第五章 旅立ち編(2026年1月から3月)

著者:ゴードン4号

 年越しツアーの記録を書き終え、僕が最初にやったことは、井の頭公園の中にあるお寺への参拝だった。

 年明け早々、僕は大スランプに陥り、なかなか執筆に集中できない日々が続いた。それでも三週間近くかけてそれを乗り越え、なんとか区切りの良いところまで書き終えた。そこで、意を決して、初詣に行くことにした。

 「意を決して」と書いたのは、このお寺に参拝すると必ず大きな変化が起きるからだ。過去三回の参拝では、体の不調、職場での異動、新たな人との出会いなど、小さくない変化が必ず起きた。しかも、参拝から変化が起きるまでのスピードが、回を追うごとに早くなっていた。

今回も、何か大きな変化が起きるかもしれない。それを受け入れる覚悟で、僕は目を閉じ、手を合わせた。

 マントラを唱え、頭を下げる。願いごとは何もしない。ただ今に感謝する。ここまで僕を導いてくれた大きなもの、光たちに感謝する。そして今後も、その導きを受け入れることを誓った。


 そのまま自宅まで歩いて帰った。足取りは軽快だった。雲ひとつない青空を見上げながら歩いた。

 「小説家さん、あなたは、サンダーバードに出てくる人形によく似ています」

 ふと、先生に言われた言葉を思い出した。

 調べてみると、サンダーバードの登場人物の中に僕とよく似たキャラクターがいた。ゴードン・トレイシー。サンダーバード4号のパイロットだった。先生は、僕がこのキャラクターに似ているとおっしゃったのだ。

 「ゴードン4号」――そのとき、僕はハッと閃いた。その名前は、まるで神からの贈り物とでもいうように、天から突然降りてきた。そして、それは先生からの贈り物でもあった。ゴードンに似ているのを教えてくれたのは、先生だったからだ。

 これは、僕の新しい名前に違いない。僕は、生まれ変わることを決めた。これからの人生、ゴードン4号と名乗ろう。


 この日の夜、寝床で、ここまで導いてくれたことに感謝を告げた。そして、明日の朝目覚めたら、新たな人生をスタートさせることも誓った。

 明日から生まれ変わり、ゴードン4号として生きる。

 それを誓って、静かに目を閉じた。




2026年1月19日


 ゴードン4号として生きると決めた最初の朝。明け方に寝返りを打った瞬間、ぐらりと体が大きく揺れた。めまいだ。昔、耳石がズレたときと似た、嫌な感じのするめまいだった。

 体を仰向けの体勢に戻して、天井を見つめる。今日は動かない方がいいかもしれない。しかし、この日の午後には、自分が司会進行と説明員も務める重要な会議があった。何か月もかけて進めてきた仕事でもある。今日は会社に行かないわけにはいかない。

 幸いにも、めまいはすぐに治まった。僕はゆっくりと慎重に布団から出て、いつものように家を出た。

 電車の中では小説の推敲をした。さらにスタバでも推敲を続ける。もっと推敲を続けていたいのだが、今日は多くの仕事が待っている。早々に切り上げて会社に行った。

 オフィスに着くと朝から忙しく働いた。いくつかの緊急な案件を処理した後、会議の準備と実行に集中した。幸い、その重要な会議は、少しだけ予定時間をオーバーしたことを除けば、概ねうまくいった。

 会議を終えて自席に戻ると、ぐったりとした。チラリと宮崎さんの姿が目に入った。彼の視界にも僕の姿が映ったのだろう。彼は僕に対して拒絶のポーズを示した。

 「ありがとうありがとうありがとう」僕は心の中で、ありがとうを念仏のように唱えて、それを必死にやり過ごす。会議中にたまったメールに一通り目を通すと、早々に会社を出た。

 グリーン車の背もたれを倒して、体を預ける。思った以上に疲れている。

 五か月近くかけて準備したプロジェクトの、実務レベルのキックオフ。それを無事に終えた。僕は実質的なプロジェクトリーダーだったわけだが、なんとか目標に掲げた日程どおりで、キックオフができた。なんとも感慨深い。

 最寄り駅に着いて歩き出し、空を見上げた。月は出ていない。そう、この日は新月だった。新しいことを始めるには、もってこいだ。


 僕はまさにこの日、新しいスタートを切った。会社では、新プロジェクトをスタートさせたし、何より、今日はゴードン4号として生きる最初の一日だった。

 新月の日に重要なスタートを切った。僕の新しい人生は、うまくいくに違いない、そう思えた。




1月20日


 夜中に目が覚めた。時計を見ると、午前152分だ。目を閉じて、左側に寝返りを打った瞬間に、ぐらりと大きく体が揺れた。

 まるで頭全体が後ろに引っ張られるように、右側に反転した。頭につられて、体全体も右側に反転する。視線の先の壁が揺れている。めまいだ。完全なめまいだ。

 慌てて体を仰向けの体勢に戻し、上を見た状態で目を閉じる。

 枕を高めにして安静にすると、とりあえずめまいは治まった。だが、吐き気がする。全身から冷や汗も出て、暑いのか寒いのかわからない。

 深呼吸をしてみるが、吐き気はなかなか消えてくれない。

 少しでも体を動かすと、まためまいを起こしそうだ。体を硬直させる。

 全身から出た汗が、体中にまとわりつく。下着を全て着替えたいが、起き上がることはできそうにない。

 眠れないまま、うんうんと唸り続けた。やっと少しだけ、ウトウトした頃には、明け方になっていた。


 この日は仕事を休み、ひたすら布団の上で安静にした。夕方になんとか起き出し、耳鼻科に向かった。外はこの冬一番の冷え込みで、ダウンコートを着込んでいても、とてつもなく寒かった。冷たい風に吹かれながら、めまいを起こさないように慎重に歩いた。

 耳鼻科での診断は、突発性難聴もしくはメニエール病。「ストレスが原因でしょう。ストレスを取り除くことが一番重要です」と、医師は言った。

 ストレスと聞いて思い当たる節はあった。しかし、それを取り除くのは簡単ではない。




1月21日


 いつもどおり5時に起きて、会社に向かった。中央線の電車の中で、気分が悪くなり始めた。グリーン車の座席をリクライニングにしても、効き目がない。

 会社でパソコンだけ取ってから、自宅へ戻ることにした。7時前にオフィスに着くと、なんともう宮崎さんが出社している。「おはようございます」とオフィス全体に聞こえるように声を振り絞るが、もちろん、彼は何も答えない。

 僕の心臓は、キュッと締め付けられたように縮み込む。めまいを起こさないよう、姿勢だけはまっすぐに保ったまま、キャビネットからパソコンを取り出し、すぐに会社を出た。

 気分が悪い。一刻も早くこの場所から離れなくてはならない。

 中央線に乗ると、少し気分が落ち着いてきた。朝7時台の下り電車の乗客はまばらだ。僕の乗ったグリーン車二階には三人しか乗っていなかった。




脳神経外科にて


 帰り道に、脳神経外科に立ち寄ることにした。念のため、脳には異常がないことも確認しておきたい。開院直後の病院は空いていて、すぐに診てもらえた。MRIは初めてだった。

 仰向けに寝て、細長い筒のような空間に閉じ込められる。暗いのと狭いのは特に気にならないのだが、枕無しで仰向けに寝ていると、今にもめまいや吐き気が再発しそうで怖い。二十分もかかるという。

 ガリガリガリ、ピコピコピコ、グオーン、グオーン、グオーン

 不思議な音が、轟音で鳴り響く。僕は、めまいを起こさないように、目を閉じて、深呼吸をしながら、ありがとうを唱え続けた。

 ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとう

 めまいも、吐き気も、起きないようだ。なんとか、落ち着いてきた。

 気分が落ち着くと、不思議な音に誘われて、空想の世界に入った。

 ピコピコピコピコ
 ピコピコピコピコ

 この音は、子供の頃、駄菓子屋に置いてあった、ルーレットゲームの音に似ていた。僕は、半世紀近く前の駄菓子屋での出来事を思い出していた。


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駄菓子屋のルーレットゲーム


 僕が小学生だったのは、昭和五十年代のことだ。その頃、僕が住んでいた鹿児島の駄菓子屋の店先には、電子式のルーレットゲームが置かれていた。

 一枚十円のコインを入れて、好きな数字を選ぶ。2461020の中から選んで、スタートボタンを押すと、電子音と共にルーレット上をライトがぐるぐると回る。ライトが自分の選んだ数字で止まれば、数字の数だけメダルが出てくる。2のスポットは数が多く、当たりやすい。1020のスポットは、ごく僅かしかない。そして、一か所だけ数字の書かれていない特別なスポットがあり、そこに止まると「ゴールデンコイン」と呼ばれる特別なコインを獲得できる。このゴールデンコインは幻のコインで、このコインを手にすることが子供たちの憧れだった。

 お小遣いの少ない僕は、ルーレットゲームをやるようなお金は持っていなかった。いつも、誰かがゲームをやっているのを、横で眺めているだけだった。いつか僕もルーレットゲームをやってみたい、そう思いながら指をくわえているのが常だった。


 あれは、僕が六歳か七歳の頃の夏休みだったと思う。僕は両親に連れられて、少し離れた場所に住む、いとこの家に遊びに行った。僕より三歳年上のいとこは、とても大きく、頼りがいのあるお兄ちゃんだった。

 いとこのお兄ちゃんは、僕を駄菓子屋に連れていってくれた。いとこのおばさんがくれた五十円のお小遣いで好きなものを買うといい、とお兄ちゃんは言った。

 僕はその店の軒先に、ルーレットゲームがあることにすぐに気づいた。ドキドキした。僕がずっと前からやってみたかったゲームがある。しかも今日、僕にはいとこのおばさんにもらった五十円のお小遣いもある。今日こそ僕はそのゲームをやってみたい。

 でも僕がそれを言い出す前に、いとこのお兄ちゃんは駄菓子屋の中に入っていってしまった。僕もお兄ちゃんの後を追って、お店の中に入った。


 お兄ちゃんは、まずは二十円でアイスを買おうと言った。「当たりが出たら、もう一本食べられるからね」と教えられたけど、お兄ちゃんも僕もハズレだった。それから今度は十円ガムを買った。これも、当たりが出たらもう一個もらえるはずだったけれど、ハズレてしまった。その次には、十円でクジを引いた。一等は戦闘機のプラモデルだ。これは喉から手が出るほど欲しい。「もし当たったら、僕が組み立ててあげるよ」と、お兄ちゃんは言った。でも、今度も二人ともクジはハズレで、もらえたのは小さな飴玉一粒だった。

 あっという間に、僕のお小遣いは残り十円になった。「あと十円か。何に使う?」と、いとこは言った。僕は勇気を出して、ルーレットゲームがやってみたいと言った。するとお兄ちゃんは、駄菓子屋のおばさんに言って、僕のためにルーレットゲームのコインを買ってくれた。さらに、自分の小遣いの十円もコインに交換して、僕に二枚のコインを渡した。


 僕は喜んで店を出て、軒先のルーレットゲームの前に行った。でも、そこには四、五人の子供たちがいて、ゲーム機を占拠していた。僕よりずっと大きな子供たちだ。男の子数人に女の子一人が加わったグループだった。歓声を上げながら、ゲームをしている。僕はそこに割って入って、ゲームをする勇気はなかった。ゲーム機の横に立ち、自分の順番が来るのを待つことにした。ゲーム機を横から眺めるのは慣れている。できれば、この知らない子たちがいなくなってから、誰にも邪魔されずにゲームをやりたい。僕はそう思っていた。

 ゲーム機の横に立つ僕に、いとこのお兄ちゃんが声をかけた。「順番を変わってもらったら?」僕は首を横に振った。「今、見てるところだからいいんだ」「そう? じゃあ、僕、ちょっとこの近くの、友達の家に漫画を返しにいくから。すぐに戻ってくるから、待っててね」お兄ちゃんは、そう言い残していなくなってしまった。

