奥様の「八重」(やえ)さんが、一緒に食事に来たという記事のようです。

 私は、「へえ、そうなんだ」と思いながらも、「ここは歴史ある有名店ですから、川端康成、吉川英治、松本清張などの文筆家をはじめ、色々な有名人が訪れているそうですよ」と、さほど驚くこともなく、冷静に解説を始めました。


 ところが、その瞬間、奥様が、ますますビックリ仰天した表情で、雑誌記事の「ある一点」を指差しながら、「先生、これ!! これ見てください!!」と、周囲の通行人が驚くほどの、大きな声を上げられたのです。「いったい何のことか!?」と、あわてて凝視してみると・・・

 そこには、新島襄さんと八重さんが訪れたのは、「3月19日」のことであった、と書いてありました。

奥様 「先生、今日、何月何日ですか?」

飯田 (腕時計を見ながら)「3月19日ですが・・・ああっ!!」

 そう、新島夫妻が「いもぼう」を訪れたのは、135年前の、ちょうど同じ日、3月19日だったのです!!

飯田 「いやぁ、ぴったり同じ日だとは・・・何しろ、365分の1の確率ですから、たまたま同じだったと考えるには、あまりにも偶然すぎますよねぇ・・・」


 しかし、この時点では、まだ私は、「この店を新島夫妻が訪れたのが、135年前の同じ日だった」という事実が持つ深い意味を、正しく理解してはいませんでした。お店に入り、名物の「いもぼう」を注文したとたんに、奥様が興奮状態で話してくださったことこそが、まさに衝撃的なほど、重要な事実だったのです。

奥様 「主人と私は、NHKが大河ドラマで放送した『八重の桜』(2013年)が大好きになり、毎週ずっと2人で見ていて感動し、2014年の8月に、主人公の八重さんの故郷である会津若松(福島県)まで行って、八重さんに関する史跡巡りをしたほどの、このドラマの大ファンだったんです!! その後、『京都でも八重の桜ツアーをやりたい』と言い出して、一緒に、(新島襄が設立した)同志社大学を訪れたり、わざわざ予約を入れてまで、2人が住んでいた旧宅を見学したりしました。主人は、新島襄さんと八重さんのお墓参りも、したがっていたほどなんですよ!!」

飯田 「なるほど、それで、2人が訪れた『いもぼう』のお店を訪れて、同じ名物料理を食べてみたかったというわけですね・・・しかも、日にちにまでこだわって、135年前と同じ、3月19日に!!」


 今回の日程は、奥様が「この日はどうですか?」と指定なさった日取りでしたから、当然、ご主人が、「3月19日になさい!!」と、奥様の心に働きかけたに違いありません。


飯田 「驚きましたねぇ・・・なにしろ私は、ご主人がこのドラマの大ファンだということも、お2人でこのドラマの史跡巡りをなさったことも知りませんでしたし、なおさら、この店を135年前の同じ日に、八重さんたちが訪れたことなど、まったく知識がありませんでしたから・・・しかも、生前のご主人が、この店を訪れようとしなかったという事実は、ご主人がこの店のことを知ったのは、ご主人の死後だったということを示しています・・・つまり、ご主人は、死後に知った知識をもとにして、この店に奥様を連れてきて、かつての八重夫妻と同じように、同じ料理を食べるという経験を、奥様と一緒に行おうと画策なさったんですよ!!」


 正直、私自身は、(そもそもテレビを持っていませんので)大河ドラマも見ておらず、新島襄さんや八重さんに対しては、(なんとなく名前を知っている程度であり)ほとんど興味を抱いておりませんでした。もちろん、生前にお会いしたことのないご主人が、このドラマの大ファンだったことや、奥様と一緒に、会津若松と京都で「八重の桜・史跡巡り」をなさったことなど、知っているはずがありません。

 したがって、私が奥様を驚かせようとして、わざと「いもぼう」にお連れしたはずがないうえ、ご夫妻に関する事実のすべてを、私が「当てずっぽう」で見事に言い当てることなど、到底不可能であることは、おわかりいただけるでしょう。  


