光の学校 入学試験書類① 読書感想文

『愛に悩んだ時どう生きるか』を読んで

2015年*月**日
****(オーストラリア、シドニー在住)


 はじめに

 今年は、「生きがい論」の活動20周年の節目の年にあたるそうですが、この作品は20周年の節目を飾るにふさわしい、密度の濃い、読者である私にとっては考えさせられる部分、学ぶ事がとても多い作品でした。
 飯田先生が、ご本の中で、「数多くのカウンセリング体験を通じて、より深い考察ができるようになり、その結果、光たちが教えてくださった真意を、ようやく理解できるようになってきました」と書かれているように、飯田先生の20年の経験の積み重ねがあって、初めて生み出された作品であると考える事ができると思います。
 また、別の箇所では、「文字として広く世の中に公開するのは難しかったり、誤解の危険性が高いため文字にできなかったりという、そんな情報が、山のようにあるんですよ。したがって、本という形で広く出版できる内容は、かなり限られているんです」とも語られており、逆に言うと活字として発表できる情報は全て勇気を持って発表なさった上での、到達点が本作品なのだと感じました。
 そんな20年分の飯田先生の思いと経験がぎっしりと詰まった作品のため、我々読者も心してかからないと、本作品を本当に理解し実践していくのは難しいというのが、私の率直な感想です。主に、男女間の恋愛に悩む相談者の事例で話が展開されてはいますが、飯田先生がご本の中で教えてくださっている事は、全ての人間関係に適用できるものです。
 よって、この本に書かれている事を実践していこうとすると、毎日が小さな試練の連続のような状態になります。そこに、この本の難しさが潜んでいます。ここでいう「難しい」の意味は、「難解で理解しにくい」という意味ではなく、「理解はするのは容易だが、実行していくには、不断の努力と硬い意志が不可欠だ」、という意味です。
 一方で、飯田先生のやさしさなのか、私にも簡単に実行できそうな、様々な実践的ヒントもちりばめられていましたので、そのようなところから一歩一歩実践していくのも、ひとつの方法かもしれません。

 それでは、これから、私が具体的に感じた事、考えた事を、できるだけ正直に書いて行きたいと思います。


 前置き(1) 生きがい論の本を読む事の意味

 感想の本論に入る前に、書いておきたい事があります。飯田先生が、「光たちが教えてくださった真意を、ようやく理解できるようになってきました」、といった表現をなさっている事には先ほども触れましたが、我々読者が気をつけなくてはならないのは、「なあんだ、飯田先生も、光さんと9年前に話した時には、よく理解できてなかったんですね」などと、陳腐な誤解をしてはならないという事です。
 私は、98年の終わりか99年の初め頃に先生のご本を初めて読んで以来、先生の全作品を読み、全曲を聴き続けていますが(「歩き続ける」だけは、まだ生演奏を聞く機会がございません)、その中で感じている事は、生きがい論の教えの本質は、昔から一貫しており、全く変わっていないという事です。飯田先生が苦労なさっているのは、おそらく、その本質的な部分を如何に言語化するか、特に、「光の世界を忘れてしまっていて物質世界に生きる凡人」である我々にも理解できるように、如何に言語化するかという点だと考えています。
 実際、飯田先生の作品は、先生の成長というよりも、むしろ我々読者の成長にあわせて、徐々に内容(表現、情報の開示レベル)を変えて、進化してきているという事ができると思います。初期の作品では、科学教、唯物論、唯脳論にそまってしまっている読者の洗脳を解く事に、重点が置かれていました。そして我々の洗脳が十分に解けたと思われる段階に至って、初めて、生きがい論10周年の節目の年に、「生きがいの創造II」を発表なさいました。その後も、スピリチャルな内容と論理的な教えのバランスを注意深く取りながら、我々読者の成長を促して来られました。
 よって、飯田先生が、「ようやく、その真意を理解できるようになってきた」とおっしゃる意味は、「ようやく、読者であるあなた方にも理解できると思われる表現方法が見つかりましたよ」、「ようやく、読者であるあなた方にも、理解でき実践できると思われる時期がきましたよ」、というくらいに考えなくてはなりません。逆に言うと、読者である我々が、飯田先生が想定している「読者の成長度合い」に見合った成長を遂げていなければ、先生のご本をきちんと理解する事はできない、という事になります。よって、私にとって、飯田先生のご本を読むという事は、自分の成長度合いを試す機会に他ならないという事なのです。


 前置き(2) 私の読書態度

 本論の前に、もう1点触れておきたい事は、私が飯田先生のご本を読む際の、方針、態度についてです。私は、「生きがい論」は、実践にこそ意味があると考えてきました。本を読んでいかに感動しても、それを実際の自分の人生、日々の人間関係に活かす事が出来なければ、意味が無いと思っています。(私の妻も、そのように考えているのか、私の未熟な態度を見ると、「あなた、飯田先生のご本を熱心に読んでも、そんな態度を取っているようでは意味ないじゃない!」と、容赦無く駄目出しをしてくれます)
 飯田先生のご本を読んだあとは、いかに自分の生活で実践していくかという事が、常に私の課題です。よって、これまで基本的には、一度ご本を読んで勇気と希望を得たら、あとは実践する事に重きを置いており、同じご本を何度も繰り返し読む事は(気に入ったご本の気に入った箇所を読み返す事を別にすれば)、行っていませんでした。ご本に書かれている事ばかりを気にするようになってしまっては、本末転倒だと思っていたからです。
 しかし、今回は、入学試験課題という事で、今までの読書方針を少し変えて、ご本から学び取った事を、日々実践していく事と並行して、敢えて飯田先生の描かれている細かい一字一句にもこだわり、精読してみる事としました。よって、今回の読書感想文は、感想文であると同時に、実践体験談、さらには、詳細なるご本に対する考察を兼ねたようなものになると考えています。