 お兄ちゃんがいなくなると、僕は急に寂しくなった。僕は、ひたすらゲーム機の横にいて、自分の順番が来るのを待つことにした。

 ゲーム機を占拠したグループの子供たちは、代わるがわるそのゲームをやった。中でも、女の子がゲームをやる回数が圧倒的に多かった。体も大きく、いかにも気が強そうな女の子だった。声も大きく、周りの男の子たちが何か言うたびに、ガハハと大きな声で笑った。

 彼女は、とても大量のコインを持っているみたいで、次々とコインを投入した。コインが少なくなると、男の子たちがゲームをしている間に、おばさんのところに行って追加のコインを買い、また次々とコインを投入した。当たったり、ハズレたりを繰り返し、その度に歓声を上げたり、ため息をついたりした。

 途中で一度大当たりが出て、コインの枚数はかなり増えた。しかし、その後は、だんだんとハズレることが多くなり、彼女のコインは少しずつ減っていった。


 ついにコインが全てなくなると、その子は財布から百円を取り出し、駄菓子屋のおばさんに、追加のコインを買いたいと申し出た。口ぶりから、彼女のお小遣いの最後の百円らしかった。もう、他の男の子たちもコインを使い果たしていて、これが最後の勝負になるらしかった。

 6にかけてハズレ。10にかけてハズレ。20にかけてまたハズレ。彼女が最後の大勝負に出ているのは、誰の目にも明らかだった。

「デカい数にかけても、当たらないが」

 周りを取り囲む男の子の一人が言い、今度は、彼女は2にかけた。すると今度は、彼女を嘲笑うかのように、6が出た。彼女は、次第に、焦りと落胆と苛立ちの色を大きくしていった。

 一回だけ4の当たりが出て、持ち直したものの、その後はハズレが続き、彼女のコインは、あと数枚のところまで減った。

 彼女が弱気になり、2を選んでルーレットを回した直後だ。僕は何かの拍子によろけて、ゲーム機の電源ケーブルを踏んでしまった。そのせいでコンセントが抜けて、ルーレットの画面は真っ暗になった。誰かがコンセントを入れ直すと、ゲーム機の画面は初期の状態に戻ってしまっていた。回りかけだった彼女のコインは、当然戻ってこない。


 顔面蒼白になって立ち尽くす僕の周りで、ちょっとした騒ぎが起こった。周りにいた子供たちが口々に何かを言った。

「ああ、さっきの十円が無駄になった」

「どうせハズレよ」

「当たっても二枚だけだし」

「いや、ゴールデンコインが当たっていたかもしれないぞ!」

 男の子たちが、口々に叫ぶのを、女の子はルーレットゲームの画面を見つめたまま聞いていた。悔しそうに口を真一文字に結んでいる。女の子は、僕の方をチラッと見てから、店の奥に向かって大声で叫んだ。

「おばさん! この子がコンセントの線を踏んづけて抜いた! ゲームが途中でできなくなった!」

 僕は小さくなって、ブルブルと震えた。半ズボンのポケットの中で二枚のコインを握りしめていた。このコインを差し出したら、許してもらえるのだろうか? でも、そしたら僕は……

「あんた! コイン持ってないの?」

 女の子は、僕の方を睨みつけて言った。

「持ってたら、渡しなさいよ!」

 僕は「持っていない」と首を横に振りたかった。でも、その勇気が出ず、こっくりとうなずくと、ポケットの中から手を出して、ぎゅっと握りしめていた手のひらを、女の子の前で開いて差し出した。

「一枚だけ?」

 女の子が言った。僕の手のひらには、コインが一枚だけあった。二枚握っていた筈のコイン。もう一枚はどこにいったのか、わからなかった。僕は何も言わずに、手のひらを女の子の前に差し出したまま、突っ立っていた。

「まあ、いいが」

 女の子は、そういって僕の手のひらからコインを奪い取ると、またゲーム機の前に戻って、ゲームを続けた。残りのコインも全てハズレると、女の子たちは帰っていった。


「ごめん、遅くなって」背後から声がして、いとこのお兄ちゃんが立っていた。

「ゲームは、できたの?」

「うん、ちょうど終わったところ」

 僕はとっさに嘘をついた。

「そうか。ハズレたの?」

「ハズレた」

と、僕は言った。

「二枚とも?」

「うん、二枚とも」


 それから僕は、お兄ちゃんに連れられて、いとこの家に帰った。歩きながら、僕は、ゲーム機のコードを踏んづけて、電源を切ってしまったときのことを思い出していた。口々にいろいろなことを叫ぶ男の子たちと、悔しそうな表情の女の子のことを、思い出していた。ポケットの中で握りしめていた、二枚のコインの感触を思い出していた。そして、女の子に言われて、差し出してしまったコインのことを考えていた。

 でも、僕が差し出したコインは、一枚だけだった。残りの一枚は、手のひらには握られていなかった。僕は、ズボンのポケットをもう一度探った。でも、ポケットの中には、何も入っていない。

「何を考えているの?」

 無口になっていた僕に、お兄ちゃんが尋ねた。

「なんでもない」と僕は答えた。

「ゴールデンコインって、本当に当たるのかな?」と、僕は尋ねてみた。

「僕は、一度も、ゴールデンコインが出たのを見たことがないんだ」と、お兄ちゃんが言った。それから続けて

「学校のクラスに、俺は三回もあてたことがある、って言っているやつがいるけど」と言った。

「えっ、じゃあ、その子に見せてもらった?」

「見せてくれって言ったんだけど。全部友達にあげちゃったって。あげた友達は前の学校の子たちだから、もう会えないって」

「その子、転校生だったの?」

「うん、転校生だった。だから、本当にゴールデンコインが当たったのか、確かめようがなくてさ。でもなんとなく、その子の言ったことは、信じてもいいと思ったんだ。だから僕は信じてる。ゴールデンコインはあるって」

「じゃあ、僕も信じる」

「うん、それがいい」

 僕が、失くしてしまったコインは、結局見つからなかった。もし見つかったら、今度こそ駄菓子屋で、ゲームをやりたいと思っていた。そして、ゴールデンコインを当てたいと願っていた。

 でも、そんな機会は訪れることがなかった。

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 グオーン、グオーン、グオーン

 巨大な音がして、僕は急に我に返った。僕はMRIの箱の中にいた。狭苦しい箱の中で、身動きが取れない。それに少しでも動くと、めまいと吐き気を起こしそうだ。僕は、目を閉じて深呼吸をする。

 ありがとうありがとうありがとうありがとう

 念仏を唱えるように、ありがとうを繰り返す。

 カンカンカンカン
 カンカンカンカン

 今度は甲高い音が響く。踏切の音に似ている。真っ暗な中に響く、踏切の音。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」みたいだな。そう思った瞬間、僕は別の世界へ飛んでいった。


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銀河ステーション


 僕は銀河ステーションの上にいた。上空から駅を眺めている。

 ホームには、青く光る蒸気機関車が止まっている。蒸気機関車の煙突からは黒い煙が上がり、足元からは白い蒸気が「シュー、シュー」と音を立てながら勢いよく飛び出しているのも見える。

 蒸気機関車の後ろには、茶色の客車が何両か繋がれ、最後尾には車掌車も連結されている。

 僕は、その様子を上空から眺めている。

「ああ、この列車に乗りたい」

 そう思った瞬間に、僕は木造の駅舎の改札口にいる。改札口の向こうのホームには、青い客車が止まっている。客車の窓の向こうには、乗客の姿も見えている。

 僕が改札を抜けようとすると、駅員さんに呼び止められた。

「君、君の切符は?」

 僕は駅員さんに言われて、慌ててポケットの中を探る。切符なんか持っていやしない。それはわかっていたのだけれど、僕は半ズボンのポケットの中を探って、切符を探すふりをする。

 ポケットの中で何かが手に触れる。僕はそれをゆっくりと取り出す。ゴールデンコインだ。幻のゴールデンコインが、僕の手に握られている。僕はそのコインを、そっと駅員さんに差し出した。

 駅員さんは、僕からコインを受け取ると、それをじっくりと眺める。駅員さんは眼鏡をはずして、コインに刻まれた文字を表、裏とじっくりと観察する。それから、僕の方を見て、

「君、君はこの切符を、どこで手に入れたんだい?」と言った。

「なんだか、わかりません」僕が答えると、

「これは特別な切符だよ。大切にとっておきなさい」と言って、僕にコインを返してくれた。

 僕がコインを受け取って改札の中に入ろうとすると、駅員さんは、手を伸ばして、僕を通せんぼしてから、

「君の乗る列車は、この列車ではないよ」と言った。

「僕の乗る列車は、どれですか?」

「君の持っている切符は、運転台に座ることのできる特別な切符だ。君が乗る列車は、君自身が運転する特別な列車だよ」

「えっ! その列車はいまどこに?」

「それは…


 駅員さんの答えを聞こうと身を乗り出したときに、僕は背中を強い力で引っ張られるようにして、あっという間に天高くへ引き上げられ、気づくと上空から銀河ステーションを眺めている。

 蒸気機関車が大きな汽笛を鳴らし、ゆっくりと動き出した。そのまま速度を上げて、いつの間にか宇宙空間を走っている。星が輝く宇宙空間を銀河鉄道が走っていく。

 僕の視点は、銀河鉄道の動きに合わせて、ロングの映像に切り替わった。銀河鉄道の向こうに、広大な宇宙が広がっていることがわかる。そして、僕も宇宙と一体化して、銀河鉄道を眺めている。

 あの客車の中には、ジョバンニとカムパネルラがいるのだろうか? そう思った瞬間に、僕の視点は急激にズームアップして、銀河鉄道の客車の中に吸い込まれていく。

「おおっ!」

 そのリアルな映像展開に驚いて、僕は思わず声を上げる。客車の窓がもう目の前に迫っている。窓の向こうに人影が――

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 グオーン、グオーン、グオーン、プシュー

「はい、終わりましたよ。お疲れ様でした」看護師さんの声で、突然、現実世界に戻された。僕は、病院でMRIを受けていたのだ。


 その後も、めまいや吐き気と戦いながら、レントゲンや神経の検査をした。

 幸い、脳には異常なしの診断だった。耳鼻科医の指示に従って、メニエールの治療を続ければ大丈夫でしょう、と言われて病院を後にした。


 脳神経外科を出て、自宅に向かって歩き出した。気温が上がり、少しだけ暖かくなっている。僕の気分も、だいぶ落ち着いてきた。

 耳鼻科の医師は、ストレスが原因だと言った。職場がストレスになっていることは、よくわかっている。仕事を辞めてしまえば、ストレスは取り除くことができるかもしれない。

 ハッとする。仕事を辞める。もう辞めてもいいよと、光たちが教えてくれているのかもしれない。

 体を壊しては元も子もないでしょ。辞めたっていいんだよ。そう言ってくれている気がして、気持ちが楽になった。

 家に帰って、パソコンを開き、在宅勤務をした。この日は、大きなめまいはしなかった。小さなめまいは何度か起きた。吐き気が伴うほどではなかった。体調は、少しだけ、よくなったようだった。




1月22日


 明け方、油断して、左側に寝返りを打ってしまった。ぐらりと揺れた。あぶない。すぐに体勢を戻した。吐き気も伴うが、深呼吸を繰り返すうちに、なんとか持ち直した。

 油断すると、体調は一瞬で悪化するのだ。

 朝起きても体調はよくないが、なんとか会社へは行った。めまいを起こさないように、気をつけて過ごした。耳鳴りはずっと続いている。午後になると頭痛もした。


 体調が悪いので、夜もすぐに布団に入った。めまいを起こさないように、慎重に枕の高さを調節した。寝返りは打てないので、体を固くして寝た。なんだか、横になっていても、ぐったりとしてしまった。

 「今週末は、京都どころではないね」と、僕の様子を見て妻が言った。僕は妻の一言を真っ向から否定し「京都には絶対に行く」と言った。

 そう、今週末には、先生のカウンセリングの予約があった。先生に相談したいことがたくさんある。京都には這ってでも行かなくては。飛行機に乗るのは怖いが、新幹線なら姿勢さえ気をつければ大丈夫だろう。

 先生に相談したいこと。ペンネームを変えたいということ。それに、書きかけの小説を途中まででも読んでもらえないか、ということ。両親の介護について。さらには先日の年越しツアーのお礼。病気になってしまったということ。会社での人間関係によるストレスが原因ではと思っているということ。会社を休職、もしくは、辞めてしまってはどうかということ。