 その瞬間に、奥様は、「そうなんです、主人です!! みんな、主人の仕業です!! 主人は、今もこうして、私と一緒に生きてくれているんですね!!」と、ついに感極まって、激しく号泣なさいました。

 私は、店内の他の客や従業員たちが投げかけてくる、興味シンシンの視線を感じながら、「奥さん、落ち着いてください!! まるで僕が、別れ話でも切り出して、あなたを酷く泣かせているかのような状況ですので」と、大あわて(笑)。


《 奥様の回想 》

 あの記事を見て、びっくり!! 衝撃的でした!! 「主人が今も存在していて、飯田先生に、あれこれと頼んでくれているのだ!! 一生懸命、私に伝えようとしてくれているんだ!! 繋がってくれているんだ!!」と、強く実感することができたからです。主人の存在を100%確信して、つい、大泣きしてしまいました。飯田先生も、「今日は3月19日だっけ?」と、びっくりしていたのを覚えています。

 あまりにも感動して、食事中に号泣し、飯田先生を困らせてしまって・・・「僕が別れ話を切り出して、君を泣かせているように見えるから、ほんとに困るなぁ」と、苦笑なさっていたのを覚えています(笑)。


《 飯田の回想&解説 》

 まさに、365分の1の確率・・・偶然、ぴったり同じ日に当たったとするならば、むしろその方が、奇跡と呼ぶに値する展開です。そんな奇跡を想定するよりも、「ご主人が、自分の存在を証明するために、わざわざ135年前と同じ日を選んで訪れるよう、奥様の日程選択の意思決定に影響を与えたのだ」と考える方が、よほど現実的な解釈だと言えるでしょう。

 少なくとも、私の長年にわたる経験によれば、このような現象は、「愛する故人とのコミュニケーション体験」において、数多く起きているのですから・・・


《 奥様の回想 》

 飯田先生の本の中で、先立った方々との奇跡のような交流話を読んでも、それまでは半信半疑でしたし、それが自分のことになっても、まだピンときていませんでした。でも、「いもぼう」の件で、ようやく、自分の身に起きている現実なのだとわかり、「じ~ん」と実感したんです。あまりにも衝撃的すぎて、その後のことは、記憶にないくらいです(笑)。

 この日の一連の出来事を通じて、「主人が、今も存在して、見守ってくれているんだな」と、実感することができました。それまでは、日常の中で、主人に関係する偶然のような出来事があっても、「私の思い込みかも」と思っていましたが、偶然をはるかに超えた奇跡のような出来事の数々を体験して、主人が実際に存在してくれていることを、確信できたのです。


 しかも、それまでは、「主人と直接に話がしたい、声を聞きたい」と、「肉体としての主人」に固執していましたが、飯田先生を通じて、「もう肉体は持っていないけれど、きちんと自分は存在していて、いつも見守っているよ」と、伝えてくれていることを実感できたので、今はただ、主人への感謝の気持ちしかありません。

 それまでは、「ごめんね、ごめんね、私が健康管理を怠って、早く死なせてしまったよね」と、泣いて謝ってばかりの毎日でしたが、この日の体験以降は、主人に感謝する毎日に変わりました。


 以前は、「主人の後を追って早く死にたい、死んで逢いたい」とばかり思っていたのですが、これらの出来事を体験した今では、「主人の分まで、今生をしっかり生きていきたい」と・・・飯田先生からの、「また必ず直接に逢えますよ」という御言葉を信じて、「お土産話を沢山持って再会するんだ!」という気持ちに、変化しています。

 そして、主人が私に生きる力を与えてくれ、悲しみを乗り越える事ができるように、ずっと寄り添い、最初(先輩との再会)からの全てを、飯田先生に繋がるように働きかけてくれていたのだ、と思えるのです。