 前置きが長くなりました。
 以下、本論(ご本の感想)に入ります。


 不完全純愛主義について

 この本には、日本語のサブタイトルがついており、「不完全純愛主義」のすすめ、となっています。この事からもわかるように、「不完全純愛主義」が本書のメインテーマであり、この「不完全純愛主義」を如何に理解して、実践していくかという事が、私にとっても最も重要なテーマとなります。まずは、この言葉の定義を確認します。飯田先生は、「不完全純愛主義」を、ご本の中で以下のように定義付けされております。

《不完全純愛主義》(俗称:「ちょいワル純愛主義」)

 愛する人に対して、損得勘定を完全に捨てた状態で、何の代償も求めない言動をもって献身することを目標として努力するが、その一方で、時には甘えたくなったり、わがままを言いたくなってしまう自分のことも、「かわいいやつだ」と大らかに許容しながら、誇り高く楽天的に生きていくこと。(330ページ)

 この不完全純愛主義は、二つの部分から成り立っています。つまり、「不完全」という部分と、「純愛主義」という部分です。まずは、より本質的な部分である「純愛主義」について、考えてみたいと思います。
 純愛主義についての定義は、「愛する人に対して、損得勘定を完全に捨てた心境で、何の代償も求めない言動をもって献身すること」となっており、とてもシンプルです。シンプルですが、簡単な内容ではありません。まず、「愛する人に対して」という部分で、真っ先に浮かぶ疑問は、私の愛する対象は誰なのか? どこまでを愛する対象とするのか? という事です。この疑問に対して、飯田先生が、ご本の中でヒントを与えてくださっています。

 『実際に僕自身も、身の周りの人たちに対して、いつも「不完全純愛主義」で接していますよ……喜んでもらえることを見つけたら何でもして、あげられるものを見つけたらどんどんあげる一方で、その代償を期待することは一切ありません。たま〜に、「この人、少しは、僕に感謝してくれてるのかな?」って、淋しく思ってしまうことがあるのは、ご愛嬌というもの(笑)・・・でも、だからといって、「きちんと感謝しろよ」なんて腹を立てることは、まったく無いんです。もう二十年以上もそうしているので、これがいかに楽にいきていける方法なのかを熟知しており、今さら、ほかの方法に変えて生きていくなんてしんどいことは、できない体になってしまっているんですよね(笑)。』(218ページ)

 飯田先生は、この部分で「身の周りの人たちに対して、いつも「不完全純愛主義」で接していて、さらに、「もう二十年以上もそうしている」と、さりげなく告白なさっています。「生きがい論」の活動を公に始める以前から、この不完全純愛主義を実践なさっているという事なのです。したがって、私としても、できるかどうかは別として、飯田先生と同じものを目指さない訳には行きません。
 そこで私は、不完全純愛主義で接すべき愛の対象を、「周りの人たち全て」とする事といたしました。まずは妻、それに子供達、両親、兄弟、義理の父母、義理の兄弟、子供たち等々。それに、会社の上司、部下、同僚、仕事で関わる社内外の多くの人たち。
 このように、付き合いが決して広いとは言えない私でも、普段関わる人は、数限りなくいます。家族を愛する事には何の疑問も無いのですが、対象を広げていくと、どうしても、更なる疑問にぶつかっていきます。「うちの会社のXXさんは、いつも他人をどなってばかりいるのだが、あの人も愛する対象にしなくてはならないのだろうか?」とか、「あのお客は、自分が客であるからと言って、常に高飛車な態度で接してくるのだが、こんな相手でも愛さなくてはならないのだろうか?」といった疑問です。
 この疑問に対して答える時、私の中に、二人の自分がいる事に気づきます。一人目の自分は、「気の合わない人との付き合いはできるだけ避けて、家族など本当に愛すべき相手を、きちんと愛すべきだ」という答えを持っています。もう一人の自分は、「できれば関わる人全てを、できる範囲で、精一杯愛したい」という欲望を持っています。どちらが正しいのか、私にはわかりません。どちらも正しい考え方であるようにも感じてしまい、大いに悩まざるを得ません。
 飯田先生は、この疑問に対しても、ご本の中でヒントをくださっています。

迷った時には、人間たちの言葉に振り回されないよう耳をふさいで、心の中にいらっしゃる宇宙の神様に、「どうすべきでしょうか?」と、尋ねてみるんです。(中略) まさに、「不完全純愛主義で対応しなさい」というのが、いつも神様から返ってくるお言葉なんです』(169ページ)