 相談したいことが多い。


 それにもう一つ、24日は先生の新たなツアーの予約開始日だった。HPさんのヘリコプターに乗って、京都観光を上空から楽しむツアーが発表されていた。席に限りがあるから、予約は難しいかもしれないけれど、万が一空きがあったら参加を申し込みたいと思っていた。

 正直に告白すると、ヘリコプターに乗るのは怖い気持ちもあった。ヘリコプターだけでなく、鉄道を除くと、乗り物全般に対して苦手意識があった。しかし、HPさんが操縦する姿を間近で見てみたいという気持ちはしていた。HPさんは、黒いフリースを着て立っているだけでも、ただならぬ雰囲気、独特のかっこよさを醸し出していた。ヘリコプターを操縦する最中のHPさんは、さらにかっこいいに違いない。

 それに、先生自ら駅からヘリポートまでの送り迎えをなさるというのも、大きなポイントだった。先生の愛車オデッセイに乗ることができるのは、ファンとしては、よだれが出るほど嬉しい企画だった。

 でも、さすがに今の状態では、ヘリコプターに乗るのは無理だろう。搭乗中にめまいを起こしたら、周りの人たちにも迷惑をかけることになる。それはできない。

 もちろん、4月には完全に治っている可能性だってある。だが、逆の可能性だってあるだろう。


 僕はメニエール病について調べてみた。お医者様が言っていたように、ストレスが大敵だとある。原因が特定されておらず、根気よく治療する必要がある。症状が繰り返すようなら、休職して治すのも一つの方法だとあった。

 休職ということを初めて考えた。休めってことなのかもしれないと思った。




1月23日


 目覚めると、相変わらず耳鳴りがしている。気がつくと、会社の人間関係について考えている。考えるのは、もうやめよう。

 めまいを起こさないように、そろそろと起き出した。いつもよりかなり遅く、家を出ると、東の空の朝焼けがきれいだった。

「気をつけてね」と、妻が二回声をかけてくれた。「ありがとう」と答えてから、歩き出す。本当にありがたい。こうして、会社に行くことができるだけでありがたい。もしかして、それは今日が最後かもしれない。今日が最後と思って過ごそう。

 仕事中も、めまいを起こさないように、首の動きには気をつけながら過ごした。

 昼過ぎまでは、体調は悪くなかった。しかし、午後に入り、宮崎さんの姿が目に入った途端、具合が悪くなり始めた。激しい頭痛。

 耐えられず、17時過ぎには会社を出た。


 家に帰ると体調は回復してきた。いよいよ明日は京都に行く。光の学校で先生のカウンセリングを受ける。

 先生のホームページを開くと「ヘリコプターツアーは延期」と書かれている。「パイロットさんの無事を祈る」ともある。もしかして、僕が今週体調を崩したのと同じタイミングで、HPさんも体調を崩されたのかもしれない。




1月24日


 光の学校に到着したのは、1240分過ぎだった。スタッフのみなさんに挨拶してからホールに入ると、先客がいた。女性が一人で読書をされている。

 話しかけてみようかと、一瞬思ったがやめにした。背の高い椅子に座って瞑想をし、心を落ち着けることにした。


「森田さん、お待たせしました」

 スタッフのSCさんに声をかけられ、僕は先生の部屋の扉の前に立った。ドアをノックすると、中から先生の声が聞こえた。ドアが開かれ中に入る。二回目のカウンセリングが始まった。




先生のカウンセリング


「今日は、どんなお話ですか?」

 先生にいきなりそう尋ねられて、僕は面食らってしまった。前回同様、最初は雑談から始まるのだとばかり思っていたからだ。先生は、カウンセリングの始め方も、毎回異なるようだ。

 僕は、何の話題から話をするか一瞬迷ったが、最近体調を崩した話をした。メニエール病という病名を出すと、

「よくある病気ですね」

と先生はこともなげにおっしゃった。

「命には別状のない病気で、よかったですね」

ともおっしゃった。先生は、不必要な同情を寄せたり、単なる慰めとして「それは大変でしたね」と言ったようなセリフを、安易に口にされることはないのだ。それに、いつも本当に深刻な難病に苦しむ方々、余命僅かの方々のカウンセリングをなさっているのだから、僕の体調不良の話に対して、「よかったですね」とおっしゃるのは、正直な感想なのだろうと思われた。

 僕はそれに対して、

「ええ、僕がメニエール病だと言ったら、周囲から、私もなったことあります、と告白してくれる方が、何人も現れて、意外と一般的な病気だということを知りました。お医者様からも、ストレスを減らせば治りますよって言われまして、結局ストレスなのかと」

「ストレスが、原因なんですか?」と先生。

「ええ、そうらしいのです」

「ストレスと言われて、思い当たることはあるの?」

「ええ、実は会社の人間関係でトラブルを抱えていまして」と、僕はそこまで話してから言い淀んでしまった。宮崎さんとのトラブルを事細かに話すのは、はばかられる気持ちがあった。

 先生もそれを察したのか、それ以上、質問されなかった。それからしばらく、話題は別のことがらになり、また、いつのまにか、僕のストレスの話に戻り、僕は、宮崎さんとのトラブルを、ごくかいつまんで話していた。先生はそれだけで、僕の状況を理解してくださったらしく、「今日話したい悩みは、そのことでよろしいですか?」と確認してから、とても有効で、現実的なアドバイスをしてくださった。先生のお言葉で、僕は一気に心が軽くなるのを感じた。


 次に相談したのは、ペンネームについてだった。僕は「ゴードン4号」という新しいペンネームを先生に披露した。先生はそれについて、いいとも悪いともおっしゃらなかった。「自分で決めれば良い」とおっしゃった。また、「その名前が既にどこかで使われていないか、よく調べてから決めなさい」ともおっしゃった。


 それから続けて、僕は、書きかけの小説について相談した。「先生との旅」の続編が第四章まで書き上がっており、もう随分と長くなってしまった。まだ終わりが見えていないが、できたところまで、見てもらうわけにはいかないか、と尋ねた。これに対して先生は、

「全て書き上げてから、見せてください」

と即座に言われた。「途中で読んでしまうと、読者の視点ではなく、書き手からの視点になってしまうので」ともおっしゃった。

 僕は納得し、最後まで書き上げる決意をした。また、先生は、

「焦らず、じっくり時間をかけても、構いませんので」

ともおっしゃった。先生にそう言われたことで、僕は、腰を据えて書き終える覚悟をした。


 そこから、話はいろいろなところに展開した。宮沢賢治について。賢治の手書き原稿について。賢治と先生の、人を救うということにおけるアプローチの違い。空海と最澄の違い。最澄の比叡山から法然と親鸞が生まれ、浄土宗、浄土真宗が誕生した流れと、その違い。話題は行ったり来たりしながら、ダイナミックに展開した。それらによって、僕の心は深く揺さぶられ、好奇心も刺激された。

 特に、宮沢賢治の話題になったのにはとても驚いた。つい何日か前、MRIを受けている真っ最中に、「銀河鉄道の夜」の世界の中に迷い込むような、不思議な体験をしたばかりだったからだ。

 カウンセリング中は、もちろん、メモなど取っていないから、どういう展開でこれらの話が出てきたのか、はっきりとは記憶していない。少なくとも、僕の方から宮沢賢治や空海や最澄の話題を持ち出したのではなかった。先生が、絶妙のタイミングで、それらの話題を持ち出してくださったのだ。

 その結果として、僕は先生から貴重な宝物を受け取り、今後も小説の執筆を続けるのだという気持ちを新たにした。


 さらに、どういう展開からだったか、途中、僕が以前に仕事を辞めようとして、引き留めに遭った話を口にした。それから、僕はこう言った。

「健康寿命が八十歳だとすると、もうあと二十五年しかないのです。そう思うと気持ちが焦るようなところがあって」

 というところで、先生が驚いたように口を挟んだ。僕はその後、「会社員なんか辞めてしまって、もっと、自分のやりたいことだけに、時間を使うべきではないかと思うんです」というつもりだったけれど、そのセリフは先生の言葉に遮られて、どこかに消えてしまった。


 先生は、いわゆるオーソドックスなカウンセリングとはスタイルが異なり、話をじっくり聞くときと、相手を遮ってでも自ら話をするときと、メリハリをつけられる。おそらく、意図的にやられているのだと思う。そして、僕と対話を続ける間も、常にどこかとコンタクトを取り、光たちとも対話を続けているのが感じとれた。僕と話をしながら、複数の光の存在ともコンタクトを取る。聖徳太子は一度に十人の話を聞くことができたと言われているが、先生は聖徳太子にも近いのかもしれない。

「二十五年しかないとか、そんな風に考えているのですか?」

 先生は、驚きの声を上げた。それから、このように続けた。

「僕は、父親と同じ寿命とすると、あと三十年ってことになるんですけど、逆に三十年は長すぎると思ってしまうのですよ。

 今から三十年前というと、ちょうど「生きがい論」の著作につながる、最初の論文を発表した頃なんですけど、それからの三十年はまさに激動でしたからね。

 同じことをもう一回と言われると、正直もういいかなと思ってしまいます。

 もちろん、これからの三十年は今までほど激動ではないにしても、それでもちょっと長すぎます。

 家族に少しでも苦労をかけないように、保険金くらいは残して死ねればいいかなと思っているんです。でも、遺体が見つからないと、保険金がなかなかおりないですからね。死に方だけは気をつけて、遺体がすぐに見つかるようにはしたいですけど」


 先生の三十年は、本当に激動だっただろう。先生の言い回しには、深刻な雰囲気は全くなかった。でも、その言葉には、この三十年で、やりたいこと、やるべきこと、先生ご自身の使命を果たし続けたことに対する、様々な思いが込められているのが感じられた。

 一方で、先生が突然「遺体」という言葉を使われたのには、少し違和感のようなものを感じた。まだ、いつ死ぬとも決まったわけでもないのに、遺体の捜索といった、まるで、もう死んでしまったかのような話題に突然移ったからだ。

 それに先生は、普段、この世で亡くなった後は光の世界に戻るのだと、繰り返し僕らに諭されていた。その先生が、遺体へのこだわりのような、現世的な話をされたことに、いささか驚いていた。

 と同時に僕は、どこかの山奥で死んでしまって遺体が見つからないという状況について、一瞬想像した。富士の樹海のような場所に、ひっそりと佇むご遺体。誰かに発見されるのを待っているご遺体。

 後で思うと、先生はこのとき、HPさんのことを考えていらっしゃったのだと思う。このときは、僕はまだ、そのことを知らなかった。


 それから僕は最後に、両親の介護についても相談した。先生は、それについても具体的なアドバイスをくださった。

 介護についてアドバイスをお聞きしたところで、カウンセリングは終了となった。全部でおそらく、九十分以上にわたった。




カウンセリングを終えて


 カウンセリングを終えて、ホールに戻ると、読書をしていた女性の姿はもうなかった。代わりに、別の訪問客の女性がいて、僕に話しかけてきた。

 口ぶりから、お年は僕より少し上、六十歳くらいのようだった。地元の方だった。つい最近ご本を読んで先生の存在とこの場所の存在を知り、近所だからと訪ねてきたそうだ。

 僕は、東京から来たことや、もう三十年近く先生のご本の読者であることを伝えた。

「そんなに昔からご本を読まれて、わざわざ東京からこうしてお越しになるってことは、先生との間に相当深いご縁をお持ちなのでしょうね」と女性は言った。

 僕は、数分前に初めて会ったばかりの女性が、いきなり核心的な問いを投げかけてきたことに驚いていた。

 そう、僕は先生との間に深いご縁を感じていた。その深さがどのくらいのものなのか、未だに全くわかっていない。でもそれが、僕の想像をはるかに超える深さを持っていることだけはわかっている。