 
第3節 いつまでも、いつでも一緒


(1)2人で眺めたマッターホルン


《 奥様の回想 》

 その後も、飯田先生の企画してくださるツアー等に参加させていただいておりますが、不思議と、主人が生前、「こんなことをしよう」と約束してくれていた事や、私の悩みが解決するような出来事が、次々に実現しています。

 主人は大の旅行好きでしたが、国内旅行派なので、私が「海外旅行に一緒に行きたい」と言っても、「仕事の立場上、日本を離れると安心してのんびりできないから」と、絶対にうんと言わなかったのです。ところが、亡くなる半年前位から、「60歳で定年退職したら、船で世界一周をする旅が割安らしいから、海外旅行に行ってみようか」と、言ってくれていました。私が、「そうは言っても、旅行代金は高いでしょ? どうするの?」と聞くと、「自分の退職金から出すから大丈夫!」と、言ってくれました。


 私は、若い時に、海外旅行には数回行っていましたが、ヨーロッパだけは、まだ行ったことがありませんでした。「主人とは、とうとう行けなかったな」と、残念に思っておりましたが、やがて、「飯田先生と巡るスイス・イタリアツアー」の企画が、発表されました。飯田先生と「光の学校」スタッフの方々くらいしか、親しいといえる方はいなかったので、参加すべきか迷いましたが、「スイスのマッターホルンを眺めながら歩く」という行程が入っていたので、山好きの主人が「一緒に行きたい!!」と言ってくれているように感じました。

 また、生きていてくれれば、ちょうど60歳で、ぴったり「定年退職した年」でもありましたから、「主人が、少し違った形で、約束を叶えてくれたのだ!!」と感じました。ですから、旅行費用は、もちろん、主人が残してくれたものから全額出しました(笑)。


 旅行中は、主人の写真を入れた写真立てを持って参加しましたが、ホテルのお部屋からマッターホルンが見えたので、主人の写真立てと一緒に、満月とマッターホルンの光景を入れた構図の写真を残すことができ、「2人で見たマッターホルン」という素晴らしい思い出ができました。

 また、このツアーの中で、飯田先生が、Mさん(飯田注:エピソード1の主人公)をはじめ、沢山の方々を紹介してくださり、その後も、とても親しくさせていただいております。この年になって、友人と言えるような方々ができた事も、私にとっての奇跡のひとつです。


 このツアー後の年末~翌年の年明けから、世の中にコロナウイルスがまん延し、海外旅行には、出ることができなくなりました。今思えば、本当に、奇跡のようなタイミングで参加できた、スイス・イタリアツアーでした。

 昨年には、無事に、主人の7回忌を行いました。そして、ようやく今年から、また少しずつ、旅行ができるようになってきました。これからも、主人と一緒に、あちこちに出かけてみたいと、楽しみにしております。



(2)ご主人からのプレゼント依頼


《 飯田の回想&解説 》

 前述したような、驚きの京都巡りの日から、さらに、7年後のこと・・・

 今年(2022年)の8月に、奥様が、勤務校の夏休みを活用して、数日間の観光のため、京都まで、おいでくださることになりました。しかも、今回は、神奈川県***市から京都まで、愛車を1人で運転し、ドライブを楽しみながら移動なさるというのです。その愛車には、ご主人と一緒に各地を訪れた、たくさんの思い出が残っており、2人とも、2人でのドライブが大好きだったとのこと・・・

 私は、「まあ、ほとんどは高速道路ですから、サービスエリアで何度も休みながら移動しても、5~6時間あれば大丈夫でしょう」と、楽観的なアドバイスを差し上げておきました。


 ところが、奥様が京都においでになる数日前のこと、またしても突然に、ご主人が現れて、このようにおっしゃるのです・・・「妻が最近、京都までのドライブ中に聴こうと思って、日本の懐メロ特集のCDを買ったのですが、聴いていると気分が暗くなってしまう歌が多いので、とても心配しています。飯田先生のお勧めの、良好なメンタルヘルスを維持するために効果があって、元気が出て幸せな気持ちになれる歌をCDにして、妻に渡していただけませんか?」と。