 私は、この言葉に、大いに励まされました。ひとつには、飯田先生でも悩む事があるのだという事(悩みのレベルはおそらく全く違う事と想いますが、この際、それは置いておきます)。自分のような小さな人間は、悩む場面が多くて当然だ、と思えてきます。そして、神様の答えは、いつも同じだという事。つまり、飯田先生は悩みながらも、いつも不完全純愛主義で対応しようと努力なさっているのだ、という事です。私の場合はどうだろう?、私にも神様は同じお言葉をかけてくださるのだろうか?、と、自分の心に問いかけます。
 私には、スピリチャルな能力は全くないため、残念ながら、神の声を聞く事はできません。しかし、関わる人全てを愛したいという気持ちが、根源的な欲求として存在する事は、心の奥底で、確かに感じる事ができます。これが、神様の答えなのかもしれません。この神様の声らしきもの、あるいは自分の心の声に、従ってみたいと思うのです。決して好きとは言えない相手も含めて、できれば関わる人全てを、できる範囲で精一杯愛したいという自分の欲望に、とりあえず従ってみようと思います。

 次に、「損得勘定を完全に捨てた心境」という点ですが、この意味はいたって明白で、疑問を挟む余地はありません。そこで今回、ご本を読んで、さっそく、「自分はどのくらい、他人に対して、損得勘定を抜きに接しているだろうか?」と、考えてみました。
 すると、驚く事に、最も損得勘定抜きに接する事が容易だと思われる家族に対してすら、損得勘定を持って接していた事に気づきました。例えば、私は仕事が無い週末には、よく料理をする事があります。最初は、自分が好きでやっている事だし、それで家族に喜んでもらえるなら一石二鳥、くらいに思っていたのですが、最近では、せっかく料理を作っても家族がなかなか食卓に揃わず激怒してしまったり、「なんで休みの日に、わざわざ家族のために、こんな事をしているんだろう? もっと自分のやりたい事に、時間を使っても良いのではないのだろうか? だいたい、自分が貴重な休みの時間を使って料理をしているのに、妻からは感謝の一言も無い、毎週当たり前のように料理していると、ありがたみがなくなってしまうのでは?」、などと考えている自分がいました。これはまさに、損得勘定にとらわれている結果だと気づきました。
 そこで、まずは、「少なくとも家族に対しては、損得勘定を持つのは止めよう、一切の見返りを求めるのは止めよう」と、考える事にしました。するとどうでしょう、不思議な事に、とても気持ちが軽くなり、家事を手伝うのも嫌ではなくなったばかりか、期待していないにもかかわらず妻から感謝の言葉をかけられたりするようになりました。先生が、「相手に何も期待しないため、ストレスや失望や怒りから解放され、安らかで充実した毎日が保証される」と書かれている事の意味が、少しだけ、実感として理解できたように思います。

 
ところが、一方で、この心境を、他の人間関係、特に職場での人間関係にあてはめようとすると、全くうまく行きませんでした。職場では、常に社内外の様々なプレッシャーに晒されており、上司や部下と、常に心穏やかに接し続けるという訳には行きません。そんな環境下で、損得勘定を捨てた心境で上司や部下と接するようにしようと思っても、いったいどうすればいいのか全くわからないというのが、正直な現状なのです。そんな情けない状態の私にも、飯田先生は、ご本の中でヒントをくださっています。

 『
できるかどうかという問題ではなく、とにかく挑戦するんですよ!』(289ページ)

 私は、この言葉を信じ、とにかく挑戦することとします。
 
今のところは、「損得勘定を捨てた心境で接する事ができますように」と、日々神様に祈りながら、試行錯誤を続けている状況です。「少しだけ実践できている」と感じる日もあれば、「今日は全くダメだったな」と思う日もあり、日々喜んだり、落ち込んだりの連続です。

 最後に「何の代償も求め無い言動をもって献身する事」という部分について、考えてみます。「何の代償も求め無い言動」というのは、「損得勘定を捨てた心境」と対になっており、損得勘定をすてる事さえできれば、やすやすと達成できます。相手に対して何も期待しなくて良いため、うまくいけばこれほど楽な事は無い上に、相手から何か感謝の一言でもかけられようものなら、何も期待していなかっただけに、喜びもひとしおです。
 ただし、繰り返しになるのですが、職場でこれをやるのは、とても難しい。「献身する事」も、重いテーマです。果たして、どこまで献身すれば十分なのか? 高飛車なお客様の、理不尽な要求にも、とにかく応えるべく努力し続けるべきなのだろうか?、と、悩みはつきません。

 ここまで、「純愛主義」について、私の感じた事を書いてきました。純愛主義に基づき、損得勘定を抜きに何の見返りも求めず行動をする事ができた場合は、精神的にとても楽になるという事は、家族との関係を通して、実感として理解できた部分もありました。しかし、この純愛主義を、職場の人間関係など家族以外の関係にも適用しようとすると、全く実践できていないのが現状です。
 そこで重要になってくるのが、「不完全」という部分です。この「不完全」という一言により、飯田先生は、純愛主義を全うできない我々に、救いの手を差し延べてくださっています。つまり、「純愛主義を目標に努力はするものの完全に達成できない自分」を、「大らかに許容しながら、誇り高く楽天的に生きていくこと」が重要だと、教えてくださっているのです。飯田先生は、この「不完全」という部分の重要性を、繰り返し言葉を変えて、説明してくださっています。