 そして、それだけ深いご縁がありながら、先生が一体どういう存在なのか、その謎も解けないままだ。

 その謎を探るために、僕はこの小説を書き続けているし、旅を続けているのだ。

 僕の旅は、先生という存在を探る旅であり、自分を探る旅でもあった。

 そして、僕と同じように、先生との深いご縁を感じ、先生という存在を、そして自分の存在を理解したいと願う仲間たち、同志たちが数多くいらっしゃることもわかってきた。


 僕の旅は、自分と向き合う孤独な旅であり、同時に、同志たちとの見えないつながりによる、共同作業でもあった。

「そうですね。僕は昔から先生のご本を読み、お話を聞いたりする中で、人生のいたるところで、先生に教わった考え方を自分に照らし合わせて生きてきました。先生なくしては、今の自分の人生はなかったと言ってもいいかもしれません」

 僕は慎重に言葉を選びながら、そのように答えた。女性は、なるほど、というように深く頷き、「すごいですね」と言ってくださった。その答えを聞いて、僕は、

「先生のご本もいいですけど、歌も、ものすごくいいですよ」

と付け足した。そこから、その女性が音楽がお好きということがわかり、話が盛り上がり、思わず話し込むことになった。結局、スタッフのSCさんに閉館を告げられるまで話し続けた。期せずして、その女性の身の上話をお聞きすることになった。


 驚いたのは、その女性が一人で会社を起こして、仕事をされているということだ。会社員として働いていたものの体調を崩し、休職したのをきっかけに独立を果たし、ついには自分で会社を設立するに至ったのだという。

 業種としては事務代行業。パソコンを使って、会社の事務作業を請け負うのだという。会社員時代にやっていたことを、独立してそのまま仕事にしてしまったらしかった。

 なんとも不思議だった。僕もとりあえず休職したらどうかとか、できれば自分の会社を設立してみたい、などと考えていた。

 先生に相談してみようかと考えながら、勇気が出ずに今回も相談できなかったことを、既に実践している方が目の前に現れた。


 似たようなことが以前にもあったぞと思って、はたと思い出した。Hさんだ。万博ツアーで夕食をご一緒した、Hさんのときと全く同じだった。

 つい最近、先生のことを知ったばかりという方と、偶然話をする機会を得る。その方々は、以前は普通のサラリーマンだったにもかかわらず、何かをきっかけに独立し、一人で会社を起こして仕事をしている。「すごいですね」というと、「たいしたことではありませんよ」と、なんでもないことのように答える。そして、僕に対して「そんな昔から先生のことをご存知だったなんて、すごいですね」とおっしゃる。

 何もかもが同じだった。こんな偶然が、二回も起きるとは、不思議としか言いようがない。いや、果たして、これは偶然なのだろうか?


 SCさんに閉館を告げられたのをきっかけに、僕は女性に挨拶してから、荷物をまとめて受付に戻った。受付でスタッフの方々とも、少しだけ話をした。

「ヘリコプターツアーは、とりあえず延期なのですよね」と尋ねると、

「ええ、まだ、いろいろ調整中で」とKGさんが答えた。僕は、それ以上の質問はやめにして、挨拶をしてから光の学校を出た。


 帰りに、前から行きたかった丸善の京都本店に寄り道した。道を歩きながら、延期になったヘリコプターツアーについて考えていた。「調整中」という言葉から、おそらく、何か特別な許可がいることがわかり、手続き中とかなのではと予想した。「いやあ、社長に怒られちゃいましてね。慌てて手続きをしました」などと言いながら、照れ笑いを浮かべるHPさんの姿が思い浮かんだ。

 僕の予想が正しければ、ヘリコプターツアーは少し時期をずらして開催されることになるのだろう。その頃には、僕のめまいも治まっていれば、参加できるかもしれない。

 帰りの新幹線の中で、先生に言われた一言一言を思い出し、メモに書き留めた。執筆活動に対する意欲は、ますます高くなっていた。

 それだけでなく、会社員人生、親の介護、自分のこれから、家族との関係、自分の人生全てに対して、勇気と希望に満たされていた。


 帰宅してすぐに、先生に御礼のメールを出してから就寝した。

 翌朝、先生からのご返事を見て、衝撃の事実を知ることになった。




1月25日


 いつもどおり6時前に起きると、もう先生から返事のメールが届いていた。その中に「パイロットさんに捧げる言葉」をホームページに公開したから参考にしてほしい、とあった。

 パイロットさんとは、HPさんのことだろう。捧げる言葉ってなんだろう、と思いながら、すぐに先生のホームページにアクセスした。

 そこには、HPさんの操縦するヘリコプターが原因不明の墜落事故を起こした、と書かれていた。事実報告に続いて「捧げる言葉」が書かれている。

 僕は繰り返し、その文章を読んだ。三回読んでも、うまく事態が飲み込めない自分がいた。頭では理解できても、心では納得できない。

 先生は、捧げる言葉の最後を「予定通り順調に私の前に現れてくださって、本当にありがとう!!」という言葉で締めくくっていた。


 HPさんと先生は、紅葉ツアーが初対面、年越しツアーが二回目の対面だったとのことだ。僕は、先生が興味津々といった感じで話しかけるお姿、HPさんが控えめな表情で答えるお姿を、間近で見ていたし、時には会話に加わりさえもした。

 そのときの様子は、つい昨日のことのように、ありありと思い出すことができた。

 そのHPさんが、今はもうこの世にはいない、もしくは、阿蘇の山中のどこかで苦しんでいらっしゃるかもしれないというのは、どうしても信じられなかったし、この出会いが何を意味するのか、全くわからなかった。

 ただ一つだけ、はっきりとわかったことがあった。HPさんの佇まいが、なぜあれほどかっこよく見えたのか。表情や話しぶりはとても控えめなのに、特別な存在感を感じさせたものが何だったのか。

 それは、HPさんが、常に、死を意識しながら生きていたからなのだ。

 ヘリコプターの操縦は、何か少しでも不測の事態が起きれば死に直結する。そのことを常に意識されていたに違いない。常に死を意識しているからこそ、より真剣に、より謙虚に生きる。

 その、長年積み重ねられた生き様が、言葉にならない魅力となって、背中から溢れていたのだ。


 となると、HPさんの死に方は、本望だったのかもしれない。

 おそらく、何か不測の事態が起きた。HPさんは、最後の最後まで機体を立て直そうと必死にもがいた。でも、もう墜落は免れないとわかったとき、HPさんは必死に阿蘇の火口に機体を向けた。万に一つも、墜落した先で犠牲者を増やさないためだ。

 つまり、HPさんは、最後の最後までパイロットであり続けたのだ。


 そこまで考えてから、僕は自分をなだめた。勝手な妄想はやめろ。まだHPさんが亡くなったと決まったわけではない。彼の無事を祈ることこそ、おまえのやるべきことなのではないのか?

 僕は、気持ちがまとまらないまま、先生に返事のメールを出してから、散歩に出かけた。


 先生の歌を聴きながら、川沿いの道を歩いた。歩き始めてからも、ずっとHPさんのことを考え続けていた。

 『逢いたい』が終わって、二曲目の『いつもそばにいるよ』を聴いていたときのことだ。気がつくと目から涙が溢れていた。いつの間にか、僕は泣いていたようだ。

 泣きながら、声を出して歌った。イヤホンから聞こえる先生の声に、いつもは聞こえることのないコーラスがまじっている。男の人の声だ。

 HPさんだ。HPさんが来てくれて、一緒に歌ってくれているに違いない。


 三曲目の『いつまでもいつでも一緒』。この曲は、年越しツアーのコンサートでは、珍しく出番がなかった。HPさんも歌いたかったはずだ。僕は、できるだけ大きな声を出して歌った。HPさんに届くように、あるいは、HPさんが僕の喉を使って歌うことができるように。

「ああ、あなたに見せたいものがある。僕の勇気と真心、これからの人生」

 この歌詞にさしかかると、再び涙が溢れてきた。そう、僕は、これからの人生を見せなくてはならない。今まで、その相手は姉だった。姉に見せるつもりで、歯を食いしばって頑張ってきた。

 これからは、そこにHPさんが加わった。僕は、これからHPさんにも見せられるように、生きていかなくてはならない。

 HPさんが見せてくれた立ち姿。死を意識して、真剣に生きている人だけが持つ、厳かな佇まい。

 僕もHPさんを見習って、生きてみよう。僕も、いつかは必ず死ぬのだ。今日が最後の一日になるかもしれない。僕も、一日一日を、真剣に生きてみよう。




26年3月


 3月になっても寒い日が続いていた。体調も不安定なままで、めまいのする日としない日が交互に訪れた。それでも、毎朝5時に起きて会社には行った。電車の中と出勤前のスタバで執筆を続ける。その後は、夕方まで会社で過ごした。

 今日が最後の一日になるかもしれない。そう思って、一日を過ごしても、幸か不幸か、大きな変化のない毎日が繰り返された。

 一つだけ変化があったのは、ゴードン4号の名前を使い始めたことだ。先生のアドバイスに従い、この名前がどこかに使われていないか調べてみた。それらしい形跡は見当たらなかった。先生へメールを出して、ペンネームを変更したいと申し出た。35日のことだ。

 その日の夜には、先生から返事が届き、ゴードン4号という名前が認めてもらえた。ホームページを開くと、もう、そこにはゴードン4号の文字があった。その文字を目にしただけで、僕はとても嬉しくなった。思わず声を上げて笑った。この名前は自分そのものだ。心からそう思えた。

 僕は、さらに一歩前に進んだ。それは、小さいけれど、確かな一歩だった。


 3月半ばを過ぎると、めまいの発作が起きる頻度が少しずつ下がり始めた。だが、今度は、鼻風邪の症状に悩まされるようになった。花粉症の症状にも似ていた。花粉症も、風邪も、食事改善をしてから、もう何年も自覚症状が出たことはなかった。こんな症状になるのは久しぶりだった。

 その症状が、やっと治りかけた頃、今度は右下の奥歯が痛くなった。初めは噛むと少し痛い程度だったのが、日に日に痛みが増した。春分の日には、その痛みが耐えられないレベルになり、薬屋に駆け込んで鎮痛剤を飲んだ。翌日、歯医者に駆け込み、抗生物質をもらったが、痛みは全く改善されず、その週末は布団の中で痛みに耐えて、うなりながら過ごすことになった。

 この体調なら、一週間後の京都行きは諦めるしかなさそうだった。最後の希望が絶たれてしまうことへの恐怖を感じた。


 週明けの月曜日、再び歯医者に駆け込んだ。お医者様は、僕の訴えを聞いて、最強クラスの抗生物質を処方してくれた。

 幸いその薬が効いて、僕の体調は急激に回復した。久しぶりにタブレットPCを開き、原稿に向かった。しかし、小説の続きは何も見えてこない。

 僕は諦めて、この小説を冒頭から読み直してみることにした。この小説は25年の3月、今からちょうど一年前にスタートしていた。

 一年が経ったのだ。この一年で、僕は何も成長していないように見えた。仕事上では大きな失敗をして、同僚からの嫌がらせに苦しめられていた。職場を去る勇気も、全てを捨てて文学に取り組む勇気も湧かなかった。結局、僕は暗いトンネルの中に、とどまり続けていた。

 しかし、僕は確かに得たものもあった。小説を先生のホームページに掲載してもらう機会を得た。その結果、多くの方に読んでもらい、勇気をもらった。先生や同志の方たちの存在は、僕に大きな力をもたらしてくれた。


 気がつくと、家の窓の外の木々が緑色に変わりつつあった。ついこの間まで、枯れ枝のままだと思っていたのに、若い緑が一斉に芽吹いている。

 先生のお花見ツアーも目前に迫っている。幸いにも、体調は奇跡的な急回復を見せた。京都へ行こう。先生に会いに行こう。同志の方たちにも会いに行こう。光の世界にいる存在たちも、応援に駆け付けてくれるはずだ。




3月28日 光の学校


 112分、僕が光の学校のドアを開くと、いつものスタッフのみなさんが、出迎えてくださった。Mさん、SCさん、KGさん。

 受付を済ませると「今日の回だけ特別です」と言われて、紙を渡された。昨年9月、大晦日にも歌った、ビートルズの代表曲の歌詞カードだ。一番が英語、二番が先生訳の日本語の歌詞だ。