 私は、「はい、それは、かまいませんが・・・これから編集・郵送しても間に合いませんので、今度、奥様にお会いする時にお渡しして、帰路に聴いていただくということでも、よろしいですか?」とお答えし、「もちろんです、よろしくお願いいたします!!」と、ご主人からの了承を得ておきました。

(今思えば、「大急ぎで徹夜でCDを製作して、速達でお送りすれば、往路にも間に合ったかもしれないなぁ」と、大いに反省しておりますが・・・)


 やがて、奥様にお会いする当日が来て、私が突然に、「あのう、失礼なことを申し上げるようですが・・・先日、さえない懐メロのCDを、買いませんでしたか?」とお尋ねすると、奥様はビックリ仰天!!

奥様 「はい!! 確かに先日、昔を思いだしたくて、懐メロ特集のCDを買いましたが・・・どうしてご存知なのですか? しかも、おっしゃる通り、あんまり良くなかったんです!!」

飯田 「やっぱり!!・・・ご主人から、さえない懐メロ曲集なんか聴くのは、メンタルヘルスのために良くないので、奥様に最適な、明るくて元気の出る名曲集を編集して差し上げるようにと、ご指示を頂戴しましたので・・・なにしろ、日本の昔の流行歌には、暗~い歌が多いですからねぇ」

奥様 「ええっ、本当ですか!? 主人が、そんな気づかいを!? もう、嬉しすぎます~!!」


 そして、数日間の京都滞在後、神奈川県の自宅に戻られた奥様から、このようなメールが届きました。

奥様 「無事に自宅に戻りました。大変お世話になり、ありがとうございました。先生からいただいたCDは、帰路で何度も聴くことができました。本当に素敵な曲ばかりで、心癒され、繰り返し聴いてしまいました」

 ご主人の狙い通りに、奥様から大いに喜ばれて、私も、ほっと安堵いたしました。もちろん、ご主人と相談しながら選曲しましたから、奥様のお好みにピッタリの名曲CDが完成したことは、当然の結果だったのですが・・・



(3)ご主人の夢を叶えた上高地ツアー


《 奥様の回想 》

 さらに、この秋(2022年)には、山好きだった主人が生前に口にしていた、「北アルプスや上高地に連れて行ってあげる」という約束が、実現する機会が巡ってきました。飯田先生のホームページで、「上高地ツアー」の企画が、発表されたのです。

 主人は、若い時に山登りに魅了され、北アルプス・南アルプスの、ほとんどの山々を登っています。学生時代には、山岳部に入りたかったそうですが、母親に「危ないから絶対に止めてくれ」と泣いて頼まれ、本人も「泣く泣く諦めた」と言っておりました。


 山登りには、主人と、一度だけ、一緒に行きました。主人に誘われて、数人で、南アルプスの「鳳凰三山」に登ったのです。山や高山植物の美しさには感動しましたが、「寒さ」と「疲労」と「グループ外の知らない人達と一緒の山小屋泊まり」が身にこたえ、下山の時に吐いてしまい、散々な体験でした。泣きながら下山したのを、よく覚えています。

 その後、主人が、「ごめん、ふだん運動もしているし、君なら初心者でも大丈夫と思ったけど、自分が甘かった!」と、謝ってくれました。でも、私は花が大好きで、主人も山や鳥、高山植物が大好きでしたから、「また機会があれば行きたい」と答えました。

 主人は、「君でも行ける山がある」と言って、「上高地」を、候補にしてくれていました。「ホテルはあるの?」と聞くと、「帝国ホテルもあるし、大丈夫」と言っていました。質実剛健で、華美なものが苦手な主人は、「登山にホテルなんて邪道だ」と思っていたようですが、さすがに「この人には山小屋は無理」と思ってくれたようです(笑)。