 『
「純愛」というのは、大きな目標でいいんですよ。どうせ、人間である限りは、完全な純愛を貫くことなど、不可能なのですから(笑)。』(136ページ)

 『
「純愛」については、人間として生きる限りは、「不完全な状態」しか、あり得ないんですよ。』(137ページ)

 『
メンタルヘルスのうえで大切なのは、「完璧を追求しすぎないこと」です。』(138ページ)

 『
損得勘定から完全に解放された無条件の愛、つまり純愛を目指して精一杯努力しているならば、時には不完全になってしまっても大丈夫ですよ。』(169ページ)

 ・・・などなどです。なぜ、ここまで、「不完全」でよいのだという事を繰り返すのか、その答えは、「誇り」という言葉がキーワードとなります。

 『
まさに、「不完全純愛主義」の道を、まっしぐらに進んでいらっしゃるわけですからね。どうぞ、大いに誇りを持って、ご自分の信じる愛の道を歩まれてください。』(139ページ)

 『
「自分は、純愛を目指して努力しているのだから、人間として正しいのだ」と、自分に対する誇りを失わないでいられるからですよ。』(167ページ)

 『
「かわいいやつだ」と大らかに許容しながら、誇り高く楽天的に生きていく』(330ページ)

 ・・・
など、「誇り」という言葉も繰り返し使い、我々に、誇りを持って生きる事の重要性を、教えて下さっています。つまり、「不完全」そのものが重要なのではなく、不完全である自分を認める事により、誇りを失わずに生きる事こそが重要なのだと、教えてくれているのです。

 その事に気づくと、損得勘定が捨てきれない私も、大いに勇気が湧いて、「明日からも、不完全でも良いから純愛主義にチャレンジしよう、努力し続けよう」と、思えるようになるのです。私が、飯田先生のご本が好きな第一の理由は、先生のご本を読むと、必ず勇気と希望が湧いてくるという事に尽きると思います。これからも、純愛主義を目指して努力し続けよう、不完全でも誇りを失わずに生きていこう、と思っています。


 さて、ここまで、本作品のメインテーマである「不完全純愛主義」について考えてきましたが、このご本は、それ以外にも、様々な教えに満ちています。ここからは、私が感銘を受けた点について、述べていきたいと思います。


 対話の中のヒント

 このご本は、対話形式で進められていますが、この対話そのものが、我々が誰かと会話をする際に大いに参考にできる、実際に使う事のできるヒントに満ちています。先生が、「誇りを持って生きる事の重要性」を説いている事は先に書きましたが、先生は相談者と対話を行う際に、相手の自尊心を傷つけないよう、最大限の配慮をしている事が伺えます。私であれば、即駄目出しをしてしまいそうな相手に対しても、決して真っ向から否定するような発言は行いません。

飯田:まあ、世間の標準に照らして言えば、一般的ではないことは明らかですが・・・ (109ページ)(やっぱり自分はおかしいですか?、という問いに対して)

飯田:
いえ、僕が信じるかどうかの問題ではなく、あなたが信じるのかどうかという問題ですよ。僕には到底信じられませんが、あなたが彼を信じると決めているならば、それを否定するほどの材料を、僕は持っていませんからね。(121ページ)(彼を信じて下さらないんですか?、という問いに対して)

飯田:
いけないかどうかというのは、僕にはコメントする資格が無いんです。(186ページ)

 ・・・
など、相談者が飯田先生から否定的な答えを引き出すような誘導尋問的な質問にも、注意深く、相手をストレートに否定する答え方を避けています。更に、相手の良い部分は徹底的にほめて、とことん相手を肯定します。

 『
あなたは純粋な御方で、母性本能がとても強くて世話好きなので、彼を放っておけなかったのでしょう? ・・・しかも、彼が大きな夢を熱く語るのを見て、その姿に惚れ込み、彼の夢を叶えてあげたいと、本当に願ったのでしょうね。そんなあなたの、純粋な優しさや愛情深さを、僕は否定することなどできません。あなたは、人間が本来あるべき、素晴らしい性格の御方なのですから。』(125ページ)

 
このような答え方は、私も、他人と会話する上で、参考にすべきだと思いました。飯田先生のように上手にできるとは思えませんが、少なくとも、相手をできるだけ否定しないように、特に、相手の誇りを傷つけるような否定の仕方はしないように、気をつけてもつけすぎる事は無いと思います。このような努力は、是非とも続けていきたいと思っています。


 奇跡的現象の公開について

 今回のご本では、第1話で、光の世界にいる魂たちとのコミュニケーションによってもたらされた、奇跡的現象の事例が2例、公開されています。ここでは、その事の意味について、考えてみたいと思います。
 飯田先生は、亡くなった方々が魂として存在し続けていることの証拠を求める相談者に対して、以下のように話をされ、奇跡的現象に依存する事の危険性を教えられています。

 『
一度「奇跡的現象」の存在を知ってしまうと、麻薬に冒されたようになって、さらなる奇跡を求めてさまよい始め、どんどんスピリチャルな世界に「はまって」しまい、かえって救えなくなるんですよ。』(23ページ)

 ・・・
と言いながら、今回、敢えて2例も最近の実例を公開した事には、どのような意味があるのでしょうか?
 一つには、実際に身近な方を亡くされ、亡くなった方が魂として今も存在し続けている事を確信したいと、切実に願う方々を救う意味もあるのだと思いますが、その他の読者、私も含めた一般読者にも広く公開する意味は、どこにあるのでしょうか?