 これはありがたい。先生訳の日本語の歌詞はじっくり味わいたいと思っていたところだった。でもなぜ歌詞カードを手渡されたのか、その理由はすぐにわかった。


 ホールの中に入ると、もう二組のご夫婦が座っていらっしゃる。関西弁のおじさんこと、KBさん夫妻はいつもの一番後ろの列に。そして、一番前の列で振り返った男性にも見覚えがあった。昨年9月のセミナーで先生と共演されたジャズピアニストの男性、JPさんだ。今日はJPさんがいらしたから、歌詞カードが用意されたのだ。

 その後も、続々と参加者が集まり、あっという間に、そこここで談笑が始まる。僕も既に顔見知りとなった人たちには会釈をした。その中にはYさんの姿もある。Yさんとはセミナーと紅葉ツアーで二回お会いしただけに過ぎないのに、ずっと以前から知っているような気がしてしまうのは不思議だ。

 無理に会話に加わることをしなくても、居心地の悪さはない。僕はどこの会話にも加わらず、静かに目を閉じる。あちらこちらの会話に耳を傾けつつも、ホール全体の雰囲気を感じ取る。

 すでに、光の存在たちが集まって来ているのがわかる。HPさんも来てくれているに違いない。




先生登場、動画の解説


 1128分、先生がノートパソコンを持って登場。パソコンをモニターに接続した後、HPさんとの思い出話から、この日のイベントは始まった。

 先生は、HPさんとの出会いから、今までの交流について話してくださった。先生とHPさんの交流は、時間的には短いかもしれないが、とても密度の濃い交流と言えそうだった。

 そして、その一部を幸運にも、僕も間近で見せてもらうことになった。そのときの様子が脳裏に甦り、自然と目頭が熱くなった。


 思い出話が終わると、いよいよ動画の再生が始まった。一本目は、HPさんがヘリコプターの機体について解説する様子。二本目の動画では、機体に乗り込み、エンジンをスタートさせ、離陸から着陸までの映像が流された。

 二本目の動画では、時々再生を一時停止させて、上空から見えている風景について、先生の解説が入った。それは、地理と歴史の総合授業とでも言えるような内容だった。


「ここに、田んぼが広がっているのが見えると思いますけど、京都市街のすぐ近くに、なぜ、こんなに広大な田園が広がっているのか、不思議に思いませんか?

 ここは、昔、巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれる池だったのですね。池を埋め立てて水田に変えたから、今、このような風景が広がっているということです。

 池があった時代には、食料などを運ぶ水路として使われていまして、港もあったんですね。そのすぐ近くに、豊臣秀吉がお城を築きまして、伏見の町が形成されました。

 お城は、伏見桃山城というのですけれど、それはこの山の上にありました。ほらここです」


と先生はおっしゃりながら、画像の一部を拡大して見せた。確かに小高い丘の上、公園の一角のような場所に、お城が建っている。


「ここが伏見桃山城で、この山の下に広がるのが伏見の町です。このお城は、復元されたものなんですが、みなさん、こんな所にお城があったことは知らないと思います。

 なぜなら、今このお城は、閉鎖された状態で入ることができないですし、宣伝とかもしていないのです。だから、一般には全く知られていません。

 実はこの場所は、昔、鉄道会社が経営する遊園地がありまして、そのシンボルとして、このお城を建てたのです。きちんと時代考証もして建てられたものです。

 その後、遊園地は閉鎖になりまして、お城も取り壊す計画だったのですが、地元の人たちから残して欲しいという要望が出まして、地元のシンボルとしてそのまま残すことになり、今も伏見の町を見下ろしているということなのです」


 ホール内には、なるほど、という空気が広がる。HPさんも、天井あたりから見下ろしながら「先生そんな話、全く知りませんでしたわ」と唸っているに違いない。


「そして、伏見の町の向こうの、田んぼのあたりが昔は池だったという話をしましたけれども、池の水がどこから来たのかと言いますと、山の上から地中に流れ込んで地下に溜まった水、伏流水というのですけれども、その水が地下から出てきたものなのです。

 とてもきれいなお水です。きれいなお水がたくさんあったということで、そのお水を使って日本酒を作りました。だから、伏見は有名な酒どころになったんですね。

 有名な酒どころというと、だいたいはきれいな水のある場所なんですね。このあたりだと灘なんかもそうです。灘も六甲山から流れ出る伏流水があったから、お酒造りが始まったというわけです」


 先生のお話は、現代の風景から、四百年以上前の歴史の話になり、近代、戦後を経て、再び現代に戻る。

 歴史は繋がっているということ、今、目の前にある風景も、日本の長い歴史の上に成り立っているのだということをわかりやすく教えてくださる。

 歴史に詳しくない僕のような人間でも、自然と興味が湧き、すっと理解できるような話し方だ。

 長年、大学教授をされて、数々の講義をされてきた賜物とも言えるかもしれないが、やはり、特別な才能をお持ちだと言える気がした。


 それを思うと、先生が高校の社会科教師を目指しながら、何校受けても全て不採用となったというエピソードは、なんとも不思議で仕方がない。

 物質世界的にみると、採用活動に携わった面接官の方々の目がことごとく節穴だったということになってしまうのだが、光の世界の視点で見れば、あらかじめ仕組まれた当然の出来事だったのだろうか?


 先生は、その後も、ところどころで動画を止めて、解説を加えてくださった。京都駅上空にしばらく留まり、新幹線が走っていく所を見せてくださった話、夕日の時間帯が一番きれいだからと、HPさんがわざわざこの時間帯を指定してくれたことなど、HPさんの人柄が伝わるエピソードが披露された。モニターには、進行方向右手、西の空、大阪の街の上空が赤く染まる様子が映し出されていた。


 1222分、動画の上映が終わった。

 動画の中で、僕の心に最も残ったのは、出発前、コクピットに座るHPさんが、ヘリコプターの操縦方法について解説したシーンだった。

「この操縦桿を下に傾けると機体も下に向き、上に傾けると機体も上に向きます。直感的な操作が可能なのですが、ほんのちょっと動かせば十分なのです。あまり大きく動かすと機体が傾きすぎてしまうので、ほんのちょっとだけ力を加えるくらいの感覚でちょうどいいんです」

 その言葉を聞いた上で、実際の操縦シーンを見ると、操縦桿を握るHPさんの右腕は、ほとんど動いていないように見えた。操縦桿を握る右手の指先は、繊細な力加減で、ヘリコプターに自分の意思を伝えていることが感じられた。

「左手のレバーは、車で言うところのアクセルの役目、足のペダルで左右の向きをコントロールします。一応、左右の手足全てを使うことになっています」

 HPさんは、実に控えめに、そのような表現をされたが、それが高度なテクニックの上に成り立つ操作だということは想像に難くなかった。


 動画を見ていて、もう一つ印象に残ったのは、ヘリコプターがいつ飛び上がり、いつ着陸したのか、わからなかったことだ。

 ヘリコプターは、とても優しくふわりと浮き上がり、気がつくと上空に上がっているように見えたし、降りる時も同じで、少しずつ高度を下げ、気がつくと着陸しているように見えた。

「パイロットさんが一番伝えたかったことは、人生はいつまで続くかわからないから、お金は気にし過ぎず、やりたいことをやった方がいい、ということですね」

 先生が、そのように話をされて、動画上映は終わった。




特別セッション


「さて、本来なら、次はお花見に出かけるところなのですが、今日だけは特別です」

 動画の上映が終わると、先生はそのように話され、JPさんを紹介された。

 僕の前の席に座っていたJPさんが楽譜を持って立ち上がり、ピアノに向かった。

 あの名曲の演奏が始まる。昨年9月に聴いたときには号泣してしまった先生とJPさんのデュオ。こんなにすぐに、あの名曲のあの演奏を聴く機会を得られるとは、なんとも幸せだ。HPさんも喜んでいるに違いない。

 JPさん独特の柔らかい音色で前奏の和音が聞こえてくると、僕はあっという間に光の世界に繋がった。


 このまま目を閉じて、お二人の演奏に身を委ねていたいところだが、今日は歌詞カードも配られている。歌わなくてはならない。同志の方たちと、HPさんと、声を合わせて歌った。

 この日の大合唱でも、光の世界の仲間たちも加わり、ホールの壁にも反響が広がった。HPさんはもちろん、僕の姉や、その他にも多くの光の存在たちが駆けつけてくれていた。僕は目頭が熱くなるのを堪えて、大きな声を出して歌い続けた。


 なるがままに 今を 時の流れに任せなさい
 そうすれば きっといつか 道は開けるでしょう

 なるがままに すべて 神のご意志に任せなさい
 そうすれば きっといつか 答えがわかるでしょう




お花見へ


 1230分、一階に集合した僕らは、先生を先頭に歩き始めた。

 この日の参加者は十四名。男性四名、女性十名。男女比はだいたい一対二の、いつもどおりの比率になっている。先生とスタッフの方たちを加えた十八名が、二列縦隊で歩き始めた。


 この日の目的地は、醍醐寺とすることが出発前に先生から告げられていた。

 醍醐寺には千本もの桜の木が植えられていて、その中には必ずや見頃の桜もあるはずだ、ということが醍醐寺を目的地にした一番の理由だと説明された。

 また、豊臣秀吉が徳川家康を接待した場所、豊臣秀吉が「醍醐の花見」と呼ばれる大規模なお花見を開催した場所としても有名だという解説もなされた。

「秀吉が、家康を伴って、実際に歩いた場所、花見を行った場所も、そのまま残っています。現場では「ここです」と、具体的にご案内いたします。秀吉や家康の足跡と自分の足跡を重ねることができるかもしれません。楽しみにしていてください」

と、興味をそそられる説明が付け加えられていた。


 1241分、京都市役所前駅から、京都市営地下鉄東西線に乗り、醍醐駅を目指す。

 1307分、醍醐駅着。バス停へ向かうも、小さなコミュニティバスは満員で乗ることかなわず、歩いて醍醐寺へ向かう。


 僕はこの移動の間、JPさんとお話をしながら歩いた。ピアノの演奏や音楽について、小説や文学についての話題が中心だった。

 JPさんは、音楽にお詳しいのはもちろんのこと、小説もお好きで、いろいろな作家の作品を読まれているようだった。

「読んだ小説が、ピアノの演奏に影響を与える、というようなことはあるのでしょうか?」僕は尋ねた。

「ありますね」とJPさんは答えた。それから「それは間違いなくあります。小説を読んで、自分の考え方が変わることがありますから」と続けた。

「なるほど」と僕が唸っていると、JPさんは、

「小説ではないですけど、先生のご本には、かなりの影響を受けました。先生のご本を読んだ後では、自分の生き方そのものが、がらりと変わりましたから」と言った。

「うーん、なるほど、そうですよね」僕は再び唸った。

 JPさんにとってピアノの演奏をすることとは、JPさんの人生そのものなのであり、自分の考え方や生き方が自然と現れるものということなのだろう。JPさんの奏でる柔らかい音色と、JPさんの柔らかい笑顔は、同じものなのかもしれない。




醍醐寺に入る


 1318分、醍醐寺に到着。敷地内に入る。そこここに、見事な桜が咲き誇り、多くの人で賑わっている。

 先生は、ごった返す場内をさらに進んでいく。

 僕は、時々、立ち止まって写真を撮りながら進むのだが、お仲間とはぐれないようにしなくてはならない。気づくと先生は、もうかなり先に行っていて、パッと見では、どこにいらっしゃるのかわからない。横にスタッフのSCさんがいらっしゃったので、思わず話しかける。

「この方向で、合ってますよね?」

「ええ、合っていますよ」

「ああ、よかった。気がついたら、先生が見えなくなってしまって。先生は、もう随分と先に進んでいかれたのでしょうか? みなさんも、もう先まで行っちゃったのかな?」

「そうですね。この先で待っていてくださると思いますよ。でも、私がいるってことは、最後尾だと思ってください」

「えっ! SCさんが最後尾って、決まっているのですか?」

「ええ、決まっています。スタッフは常に持ち場を決めて、歩いているのです」

 言われてみれば、常に先生の真後ろにいるのがMさんで、中程にKGさんがいて、最後尾にSCさんがいるようだ。なるほど、常に、スタッフのみなさんが全体を目配りしてくださっているとは思っていたが、きちんと順番も決められているのだ。