 その主人が、1人で北アルプス(奥穂高、ジャンダルム、西穂高、不動岳等)に最後に登った時に、山の小石を、お土産に持ち帰ってくれました。一つ一つの小石に、「奥」「ジャ」「西」「フド」と、マジックで書いてありました。

 嬉しそうに山の話をしてくれたことや、亡くなる数年前からは、「退職したら、山小屋のおじさんになりたい」と言っていたことも、この手記を書きながら思い出しました。「山には、トレーニングをしないと登れない」と言われて、その後に、自宅近くの低山の「丹沢」と「大山」に、2回ほど、お弁当を持って2人で行きました。主人が退職したら、たくさんの山登りに行くんだろうな、と思っていました。


 お土産の小石は、ずっと主人の遺影の前に置いてありましたが、今年になり、「自分には大切な物だけれど、私が亡くなった時に、私達には子供がいないので、妹や姪が処分に困るだろうな」と、感じるようになっていました。なんとなく、「できるならば、山に戻したい」とも思っていました。しかし、「主人が登ったような山々には、到底1人では行けないし、私が行いたい事を叶えるようなツアーも、1人旅も、もう絶対に無理だし、人に頼むこともできないし」と、心のどこかに、ずっと引っかかったままでした。

 だからこそ、今年、飯田先生の上高地ツアーが開催されることを知り、ビックリいたしました。山好きだった主人が、生前、「もう高い山には登れないけれど、上高地なら、あなたも大丈夫だから、連れて行ってあげる」と言っていた事を思い出し、「絶対に参加したい!!」と思いました。


 でも、私は仕事柄、夏休みと冬休み以外に、平日に私事旅行で休みを取ることは難しいため、「平日の開催ならば、99%、無理だろう」と覚悟していました。私が学校勤務であることをご存じの飯田先生も、「平日開催なので、あなたには申し訳ない」と、わざわざ謝ってくださいました。

 これほどの機会は2度とないので、平日でも、どうにかして行きたいとは思っていたのですが、現実的に考えると、私も、ほぼ諦めていました。


 ところが、ツアーの日程が発表されて、びっくりいたしました。私の仕事には、年に数日だけ、「平日に計画的に休みを取っても良い」と言われる期間があるのですが、ぴったり、その期間中に、ツアーが計画されていたのです!! 

 もしも、ツアーの日程が1日でもずれていたら、私は参加できませんでした。本当に、奇跡のように都合の良い日程だったのです。私は、またもや主人が、私を参加できるようにしてくれたのだ、と感じました。


 私には、小石を山に戻したいという気持ちと共に、主人が、「もしもの時には自然の中に散骨して欲しい」と言っていた言葉も、ずっと、心に引っかかっていました。そのため、「2人で一緒に知恩院の納骨堂に入りたい」と手元に置いてある遺骨の中から、ほんの少しだけ、遺骨のかけらを上高地に持って行って、小石と共に、どこかに置いてくることに決めました。形だけですが、「主人が願っていた散骨に近い事が出来る!!」と、とても嬉しかったのです。

 このことは、当日まで、誰にも話さずにいました。でも、どこで骨を撒いたら良いのかわからなかったので、「ご迷惑だろうな」とは思いながらも、ホテルのロビーで、飯田先生に、恐る恐るご相談してみたのです。

 すると先生は、ちょっとびっくりされていましたが、優しく、「それならば、一番美しい**湿原がいいよ」と、教えてくださいました。「湿原」は、主人が「日本野鳥の会」の会員で鳥好きだったこともあり、大好きな場所でした。飯田先生の口から「湿原がいいよ」とうかがって、これもまた、びっくりいたしました。


 2日間の天候は最高に良く、全ての山並みが見渡せました。主人の口から聞いていた、上高地と周辺の山々を生で見る事ができ、奇跡と感動で一杯でした。

 その湿原に着くと、飯田先生が私を手招きし、ひそひそ声で「ここがベストだよ」と、ピンポイントで指示してくださったので、主人の遺骨の一部を、ほんのちょっぴりでしたが、大好きだった大自然の中に戻すことができました。その瞬間、私は、主人が、自分の好きだった山々と一緒になることができて、嬉しそうに満面の笑みを浮かべるのを感じました。