 
私が興味深く感じたのは、今回公開された事例が2例とも、「亡くなったお子様の魂が、肉親を救うために飯田先生にコンタクトしてきている」という事実です。『生きがいの創造II』で、第1の事件として公開なさった事例も、これと同じ構図でした。よって、「子供だった魂が物質世界での両親を救う」という構図は、奇跡的事例の中でも、「生きがい論」の象徴的な事例だという事が出来ると思います。
 これらの事例に共通する事は何か?・・・それは、子供だった魂が光の世界に戻ると、まだ肉体を持って暮らしている両親に対して、何とも普通の人間では考えられないほどの深い愛情を注いでくれている、という事実です。物質世界に生きる我々にとって、子供は、自分が愛情を注いで育てる存在だと捉えています。実際、特にまだ幼い息子などは、わがままな態度をとる事も日常茶飯事で、未熟な存在であり、親として子供を守り育てていかなくてはなりません。
 しかし、そんな未熟な存在であるはずの子供たちも、ひとたび光の世界に帰ると、きわめて慈悲深い存在として、深い愛をもって、親だった人間たちを見守ってくれている事がわかります。それは、まさに「不完全純愛主義」から「不完全」を取り除いた、完璧な純愛主義を実行する姿であると言えるものです。物質世界では、幼く、守るべき存在だったはずの子供達が、光の世界では、逆に、完全な愛で親たち救おうとしてくれているという逆転現象を、見て取る事ができます。
 この事から、「どんな人間(物質世界では不完全で頼りない存在に見える私たち)も、光の世界に帰った時には、慈悲深い存在に戻る事が出来るに違いない」と、考える事が出来るのです。私も、おそらく光の世界に戻れば、慈悲深い姿に戻る事ができ、おそらく、それが魂としての自分の本来の姿なのだと思います。しかし、物質世界ではさまざまな制約があり、完全に純愛主義を実行する事はできません。むしろ、完全な愛とは真逆の位置にいるといっても良いと思います。
 ところが、逆に言うと、不完全な状態は、物質世界に生きている間にしか体験できないからこそ、貴重なのかもしれません。物質世界という制約ある世界で、純愛主義を実行しようと努力すると、さまざまな壁にぶつかります。だからこそ、日々悩んだり、落ち込んだり、時にはうまくいって喜んだりと、さまざま体験ができるのも事実だという事に気づきます。
 光の世界にいる魂たちによる奇跡的現象を知る事で、「光の世界では本当に何でもできてしまうんだな」という事がわかりますが、同時に、「物質世界では制約があるからこそ、さまざまな貴重な体験ができるのだ」という事を、逆説的に教えてくれているような気がいたします。奇跡的現象をあえて公開する事の意味は、そういった事もあるのかも知れないと思いました。


 生きがい論の活動、飯田先生の役割と使命について

 
飯田先生は、ご本の中で、「生きがい論」の活動をどのような方針でなさっているのか、先生の役割や使命をどのように考えているのか、という我々の疑問にも、答えてくださっています。その部分を、ピックアップしてみます。

 『
素直に信じてくださる方々を、一人でも多く救いたいのです。僕の「生きがい論」活動は、宗教ではないので信者を増やす必要はありませんし、ビジネスでもないのでお客様を増やす必要もありませんからね(笑)。』(21ページ)

 『
いま目の前にいるその人を救うことができれば、それでいいんですよ。』(22ページ)

 『
僕にとって大切なのは、あなたがすでに、その男性を愛してしまっているという事実であって、その事実を評価・断罪するのは、僕の役割ではありません。僕が神様ならば、あなたを評価できるでしょう。あるいは、僕が宗教家ならば、聖書やお経など神仏の教えを根拠にして、あなたを指導できるでしょう。また、僕が裁判官や警察官ならば、法律に従って、あなたが法を犯した時には処罰できるでしょう。しかし、僕はいずれでもありませんので、あなたの行為を断罪する根拠や資格を、まったく何も持っていないのです。それどころか、あなたは何らかの助けを求めて、ここにおいでになったのですから、僕はあなたを責めるのではなく、あなたの心の支えにならなければなりません。』(184ページ)

 『
叱ったり責めたりするのではなく、あなたをお助けするためのアドバイスでよろしければ、喜んで差し上げますよ。それが、僕の使命ですから。』(185ページ)

 『
僕は、「善か悪か」という評価基準は、持っていません』(177ページ)

 『
僕の考え方こそが正しいとは、決して申しません』(180ページ)

 『
あなたの恋愛願望に対して、言葉の上で「やめなさい」と制止するのは簡単ですし、逆に「どんどんやりなさい」と調子に乗せるのも、簡単なことです。しかし、それでは、カウンセラーの使命を果たしたとは言えません。この両極端の選択肢の間で揺れ動く、あなたの意思や感情を、あの手この手で確認したり、整理したりしながら、あなたの硬直した思考状態に刺激を与えるのが、カウンセラーの使命なんですよ。僕は、「あなたの選択結果に対する責任」は取りませんが、その一方で、「あなたの選択作業を手助けする責任」を、精一杯に果たしているというわけです。』(202ページ)