 僕は、まるでプロ野球の投手リレーのようだと思った。先発、中継ぎ、抑え、ときちんと役割が決められ、それぞれが持ち場を守る。鉄壁の防御率を誇る常勝軍団、昨シーズンの阪神タイガースのようだ。

 良い発見があったと思ったところで、チケット売り場に並ぶ先生とお仲間たちに追いついた。




醍醐寺、霊宝館


 1330分、三枚綴りのチケット(千八百円)を購入し、霊宝館に入館。

 醍醐寺は敷地が広く、三つの主要な施設があり、それぞれ別々のチケットで入場する仕組みのようだ。一つ目の施設、霊宝館は、名前の通り、お寺が保有している数々のお宝を保存、公開する施設のようだ。敷地の中心に建物があり、それを取り囲む庭園には桜の木が数多く植えられているのがわかる。

 我々はまずは建物内に入り、日本の仏教の歴史そのものとでも言えそうな、お宝の数々を見て回った。


 1355分、建物の外に出る。全員が揃うと、一旦解散となった。お庭の桜を見たり、休憩をしたりと、自由に過ごし、出口付近に集合するよう、先生からご指示が出された。

 僕は、お庭に咲く桜の写真を撮りながら、建物の周りをぐるりと一周した。桜は、まだつぼみのものから、まさに見頃を迎えたものまで、さまざまだった。

 先生の見立てどおり、いろいろな状態の桜を楽しむことができた。見頃を迎えた桜の木の周りには、多くの人が集まり、思い思いにスマホやカメラを構えたり、それに応えてポーズをとったりしていた。

 聞こえてくる会話は、中国語が多かった。彼らの話す、ゆるい感じの発音は、以前、台北に住んでいたときに、聞き慣れたものだった。


 145分、建物を一周して集合場所に戻ると、先生がいらっしゃったので、挨拶をした。

 続々と、お仲間たちが集まってくる。

僕「このお寺は真言宗なのですよね?」

先生「真言宗の一つの宗派の総本山ですね」

同志の方「外国の方が多いですね。中国語かしら」

先生「台湾の方たちですね」

僕「あのゆるい感じの中国語は台湾人ですよね!」


先生「あれ、今日もノートとペンをお持ちですね。皆さん、油断すると、小説のネタにされてしまいますよ」

僕「いえいえ、時間と場所を記録しているだけですから」


KGさん「先生、クッキーいかがですか?」

先生「じゃあ一粒もらおうかな」

KGさん「森田さんも、おひとついかがですか?」

僕「ありがとうございます。遠慮なくいただきます」


先生「あそこに植樹のプレートがあるけれど、カルティエはブランドの名前だったかな」

KGさん「ええ、ブランドです」

先生「そのカルティエさんが来て、植樹をしたってことなんだろうね。まだ随分と若い木ですね」

僕「2022年って書かれていますね」

先生「まだ植えられて四年か。あと百年くらい経つと、貫禄のある木になっているのかもしれませんね」


 1413分、いろいろな会話が飛び交う中、点呼を行うが、あとお二人足りないようだ。Mさんが捜索に出かけた。




霊宝館を出て、伽藍へ向かう


 1417分、全員集合して、霊宝館を出発。桜馬場と呼ばれるメインの通りに戻って、奥へと進んでいく。

 途中、先生が左手の門の前で立ち止まる。

「昔、秀吉が家康をもてなした際には、この門を通って建物の中に入り、接待をしたんですね。今、わたしたちの立っている、この場所を秀吉と家康が並んで歩いていたということです」

 先生はそのように説明されてから、再びメインの通りを奥へと向かって歩いた。




醍醐寺、伽藍


 1422分、醍醐寺内の二つ目の有料施設、伽藍に入場。

 伽藍の中には、有名な五重塔の他にも様々な施設があり、広大な敷地を誇っていた。

 先生は、時々立ち止まって写真を撮りながら、ゆっくりと進んでいかれる。

 僕は、時々、空を見上げながら歩いた。上空には青空が広がっている。HPさんが透明なヘリコプターに乗って、僕らと一緒についてきてくれているような気がした。


 五重塔を過ぎたあたりで、僕はスタッフのMさんに質問してみた。

「ヘリコプターが離陸する時って、どんな感じがするのでしょうか? 一瞬、無重力状態にでもなったように、フワリと浮かぶのか、それとも、もっと地に足のついた感じなのか。映像では、いったいいつ飛び立ったのか、わからなかったのですが」

「うーん、そうですね。たぶん、HPさんが、気を遣ってくださったのだと思うんですけど、本当に少しずつ慎重に上がっていく感じでした。私は、元々あまり乗り物は得意ではないんですけど、それでも、乗っていて怖いとかは、全くありませんでしたから」

「そうなんですね。映像で見ていても全てが滑らかで、離陸も着陸もいったいいつ飛び立っていつ着陸したのか、全く見分けがつきませんでした」

「そうなんですよ。本当に全てが自然で、それから加速もすごくて、気づいたら、ものすごくスピードが出ていたんです」

「加速する時には全身に圧力がかかるとか、そんな感じなのでしょうか?」

「いいえ、全く。気づいたら、ものすごく進んでいて、あれ? もうここまで来たの? 実はかなりスピードが出ていたんだって、初めて気づくくらいで、圧力がかかるとかは全くなかったんです」

「なるほど。そんな感じなのですね」

「ええ、おそらくHPさんが、そうとう気を遣ってくださったと思うのですが、本当に全てが滑らかでした」


 そう話すうちに、桜の木の下で立ち止まった先生に追いついた。

 ここで一旦、皆の到着を待つことになった。みんな、思い思いのペースで進んでいるので、僕ら一行は他の参拝客に混じったりしながら、かなりの長い列になっていた。


 全員が揃ったのを確認すると、先生はメインとなる通りに出て、奥に向かって、再びゆっくりと進み始めた。

 左手には、幾つかの建物がある。「護摩道場」の文字が目に入った。今も、この場所で実際に修行を行う修行僧の方たちがいらっしゃるのだろうか?――こういった場所で、ひたすら修行をする人生というものに、一瞬、強烈な憧れの感情が湧き上がった。


 1435分、ゆるやかな坂を登りきると、大きな桜の木のまわりが平坦で開けた場所に出た。先生は、ここで立ち止まって振り返った。全員が揃ったのを確認すると、先生はこう話された。

「秀吉が花見を行ったのは、この場所ですね。ここに、多くの人を集めて、盛大なお花見を開催しました。秀吉の正妻である北政所、ねねさんを始め、百人以上いた側室の方たちとか、多くの方が招かれて、盛大に花見を行いました」

 先生はそう説明されて、再び歩き始める。僕は、今度はYさんと並んで歩いた。Yさんが口を開く。

「私、そのときのお花見に、参加していたような気がします」

「えっ! そうなんですか? それは、どういった立場で? 戦国武将だったんでしょうか?」

「うーん、そこまでは、わからないですけど。その当時、この場所にいたような気がします。森田さんも、ここにいたかもしれませんよ」

 僕は、今から四百二十八年前の様子を思い描いてみた。自分が戦国武将だった姿は、全く思い浮かばない。もし僕が、その当時の、この場所にいたとしたら、修行僧だったのではないか?――先程目にした道場で、修行を行なっていたのだとしたら納得がいく。

「僕は、修行僧だったかもしれません。さっき通り過ぎた道場で修行していて、お花見の警備に駆り出されたとか、そんな役目だった気がします」

「私は、何役かは、わかりませんけど、当時この場所にいた気がするんです。ちょうど最近、秀吉について書かれた小説を読んだから、そう思うのかもしれませんけど」


 それからYさんは、最近、先生に勧められて読んだという、全八巻にも及ぶ、秀吉についての長編小説の話をしてくれた。Yさんは、高校に通って勉強をしながら、学校の授業以外でも、熱心にいろいろなことを学ばれているのだ。いくつになっても向学心を失わない姿には、僕も勇気づけられる思いがした。

「そういえば、学校の方はどうですか?」

「おかげさまで、無事に進級することができました」

「それはおめでとうございます。では、4月から二年生ですか?」

「ええ、そうなんです。それで先生に一年生の成績表を見てもらおうと思って、今日持ってきたんです」

「ああ、それはいいですね。先生に、なんて言ってもらえるのか、楽しみですね」


 1439分、そんな話をするうちに、僕らは、池の横の休憩所に到着した。休憩所には、赤い布のかけられたベンチがいくつか置かれている。他の客の姿はまばらで、ベンチの多くは空席になっていた。ここで先生が感嘆の声をあげられた。

「おお、ここが空いていることは珍しい。全員座れそうですね。ここで一休みといたしましょう」

 僕らは、いくつかのベンチに分かれて座った。茶店で注文した人だけが、休める場所だったので、各自、お茶やお菓子を注文する。僕は、KGさんにいただいたクッキー以外には、朝から何も口にしておらず、お腹が空いていたので、ぜんざいを注文した。

 熱々のぜんざいを食べていると、Yさんが先生のところに近づき、成績表を見せているのが見えた。僕は少し離れた場所に座っていたので、お二人が何を話しているのかわからなかった。でも、成績表をじっくりと眺めた先生が、顔を上げ、一言二言、何かをYさんに話されたのが見て取れた。Yさんは恐縮するように頭を下げた。Yさんの背中からは、控えめだけれど誇らしげな、淡い光が溢れていた。

 151分、休憩所を出発。




醍醐寺、三宝院


 1514分、三つ目の有料施設、三宝院に入る。

 三宝院は、豪華な作りの日本家屋で、池のある日本庭園と、そこに咲く桜が見事で、外国人を中心として、多くの観光客の目を釘付けにしていた。

 先生は、座敷の一つで集合をかけて解説を加えられた。

「ここが、秀吉が家康を接待した場所です。庭の向こうに見えている門から、入って来て、この場所で食事を振る舞ったということです。あの門を、先程は反対側から見ていたということです」

 なるほど、僕らは、歴史の舞台を建物の外と内から、実際に見ることになった。こうして現場で解説をしてもらうと、歴史に疎い僕でも、四百年以上前の出来事が容易に想像でき、秀吉が家康を手厚くもてなした様子が目に浮かんだ。




醍醐寺からの帰り道


 1525分、三宝院の外に出て、点呼。駅へ向かって歩き始める。

 僕は、再びYさんとお話ししながら歩いた。

「ツアーって楽しいですね」僕が言うと、

「そうですね。私は日帰りツアーは第一回から参加していますけど、本当に楽しいです」とYさんは答えた。それから、

「でもね、初めてのツアーのときには、先生には一言も話しかけられませんでした。なかなか勇気が出なくて」と言った。

「わかる気がします。僕も初めて先生とお会いしたときには、とても緊張したのを覚えています」

「そうでしょう。私も一言も話すことができなくて、とうとう、お別れの時間になって、最後に握手をしてもらったんです」

「ああ、いつも最後には、一人一人に握手をしてくださいますよね」

「そのとき、初めて先生の目を見たんですけど、先生の目は、人間の目には見えませんでした。なんと言うか、光そのものとでも言うのか、とにかく、輝いていました」

「それはすごい経験をしましたね。先生の真のお姿が見えたってことなのではないでしょうか?」

「ええ、そうだと思います。先生は、やはり特別な、光の存在なのだと思います」

 Yさんがそういったことに対して「でも」と言おうとしたところで、僕らは高架橋を渡り終え駅に到着した。Yさんとの話は、そこで終わってしまった。


 「でも」の後に僕が言おうとしたことは、こういうセリフだった。

 Yさん、僕はあなたも光の存在なのだと思います。現に先程、あなたの背中から光が溢れているのを見ました。そしてその光から、僕は確かに勇気をもらいました。




15時42分、地下鉄のホームに到着


 僕は、お隣にいた男性に話しかけた。光の学校で僕の前の列に座り、ひときわ大きな声で歌っていた方だ。中学校で数学を教えているというMTさんだった。MTさんは、歌声だけでなく、喋り声もとても大きく、ハキハキとしている。教師をやられているから、教室全体によく聞こえるような、声のよく通る発声方法が身についておられるのだろう。