(飯田注:もちろん私は、「どの場所をお望みですか?」と、ご主人に確認しましたよ。ご本人に選んでいただくのが、望ましいに決まっていますからね。実は、奥様が散骨をなさる瞬間の写真を、私が密かに記念撮影しておいたものが、ウェブページ『飯田史彦研究室へようこそ!』でご紹介している「上高地ツアーのレポート」において、「**湿原」の部分で、何の説明も書かないまま、さり気なく掲載してありますよ )


 このようにして、私が行いたかった全ての事を、密かに、無事に、行うことができました。飯田先生とのつながりがなければ、100%、成し得なかった夢でした。主人は、本当に、いつまでも、いつでも見守ってくれていて、悩んでいる時には助けてくれているんだと、改めて、強く感じることができました。

 ツアーが終わった後は、すっきりとした気持ちで、「また日々の生活を頑張ろう!!」と思いました。 たくさんのことを書いてしまいましたが、以上の様々な体験を通じて、今も私は、主人の魂と共に生きていることを実感しています。

 ワッハハと笑って、楽しい事が大好きだった主人と一緒に、これからも、楽しい事や、面白い事を、たくさん経験していきたいと願っています。



 
おわりに

 ここまでお読みくださった皆様には、様々な報告内容を通じて、「度重なる一致の出来事は、偶然のレベルを、はるかに超えている」という事実を、おわかりいただけることでしょう。しかも、奥様がご存知なかった情報でさえも、いくつも的確に言い当てているのですから、私が単に、「奥様の脳の中にある情報を勝手に読み取っている」というわけではないことも、ご理解いただけるはずです。

 もしも、すべての出来事を「偶然の一致にすぎない」と考えるならば、この私は、「身の回りに奇跡的な偶然が数多く起こる、極めて不思議な人」だということになり、それはそれで「奇跡の人」だということですから、まあ、それでもかまいませんが・・・(笑)


 なお、上記のような不思議な実例が、日常的に多々生じることは事実なのですが、私は決して、「どんな故人の魂とでも、自由自在に対話を行う」というわけではありません。あくまでも、先方(故人)の方から、先方の意思と能力によって、私に様々なご依頼をくださり、私も自分に可能な範囲内で、それらのご依頼に応じて差し上げているにすぎないのです。

 私自身には、「なぜ、生前に交流の無かった私に対して、そのようなご依頼をくださるのだろうか?」と、さっぱり理由がわからないことが多いのですが、いざ実行してみると、「なるほど、そうだったのか!!」と、先方(故人)のご依頼の動機が明らかになるというわけです。


 したがって、「先立ったあの人が、私に何か言ってませんか?」と問われても、私が自由自在に先方(故人)を呼び出して、「はい、こう言われてますよ」と伝言する行為は、お受けしておりません。もちろん、実際に先方(故人)から伝言を頼まれた場合にはお伝えしますが、事実ではないことを捏造するわけにはいきませんので、「いえ、具体的なことは、現時点では特に何も、おっしゃっていませんよ・・・しかし、あなたに対して、心からの感謝と応援の気持ちを送っていらっしゃいますから、あなたにとっては、それで充分ですよね?」と、問い返すことにしています。

 本稿をお読みくださり、「先立ったあの人は、なぜ、私には何も言って来ないの?」と、残念に思われる方々へ・・・本稿でご紹介した2名の奥様も、実際に起こるまで、「そんなことが自分の身に生じる」とは、予想しておられませんでした。もしも、あなたへの伝言を頼まれたなら、私の方からご連絡を差し上げますので、どうぞ、その時を楽しみにお待ちくださいね!!