 『
僕から「使命感」を取ったら、何も残りませんよ(笑)。』(257ページ)

 これらの部分から、飯田先生の「生きがい論」活動の特徴を、私が思いつくままに書き出してみます。

 
第一の特徴は、「生きがい論の活動は、目の前の方を救う事だ」と、繰り返し言われているという事です。「世の中を変える」とか、「多くの人々を啓蒙する」といった考え方ではなく、「目の前の一人を救う」という方針が、「生きがい論」活動の最も重要な基本方針と言っても良いと思います。

 
第2の特徴は、いかなる組織も作らずに活動なさっているという事です。このご本でも、『僕の「生きがい論」活動は、宗教ではないので信者を増やす必要はありませんし、ビジネスでもないのでお客様を増やす必要もありません』と書かれていますが、この部分を読んで、「なるほど」と思いました。今まで、「飯田先生は、なぜ頑なに、組織を作る事を拒んでいらっしゃるのだろうか?」と不思議だったのですが、この部分を読んで、ある重要な点に気づきました。
 組織を作ると、どうしても、組織の維持拡大を目指した「損得感情」が発生します。宗教であれば、信者を増やさなくてはならないし、ビジネスでは、お客様を増やさなくてはならない。非営利団体であっても、組織になった瞬間に、組織を維持するためにさまざまな制約が発生し、そこには必ず、「損得感情」を働かせる場面が生じてきます。飯田先生は、あえて一人で活動なさり、いかなる組織も作らない事により、損得感情から解放され、目の前の方を救う事に純粋に集中できる環境、まさに不完全純愛主義を実践できる環境を、自ら作り出していらっしゃったのです。
 何事においても経済的合理性が優先される現代社会、あれほどの大惨事を発生させても経済的理論で原発再稼働が是とされる程、経済優先が当たり前となっている日本社会において、真の意味で損得感情にとらわれずに活動を行っている、「光の学校」の無償カウンセリングという形でそれを実行なさっているという事は、正に現代の奇跡といって良いのではないかと思います。光の存在たちによる奇跡的現象よりも何よりも、飯田先生の「生きがい論」活動そのものが、正に奇跡なのだと気づきました。

 
3番目の特徴は、「徹底的に相手の味方になる」という事です。「僕はあなたを責めるのではなく、あなたの心の支えにならなければなりません」や「叱ったり責めたりするのではなく、あなたをお助けするためのアドバイスでよろしければ、喜んで差し上げますよ」といったセリフに、その特徴がよく表れています。また、「僕が神様ならば、あなたを評価できるでしょう。あるいは、僕が宗教家ならば、聖書やお経など神仏の教えを根拠にして、あなたを指導できるでしょう。また、僕が裁判官や警察官ならば、法律に従って、あなたが法を犯した時には処罰できるでしょう。しかし、僕はいずれでもありませんので、あなたの行為を断罪する根拠や資格を、まったく何も持っていないのです」ともおっしゃっています。つまり、飯田先生は、いわば「何者でもない」という立場に立つ事により、相手の立場や状況に関係なく、相手を断罪するという行為そのものを放棄し、徹底して相手を支え、助ける事に集中しておられるのです。

 
4番目の特徴は、「既存の価値観、倫理観、判断基準に縛られない」という事です。これは第3の特徴でも述べた内容ですが、相手を断罪する事を放棄する態度とつながります。第2話や第3話に登場する相談者は、既存の価値観なら容易にダメ出しをしてしまいたくなりますが、既存の価値観で安易に相手を断罪する事なく、『僕は「善か悪か」という評価基準は持っていません』と断言なさった上で、相手へのアドバイスを行っておられるのです。
 それでは、飯田先生は、いったい何を基準にカウンセリングを行っているのでしょうか? その事を直接的に語っている部分は、今回のご本の中にはありませんが、「純愛主義で目の前の相手を助ける」という事に、尽きるのだと思います。つまり、飯田先生のカウンセリングは、目の前の方に純愛主義を飯田先生自ら実演して見せた上で、「あなたも、不完全でもいいから、純愛主義で生きてみてはいかがですか?」と、やさしく諭してくださっている、という言い方ができるかも知れません。

 
第5の特徴は、強い使命感です。『僕から「使命感」を取ったら、何も残りませんよ』という言葉にもあるように、「生きがい論」の活動が、強い使命感(もしかしたら使命感のみ)に支えられた活動だという事がわかります。

 
ここまで、飯田先生の「生きがい論」の活動の特徴を、私が思いつくまま書いてきましたが、驚いた事に、「生きがい論」の活動と「不完全純愛主義」は、切っても切れない関係にあるという事がわかりました。「不完全純愛主義」は、「生きがい論」の活動そのものだと言っても良いと思います。「生きがい論」20周年目の節目に、本書が出された事の意味を、改めて感じました。