 1550分、地下鉄に乗車。車内は空いていて、お仲間たちはそれぞれ好きな座席に座った。

 僕は、先生とMTさんが座った横ならびの座席の前の、車椅子スペースに立っていた。

「詰めたら座れるよ」と先生とMTさんが声をかけてくださり、先生とMTさんの間に座らせてもらった。

 僕は、紅葉ツアーのときに、先生とHPさんが並んで座り、お話しされていたときのことを思い出していた。あのとき、先生はHPさんが、ヘリコプターのパイロットだと知り、質問攻めにしていた。僕は、それを反対側の座席から見ていた。

「紅葉ツアーの京阪電車では、先生とHPさんが、こんな感じで、並んで座られていましたよね」

「ええ、そうでしたね」と先生。MTさんも、ふむふむと頷く。

「僕は、反対側の座席に座っていて、お二人の様子を見ていたのですが、HPさんがヘリコプターのパイロットだとわかると、先生が次々と質問されていたのを、よく覚えています」

「うん、ヘリコプターのパイロットをやっている人なんて、なかなか会えないからね」

 それから先生は、HPさんとの思い出話をしてくださった。観光ヘリのパイロットだと知り、すぐにツアーを企画しようと思い立ったこと。最初は信じてもらえなかったけれど、本気だと知ってとても喜んでもらえたこと。ふらりと学校に現れ、今が一番幸せだ、と言ってくださったということ。下見に行ったときに、受付にいた女性がとても驚いていたこと。

「『いったい何の集まりなんですか』という風に、受付の女性に聞かれたんですよ。だから、僕は『HPさんのファンの集まりで、私はその代表です』って答えたんです。そしたら、その方は『えっ! HPさんのファンがそんなに大勢いたとは、知りませんでした。しかも、全国にいるなんて』と驚かれました」と、先生はおっしゃった。

「うまい説明ですね」MTさんと僕は口々に言った。でも、その説明は、あながち間違ってはいなかった。実際に、僕らは、すっかりHPさんの魅力に取り憑かれていた。

「でも、先生があっという間に、ツアー開催にまで漕ぎ着けたのには、びっくりしました」と僕が言うと、先生は、

「価値ある仕事だということをお伝えしたかったんですよ。HPさんは、ヘリコプターのパイロットなんて人に言うような仕事でもない、と思っているようなところがありましたから。とても価値のある仕事だということをお伝えしたかったんです」とおっしゃった。それから、

「ツアーは実現できませんでしたけど、僕の目的は達成できたので、思い残すことはありません。唯一、心残りなのは、僕の本を差し上げたときに、その本にサインぐらいしてから渡しておくべきだったなと、そのくらいです」と付け加えられた。


 169分、京都市役所前駅着、改札の外で一旦集合し、光の学校に向かう。

 1616分、本能寺に立ち寄り、先生の短い解説。昔の本能寺とは場所が違うこと。「本能寺」の「能」の字が変形されているが、これは「ヒ」が「火」を思い起こさせ、焼け落ちた過去があるだけに縁起が悪いから。


 1625分、光の学校前で解散。いつものとおり、一人一人と握手をして、お昼の部は終了となった。


 僕は、早歩きでホテルに向かった。この近所では宿が見つけられず、この日のお宿は徒歩で十五分の場所にあった。ホテルに着いて荷解きを済ませると、休む間もなくホテルを出た。




再び光の学校、お花見ツアー夜の部


 178分、光の学校へ戻ると、MTさんが座っていらしたのでお話しした。MTさんは、僕よりさらに前から先生のご本を読んでおり、過去の様々なイベントにも数多く参加されているようだった。相当なマニアだ。「あのコンサートには行きましたか?」「あのイベントは?」などと話していると話題が尽きない。

 以前から気になっていた、過去のコンサートでひときわ声の大きな男性は、このMTさんであったに違いあるまい。長年の謎が、いとも簡単に解決した。まるで、シャーロック・ホームズにでもなったかのようだ。隣にワトソン君がいたら自慢したいところだ。


 夜の部は、MTさん、KBさん夫妻、中学生と思われる娘さん連れの母娘、僕の六人が昼からの連続参加。夜の部からの参加は、女性お一人だけだった。男性三名、女性四名、先生とスタッフを含めて十一名のコンパクトなチーム編成となった。

 しかし、この人数も、実際には出発直前までわからないわけで、なかなか大変なことには変わりない。先生は、もちろんだし、スタッフのみなさんも大変だろうと思われる。

 先発、中継ぎ、抑え、というようにスタッフの歩く位置は決められていることをお聞きしたが、もしかしたら、プロ野球選手と同じように、どこかでキャンプを組んで、どんな人数でも対応できるように訓練しているのかもしれない。




先生登場


 1730分、先生が登場され、夜の部のみ参加の女性に話しかける。その女性も常連さんらしく、親しげに会話をしている。HPさんの動画鑑賞は別の機会を設けるからという先生の提案で交渉がまとまり、すぐにお花見に出発することになった。

 1737分、一階ロビーを出発。タクシーで八坂神社階段下へ向かうことになった。

 1740分、河原町通からタクシー乗車。三台に分乗する。

 1812分、八坂神社、階段下で全員合流。あたりはものすごい人で溢れているが、先生は怯むことなく八坂神社の境内へ進む。

 日が沈むにつれて、境内に並ぶ露店の明かりが輝きを増していく。その明かりに吸い寄せられるかのように、多くの人が行き交う。

 外国人が多いのは昼間と同じだが、醍醐寺とは違い、欧米人の姿も多い。

 このあたりは大晦日のツアーでも訪れた。あのときは厳しい交通制限が敷かれており、行く先々で行く手を阻まれた。この日は交通規制はなく、どこへも出入り自由だ。

 先生は人混みをもろともせず、クネクネとごった返す境内を進んでいき、時々、立ち止まって写真を撮られている。

 僕は、時々、空を見上げながら歩いた。空の高い位置に月が出ている。もうすぐ満月を迎える上弦が膨らんだ月。天頂近くに膨らみかけた月が出ているのも、大晦日と同じだった。

 大晦日との違いは、桜が咲いていること。あたりはとても暖かいということ。空には透明なヘリコプターが飛んでいるということ。


 1835分、境内を出て八坂神社の外へ。先生は横断歩道を渡り、祇園の繁華街へと続く、路地へと進んでいった。ここからは、どこをどう進んだのか、京都ビギナーの僕には、よくわからない。

 先生は細い路地を抜けて、水路の上にかかる小さな橋の上へと連れていってくださった。

 橋を渡って、水路沿いの道を進む。水路に沿って植えられた桜は、見事に見頃を迎えている。

 水路の反対側の料亭では、花見をしながら優雅に食事を楽しむ人々の姿が見える。桜を愛でながら、祇園の一等地での食事。なんと羨ましいことだろう。この時期に、こうした場所で食事ができる人とは、いったいどういった人たちなのだろう。

「私も、あのあたりで食事をしたことがありますけれどね。期待したほどではなかったんです。目の前に川があって、優雅だと思ったんですけど、意外と眺めがよくないんです。値段が高いのは予想通りでしたけど」

 まるで僕の妄想を感じ取ったかのように、先生がポツリとそうおっしゃった。そう言われてみると、なんだかたいしたことではないように思えてくるから不思議だ。

 ついさっきまで、あれほど羨ましく思っていたのに。急に冷めた目で見ると、水路の向こうにガラス張りの小部屋が並んでいる様子は、まるで動物園のように見えなくもない。食事をする人たちが、失礼ながら、檻に入れられた動物のように見えてきた。

 実際、食事をしている人たちも、通りを歩く人たちから丸見えでは、落ち着かないだろう。祇園の水路沿いのお店で食事をするなら、通りから見えにくい、上の階の方がいいのかもしれない。


 満開の桜を愛でながら進むうちに、僕らは、いつのまにか大きな通りに出ている。

「先生とお話しされてはどうですか?」と、Mさんが声をかけてくださった。言われてみると、今回の旅では、まだ先生とはあまり話をしていなかった。だが、何を話したらいいだろう。横断歩道を渡る先生の背中を見ながら考えてみたけれど、咄嗟には歩きながら話せそうな良い話題を思いつかない。

 横断歩道を渡ると、目の前に京阪の駅へと続く地下通路の入り口があった。おお、この場所に出てきていたのか!

 年が明けた直後の元日の真夜中過ぎ、まさにこの場所でHPさんとお別れした。先生がHPさんに名刺を渡す姿を、僕はすぐ後から見ていた。それから、すぐにヘリコプターツアーの企画が決まり、そして今日、HPさんとの思い出を胸に、ヘリコプターツアーの代わりとなる一日を過ごした。特に夜の部で歩いた道は、年越しツアーでHPさんと一緒に歩いた道と、ほとんど同じだったことに思い当たった。

 僕は、もう一度空を見上げHPさんに声をかけた。

HPさん、ありがとう」

 桜の花の向こう側の、ずっと高い位置に、月が静かに輝いているのが見えた。


 1859分、京阪の駅で、MTさんとお別れ。先生は光の学校に向かって歩き始めた。

 僕は、地下に続く階段を下っているところで、先生に話しかけた。さっきまで、良い話題が見つけられないと思っていた筈なのに、このときは何の迷いもなく、先生に話しかけていた。

「先生は、どこへ行かれても、全く道に迷いませんよね。もともと道を覚えるのが得意とか、方向感覚に優れているとか、そういうことなのでしょうか?」

「そうですね。もともと地図を読むのが好きですし、方向感覚にも優れているかもしれません。子供の頃にオリエンテーリングという競技をやっていて、鍛えられたんですよ。小学生の頃に、広島県の大会で二位に入賞したこともあるほどです。大人に交じって」

 先生がオリエンテーリングをやっていたというのは、ファンの間では有名なエピソードだった。先生が光のメッセンジャー活動について初めて告白された伝説の名作の、序盤の重要シーンに、そのことが書かれている。

 しかし、県大会二位入賞のエピソードは、ご本には書かれていない。こうしたお話がお聞きできると、とても嬉しい。


 地下通路を抜けて、鴨川を渡ると、先生は先斗町の細い路地に入った。ここで再び、僕は先生に尋ねた。

「この路地は、ずっと昔から、この場所にあったのでしょうか? 細い道の両側にお店が並ぶ、繁華街だったのでしょうか?」

「この路地は、おそらく、ずっと以前からあったでしょうね。ただ、昔から繁華街だったかと言うと、疑問です。先斗町のポントというのは、オランダ語かポルトガル語から来ているらしいのですが、元々は、町外れといった感じの意味みたいですね。実際、昔は鴨川から先は、荒れ野が広がっていて、人も住んでいなくて、このあたりがちょうど、町の端にあたる地域だったんですね」

「なるほど! じゃあ、おそらく、戦国時代くらいの人が、当時町外れだった、このあたりのことを、当時最新の外国語を使って、ポント町って呼び始めたんですかね。なかなかオシャレなネーミングですね」

 そこからも、話題は尽きなかった。先生は通り過ぎる風景を見ながら、さまざまなお話をしてくださった。

 「犬矢来」と呼ばれる、先斗町の店先に置かれた竹細工。これは元々、野良犬の放尿よけだったということ。つまり、このあたりにも、昔は野良犬がたくさんいたということなのだろう。

 「早起きは三文の得」の語源。これは、鹿の死骸が自分の家の前にあると、罰金三文取られたことに由来するらしい。奈良の人々は、早起きして、鹿の死骸を他の人の家の前に移動させ罰金を逃れた。早起きすると爽やかな気持ちになって得をした気分になる、といった意味なのだと思っていたが、そうではなく、実に世知辛いエピソードが語源だったとは。実に面白い説だと思っていたら、「これは、奈良で人力車に乗ったときに、人力車の車夫の方からお聞きしました」と先生はおっしゃった。

 京都では、桜の木と柳の木が交互に植えられている理由。これは、陰陽道に由来するらしい。陰と陽のバランスを取るために、桜と柳を交互に植える。桜が陰で、柳が陽。桜は散ってしまうから陰なのだそう。「これは、京都に住み始めたばかりの頃、タクシーの運転手さんにお聞きしました。」