 また、先方(故人)から、「自分からの直接の言葉としてではなく、あなた(飯田)からのアドバイスという形で伝えてください」と、頼まれることも多々あります。なぜなら、「自分からの直接の言葉として伝えると、今後、いちいち、『あの人が何か言ってませんか?』と尋ねたくなり、あなた(飯田)に依存するようになって、ご迷惑をおかけしてしまいますから」とのこと・・・

 確かに、私は「伝言師ビジネス」(笑)を開業しているわけではなく、あくまでも「無償の社会奉仕活動」としてカウンセリングを行っていますので、「リピーター」を増やす必要が無く、「依存されると困ってしまう」というのが実情です。私にご依頼くださる故人の方々は、この現実的問題も正しくご理解くださっており、特に「依存性の高そうな御方」であるほど、「間接的な表現(つまり「故人からの直接のメッセージ」ではなく「飯田からのアドバイス」という形)で上手に伝えて欲しい」と、ご指示くださるので助かります。


 以上、ご紹介してきたような「100%の実話」を通じて、「先立った方々が抱いてくださる、この世に残した愛する人への想いの素晴らしさ」を、皆様に実感していただけましたら幸いです。

 表面的に見ると、世の中は、悲しいこと、辛いこと、腹の立つことで、満ちているかのような気がします。しかし、その一方で、本稿でご紹介したように、目に見えないところや、自分が気づかないところで、実は世の中は、奇跡のように嬉しいこと、ありがたいこと、幸せなことで満ちているのです。どうか、その素晴らしい現実を、決して忘れることなく、勇気と希望に満ちた人生を、歩んでいただけますよう願っています。

 そして、上記の内容が、あなたの身の回りの誰かを、元気にして差し上げることができるならば・・・無料で世界公開してある、このページの存在を、どうぞ教えてあげてくださいね!!


(このページの場所は、「 https://iidakenkyusho.jp/Twinsoul-2.html 」です)


 
(^-^)

(2022年11月29日)

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《 著者プロフィール 》

  

 飯田史彦(いいだ ふみひこ)

 1962年、広島県生まれ。経営心理学者、カウンセラー、音楽療法家。1990年より19年間、国立大学法人・福島大学経済経営学類の助教授・教授を務め、東北大学大学院、筑波大学大学院などでも開講。ロンドン市立大学(英国)客員研究員。主専攻は、メンタルヘルス・マネジメント。大学での開講科目は、「経営学」「人事管理論」。

 2009年3月末で教授職を辞し、「誰のいかなる悩みに対しても、飯田自身が完全無料でカウンセリングを行う」という社会奉仕施設、「光の学校」(京都市中京区三条御幸町)を設立。辞職後の13年間で、2000件を超える無料カウンセリングを行ってきた。

 長年にわたり、各地の医療・福祉・教育機関などからの依頼に応じ、「人生の意味や価値」に関する講師を担当。日本看護学会の年次学術大会における特別講演など、医師・看護師の学会・研究会や医科大学・医学部・病医院などでの講演会多数。京都大学百周年記念講堂での単独講演会(京都大学「こころの未来研究センター」主催)では、立ち見多数となる800人以上の聴衆を動員。ひとりの研究者として、あらゆる思想・宗教団体からの中立を守っている。

 著書に、総計200万部を超えるベストセラーとなり海外諸国でも翻訳・出版された「生きがい論」シリーズとして、代表作『ツインソウル・完全版 ~死にゆく私が体験した奇跡』、『完全版・生きがいの創造 ~スピリチュアルな科学研究から読み解く人生のしくみ』、『生きがいのマネジメント ~癒し合い、活かし合う生き方へ』、『愛の論理 ~私たちは、どこまで愛せば許されるのか』、『歩き続ける ~生きるのがイヤになったあなたへ』、『これでいいのだ ~わが道を幸せに生きる方法』、『愛に悩んだ時どう生きるか ~不完全純愛主義のすすめ』(以上PHP研究所)、『命の伝言』(小学館)、『幸せの種』(彩雲出版)、絵本『いきるって、どういうこと?』(文・飯田史彦、絵・中川華澄、彩雲出版)などがある。



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