 
愛する事について

 
今回のご本は、タイトルにも「愛」という言葉が出てくる事からもわかるように、愛する事について、多く語られています。タイトルに「愛」という言葉がつくのは、初期の代表作の一つである「愛の論理」以来、実に15年ぶりです。
 そこで、愛する事について語られた部分を、ピックアップしてみます。

 『
相思相愛になれること自体は、とても幸せなことなんですが、それに絡んでお互いの心身や環境に生じてくる、さまざまな事態に対処するための、覚悟や準備ができていないんです。』(190ページ)

 『
大切なのは、「どんなに想定外の事態に襲われても、自分は冷静に、頑張って対処して乗り切るぞ!」という、強い覚悟』(191ページ)

 『
「相思相愛になれても、二人の間だけでとどめておく覚悟」「大騒ぎになっても、愛する人を信じて頑張る覚悟」「場合によっては、相手のために綺麗に別れる覚悟」という、三種類からなる覚悟』(193ページ)

 『
お互いに、厳しい条件の中で愛し合うというのは、よほどの覚悟が必要』(194ページ)

 『
誰かを愛することは、本当に素晴らしいことです。そして、愛してはならないように思える立場の人に、なぜか強烈に惹かれてしまうということも、誰にだって、あり得ることです。』(195ページ)

 『
1.告白した結果、相手から断られた場合、潔く、この恋愛はあきらめて身を引くこと、2.相思相愛になれたとしても、その後に相手の気が変わって、振られてしまった場合には、潔く、この恋愛はあきらめて身を引くこと、3.相手が承諾しない限りは、二人の関係を、決して誰にも言わずに隠し通すこと』(204ページ〜)

 『
その苦しさは、人を愛する苦しさであって、愛する人に出逢えた喜びや幸せと、表裏一体の関係にあるんですよ。人を愛するというのは、そんなふうに、とっても幸せで、とっても苦しいことなんです。逆説的な表現ではありませすが、「苦しいほどの幸せを味わえる」というのが、人を愛することの醍醐味ではないでしょうか。』(213ページ)

 『
(夫婦関係は)あらゆる人間関係のうちで、最も「お互いさま」の関係です。相手を充分に愛して優しく接し、相手の自由と意思を尊重し、より魅力的な人間になろうと努力している人が、妻や夫に一方的に裏切られるという事態は、決して起こりませんよ。』(264ページ)

 『
「永遠の愛を実践する」というのは、単に自分が相手を愛し続ければ良いわけではなく、相手が自分を愛してくれるように、自分を磨き続けることでもあるのです。』(268ページ)

 『
「愛する」というのは、具体的な努力を要する、大きな責任を伴う行為なんですよ。』(269ページ)

 
人を愛するためには覚悟がいるという事。具体的な努力を要する、大きな責任を伴う行為であるという事。単に相手を愛し続けるだけでなく、相手が自分を愛してくれるように、自分を磨き続ける事も必要だという事。とても苦しいことだという事など、一見、厳しい言葉がならんでいます。
 しかし、同時に、「誰かを愛することは、本当に素晴らしいこと」であり、「とっても幸せ」な事だともおっしゃっています。そして、『逆説的な表現ではありますが、「苦しいほどの幸せを味わえる」というのが、人を愛することの醍醐味ではないでしょうか』という一言に、飯田先生のおっしゃりたい事が集約されているように思います。


 
人間関係について

 
このご本では、人間関係についても、興味深い言及があります。その部分をピックアップします。

 『
人間関係なんて、しょせん、何が何だか、わからないものなんですよ(笑)』(145ページ)

 『
人生には、自分が「絶対にこうしたい」と思っても、思い通りにならないことが満ちているんですから・・・特に、人間関係においてはね。』(239ページ)

 
飯田先生は、人間関係は「しょせん、何が何だか、わからないもの」であり、「思い通りにならないことが満ちている」とおっしゃいます。全くその通りだ、と私も思います。
 そこで、「私たちはどうすれば良いのか?」という疑問についても、飯田先生はヒントをくださっています。

 『
あなたが「純愛」を目指すということは、その時点から、「あなたと彼との間の問題」ではなくなって、「彼からの見返りを求める自分と、見返りなんか求めない自分との間の問題」へと、昇華するんです。したがって、彼の意向とは関係なく、すべては、あなたの手の中にあるということに・・・』(224ページ)

 
この部分を読むことにより、「人間関係とは、何が何だかわからず、思い通りにならないものだからこそ、不完全純愛主義が大切なのだ」という事に気づきます。つまり、純愛を目指す事により、自分と相手との関係(何が何だかわからず、思い通りにならない関係)を、自分と自分の関係(すべてが自分の手の中にある関係)に、変えることができるのだという事なのです。


 
天について

 
次に、天や神、仏といった概念についえ考えてみます。飯田先生が、これらについて語られている部分を、ピックアップします。

 『
恋愛の試練は、すべて、天から与えられるものなんですから。』
 『
「恋愛において生じる問題は、この世の誰のせいでもなく、天が与えてくださる試練である」とね(笑)。なにしろ、「天のご意志」なんですから、しょせん、私たち人間の脳のレベルでは、その理由や仕組みを理解できるはずがありません。我々の脳で納得できるように解明しようと試みること自体が、無意味な挑戦だと言えるでしょう。』(240ページ)

 『
この世で生じる、人智を超えた不可解な現象というのは、すべて、天のご意志、つまり「天命」であるに決まってるんですよ。』(242ページ)

 『
私たちは、天のご意志に従いながら人生を計画して生まれて来るのですから、人生で直面する数々の試練というのは、天の大きなご意思に従いながら、より具体的に自分で用意しておいた、練習課題や試験問題だというわけです。』
 『
「天」と「自分」というのは、まったく別のものではなくて、つながって、重なり合っているわけですね?』
 『
その通りです。したがって、「自分で用意しておいた試練」というのは、その大前提として、天のご意志を反映したものであるわけです。しかし、「天」という言葉、つまり「神」の概念を強調しすぎると、宗教的な教えと混同されてしまう恐れが出てきます。僕は決して宗教の価値を否定していませんが、僕自身は宗教家ではありませんので、宗教的な教えとは区別するために、「自分で用意しておいた」という表現を用いているんですよ。』(243ページ)

 『
僕が宗教家であるならば、このように表現するでしょう・・・「神様の、神様による、人間のための試練」・・・僕は宗教家ではありませんので、同じことを表現するために、このような言葉を用います・・・「自分の、自分による、自分のための試練」』
 『
「彼が自分で自分に与えておいた練習問題」であると同時に、「天が与えてくださった貴重な学びの機会」だということなんです。』(244ページ)

 『
人智を超えた出来事は、すべて、天がお導きくださった運命、すなわち「天命」であると、合理的に解釈してみてください。』(274ページ)

 『
単に「あきらめる」んじゃなくて、「これが天命であると理解して、受け入れる」んですよ。人智を超えた問題に直面したり、瀕死状態とも言える崖っぷちに追い詰められてしまった時には、このような思考法こそが、最も合理的なんです。』(275ページ)

 
これらの部分を読んで、読者である私は、天や神様という概念についてどう考えれば良いのでしょうか?
 まず重要なのは、天や神様の存在を認めてしまう、という事です。そして、自分も「天」や「神様」とつながっており、本質的には同じ存在だと考えるという事。ただし、人間の脳のレベルでは理解できない、人智を超えたものである、という事です。
 
私としては、神の存在は認めつつも、それが何なのかを無理に理解しようとはせず、ただ存在を信じ、人智を超えた出来事に遭遇した場合には、「天命」と理解して受け入れる事が需要と、肝に命じて行きたいと思います。


 
運命の人について

 
この本では、「運命の人」についても、興味深い言及があります。

 
たとえ運命の人が存在していて、その時期が来ていても、特定のスイッチを押さなければ出逢えないように、仕掛けてあることが通常だ。あるいは、すでに出逢っていても、特定のスイッチを押さなければ、相思相愛になれないように仕掛けてあるんだよ』(314ページ)

 『
とても辛い試練を乗り越えた時に、そのご褒美として、運命の人が出現しやすい』
 『
「生活や進路が変化するような、勇気のいる試練に挑戦した時に、その協力者・支援者として、運命の人が出現しやすい』
 『
「自力で探し出すことにこだわらないで、謙虚にほかの人たちの力を借りる方が、運命の人が出現しやすい』(316ページ)

 
この中で、私が特に惹かれるのは、試練を乗り越えた時や勇気のいる試練に挑戦した時に、運命の人が出現しやすいという部分です。運命の人が出現しやすいという表現は、天の助けを得られやすい、と言い換えても良いと思います。
 つまり、我々は試練を乗り越える、試練に挑戦する事が人生の本分であり、そうすれば天は助けてくれるのだ、という事です。よって、試練に遭遇したら、天の助けを得るチャンス、運命の人に出会うチャンスに恵まれたと、考えても良いのかもしれません。


 
他人に対して

 
私が他人に接する際のヒントと感じた部分を、ピックアップします。

 

 『彼の価値や、あなたと彼が過ごしてきた日々を否定しないで、彼に感謝と賞賛の言葉をかけ、彼のプライドを大いに立てて、男の面目を保ってあげることですよ。』(251ページ)

 『
「自分と価値観が合う人」を求めてしまう人が多いんだけど、そもそも、相手は別の人生を歩んできた知らない人なんだから、「価値観が合うかどうか」という基準を重視すると、かえって価値観の違いに目が行ってしまうことになる。だから、もっと大切なのは、「価値観の違いはあっても、それが問題にならない人かどうか」、という評価基準なんだ。』(318ページ)

 
この部分から、他人と接する上で重要な点は、「相手のプライド、自尊心、誇りを大切にしてあげる」という事、「自分に誇りを持つ事が重要なのと同じように、相手の誇りを大切にする事が重要なのだ」という事、「価値観の違いを認める事」などの重要性に、気づくことができます。


 
最後に

 
ここまで、「愛に悩んだ時どう生きるか」を読んで、私が感じた事、感銘を受けた事、興味を持った表現などについて、感想を述べてきました。この本から学んだ事、いただいた勇気と希望を胸に、明日からも純愛主義を目指して努力し、挫折する事があっても決して誇りを失わずに生きていこうと、改めて決意して、終わりの言葉といたします。

 
拙い長文におつきあい頂き、また貴重な機会を頂き、本当にありがとうございました。