 先生は、実にいろいろな所から、知識を仕入れているのだ。ご本などで勉強するだけでなく、実際にその土地を訪れ、いろいろな人に話を聞く。土地のものを実際に食べてみる。実際に体験してみることで、新たな疑問が生まれ、再び知的好奇心も刺激される。

 先生のお話は、そういった好循環の上に成り立っている気がした。だからこそ、歴史の話をしている時でも、全てが生きたエピソードになっていて、聞いている僕らは、自然と惹きつけられていく。

「桜と柳が陰陽道に繋がっているとは、思いもしませんでした」と僕が言うと、先生はこのようにおっしゃった。

「世の中には、いろいろな疑問を持つ人がいるもんですよね。なぜ桜と柳が交互に並んでいるんだろうと疑問に思って調べてみたら、陰陽道に辿り着いた。人間、その気にさえなれば、あらゆることから学びや新たな知識を得られるものなんですね」

「なるほど。まずは疑問を持つことが大切かもしれませんね。桜と柳が交互に植えられているのがなぜなのかなんて、考えもしませんでした。日常の風景も当たり前と思わずに、疑問を持つといいのかもしれませんね」

「そうですね。疑問を持つこと。それに、あらゆることから学びを得ようと考えることが大切かもしれません。実際、その気にさえなれば、どんなことからも学びを得られますし、どんな体験でも学びを得たから良かったと考えること。これが大切です。

 今まで、数多くの方をカウンセリングしてきて思うのは、前向きな考え方のできる人の共通点は、常に学びを得られて良かったと考えられることなのです。この考え方ができる人は、例え失敗と思えるような体験からでも、学びを得て良かったということになって、失敗が失敗ではなくなるのですね」

「なるほど」と、僕は唸った。


 ここまで話したところで、河原町通りの交差点を渡り、三条通りのアーケードに入った。光の学校は目の前だ。先生のお話は続く。

「大学の教員だったころは、僕がこんな話をいつもするものだから、学生たちも賢くなってね。僕が叱りたい場面でも、叱れなくするんですよ。『先生、単位落としてしまいました。でも単位を落とすという学びを得ました』とか言ってきてね」

 最後は笑い話にして、先生のお話は終わった。


 でも、先生のお話は、僕の心の奥深くにまで突き刺さった。失敗と思える出来事からも、学びを得られるということ。そして、学びを得られたから良かったと思うことで、その失敗は失敗ではなくなるというお話。

 僕は、ずっと仕事での失敗に囚われていた。同僚を助けようとして、逆に避けられるようになってしまったということ。しかし、この出来事から、確かに僕は多くのことを学んでいた。

 人からあからさまな態度で拒絶を示されると、一体どのような気持ちがするのか。このことは自分が実際に体験するまで、僕には全くわかっていないことだった。それを身をもって知ることができただけでも、貴重な体験だったと言えるし、大きな学びを得たと言うことができた。


 「人生、何事も学び」という考え方は、生きがい論の基本中の基本とも言えることだった。僕は、これまで何度もそのことを教わって来た。先生のご本で教わり、セミナーや講演会やカウンセリングでも直接お話をお聞きして教わり、自分なりに理解していたはずだった。だけれど僕は、いつの間にか、この基本中の基本の考え方をすっかり忘れてしまっていたようだ。あるいは、理解したつもりでいても、自分の体験を伴った、腹の底からの理解にはなっていなかったのだろう。

 この日、並んで歩きながらの、何気ない雑談の中で先生のお話をお聞きしたことで、「何事も学び」とはどういうことか、初めてわかったような感覚があり、それが僕の腹の奥底の、一段と深いところまで落ちてきた。

 先生の一言は、僕の心を静かに包み込み、まるで柔らかい土壌にじょうろで注いだ水が吸い込まれていくように、僕の心の深い部分にまでゆっくりと染みわたった。


 1925分、光の学校の下で、先生たちとお別れをした。いつもどおり、先生は一人一人に握手をしてくださった。

 帰り道に、お気に入りの居酒屋に行って食事をした。めまいを起こすのが怖いから、お酒は飲まず、ノンアルコールビールで我慢した。

 一人で食事をしていても、寂しくはなかった。




お花見ツアー翌日


 翌日、僕は早起きして、比叡山に向かった。

 体は疲れていたし、誰と約束があるわけでもない。チェックアウトのギリギリまで寝坊してしまっても、全く問題は無かった。

 しかし、僕は6時にはベッドを出て起き上がり、食事を済ませると、地下鉄の駅へ向かった。

 人生、体験してなんぼ、楽しんでなんぼだと思うと、自然と体が動き出していた。


 地下鉄東西線から京阪電車を乗り継いで、滋賀県の坂本に向かう。坂本からはケーブルカーで比叡山に登った。

 このルートを選んだのには、二つ理由があった。一つには、坂本が比叡山を開いた最澄の出身地であり、最澄も坂本から比叡山に登ったということ。これは、先生が紹介してくださった、最澄と空海に関するご本を読んで知ったことだった。

 そして、もう一つの理由は、地下鉄東西線から京阪びわ湖浜大津駅に行くルートが、地下鉄、登山鉄道、路面電車が一度に味わえる、乗り鉄の間では有名な路線だということ。

 実際にその電車に乗ってみると、YouTubeの映像で見ていたのとでは比べ物にならないくらい楽しく、ワクワクし通しだった。


 それに続くケーブルカーも、歴史を感じさせて味わい深かった。ケーブルカーの車内で、突然、「Rose」のメロディーがオルゴールで流れたのにはびっくりした。大晦日のコンサートで、HPさんと一緒に一曲目に歌った歌だ。こんな偶然ってあるのか?

 そんなわけで、比叡山に着いてからも時々、空を見上げた。HPさんは、今日も、来てくれているだろうか? HPさんが来てくれているとしても、僕のところではなく、先生たちのところかもしれない。先生たちは、今日もツアーをやっているのだから。


 比叡山は、広大な敷地に、幾つもの建物が建っている。事前に予習しておいた、ガイドブックのお勧めルートに従って、進んでいくことにする。行き当たりばったりで進むと、帰りの新幹線に間に合わなくなる危険もあるから、油断は禁物だ。

 しかし、一箇所だけ、なぜか惹かれる場所があって、お勧めルート外の石碑に立ち寄ってみた。根本中堂の脇にある石碑だ。人は誰もおらず、なぜその場所に惹かれたのか、わからなかった。

 行ってみて驚いた。宮沢賢治さんの石碑だった。賢治さんが、根本中堂に訪れたときに詠んだという歌が書かれた石碑が、ひっそりと建っていた。僕は、思わず石碑の前で手を合わせて、頭を下げた。


 比叡山訪問の最終盤、山頂にたどり着いた。

 山頂の展望所からは、遠くに京都の街が見えた。あの街のどこかに、今日も先生たちは、いるに違いない。おそらく、その上空にHPさんもいることだろう。

 それと同時に、この比叡山上空にも、HPさんが来てくれているようなことは、ないのだろうか?

 光の世界にいるのなら、そんなことも、できたりしないのかな?……僕のことも、見てくれているような気がするんだけど。

「当たり前やろ」

 HPさんの声がした。

「いつも見てるで。それに僕だけやない。みんなで見てるで。ここには、過去も、未来も、ないんや。あるのは、今だけや。永遠の今が、あるだけや。この世界で、みんなで見守っているから、大いに、楽しんでくれたらええんや」

 みんなで見てる?……なんのことだろう。そのとき、なぜだか、HPさんだけでなく、いろいろな人の顔が浮かんだ。姉の顔、宮沢賢治さん、おじいちゃんやおばあちゃん。それに、僕の知らない何代も前の先祖たち。そんな様々な人たちが、僕のことを、ニコニコしながら、見てくれているイメージが湧いた。

 そんなに、たくさんの人が見ていてくれるなら、僕がどこへ進むべきなのか、もう少しわかりやすく、教えてくれても良さそうなものだ。僕は、いつまで会社員を続けるのだろう。何か一人で生きていく術は、ないだろうか?……僕は、どこへ進めばいいのだろう?

「行きたいところへ、行けばいいんや。深く考えなくてもええ。余計な力もいらん。肩の力を抜いて、すっと、一歩前に踏み出すだけでええんや。そしたら、後は、勝手に風が運んでくれる。行くべき場所に、連れていってくれる。そうや、ヘリコプターの操縦と一緒や。操縦桿は、ほんのちょっとだけ、行きたい方向に、気持ち、力を加えてみるだけでええんや」

 HPさんは、そのように言って、僕を励ましてくれた。そして、HPさんの背後には、多くの、眩しく輝く存在たちがいて、暖かい光を送ってくれていた。


 ロープウェイとケーブルカーを使って、京都市内に降りた。電車を乗り継いで、京都駅に戻り、京都駅からは新幹線に乗った。

 今回も楽しい旅だった。先生、スタッフの方たち、同志のみなさん、いろいろな人と、いろいろな話をすることができた。

 それに、光の世界にいる、HPさんとも交流ができた。HPさんだけでなく、光の世界にいる無数の存在たちが、見守ってくれているようなイメージも見えた。

 しかし、あんなに多くの存在たちが、僕を見守っているなんてことが、本当にあるだろうか?……よりにもよって、こんなちっぽけで、平凡な存在にすぎない、僕のことを。


 車窓に流れていく景色を見ながら、僕は旅を振り返っていた。滋賀県を過ぎて、岐阜の山中に差し掛かった頃、僕は突然、つまらないことが気になり始めた。

 今回、傘は忘れていないだろうか? 足元に置いた鞄を開けて、手探りで折り畳み傘を探す。手に触れた傘を取り出し、安心してもう一度、鞄の奥底へとしまい込む。

 そのとき、指先に何かが触れた。この感触は黒い革のノートだ。僕は、思わずノートを取り出し、白いひものしおりが挟まれたページを開いた。


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ジャンニとジオ


 先生がその小さな教会へ連れていってくれたのは、白い花の甘い香りがあたり一面を覆いつくしていた頃だった。

 半年に及んだ旅は終わりを迎えようとしていた。周りの風景が徐々に見慣れたものに変わり、人々の話す言葉に懐かしい響きが混じるようになった。

 いくつかの峠を越えて、大きな街道に出ると、僕らはその道が、石の教会の麓にある町へと続く一本道だと気づいた。この道をまっすぐに南下すれば、明日にでも石の教会に着くことができそうだった。

 でも先生は、街道を折れて山道を進み、僕らをその小さな教会のある村へと誘った。教会の前で立ち止まると、先生はここで音楽会を開くと言った。この旅、最後の音楽会になるのだろうと思われた。

 仲間たちと準備をする僕のところへ先生が来て、裏の墓地へ行くようにと告げた。僕は一人で教会の裏にある墓地へと足を踏み入れた。

 墓地の周りには白い花が咲き誇り、甘い香りは一段と強くなった。このところ、甘い香りがするたびに、僕は胸に痛みを感じるようになっていた。でも、不思議とそのときは、胸の痛みのことは忘れていた。

 古い墓石が並ぶ中に、一つだけ新しい墓石があった。おひさまに照らされ白く光り、輝いているように見える。僕は、その光に導かれるようにして、白い墓石の前まで進んだ。

 墓石には、ジオの名前があった。僕は両手に抱えきれないほどの白い花を集めて、墓石を飾った。白い花を飾った墓石の前に跪いて目を閉じ、祈りをささげた。


 どのくらいの時間が経っただろう、気がつくと、教会の方から歌声が聞こえてきた。先生たちが音楽会を始めたのだ。

 僕も声に出して歌った。ジャンニのことを思いながら、ささやきかけるようにして歌った。

 するとどうだろう。僕の声に合わせるようにして、ジャンニが歌い始めた。それと同時にジャンニの気配が目の前にあった。

 ジャンニだ! 僕は思わず目を開ける。でも、目の前には、白い花で飾られた墓石があるだけだ。

 僕は、もう一度目を閉じる。胸の中が温かくなる。ジャンニは確かにここにいる。

 僕は、今こそ、「愛してる」と口に出して言おう。この歌を歌い終わったら、今こそ愛を伝えよう。そう思いながら、歌ったっていた。

「そんなの必要ないじゃない」

とジオが言った。

「だって、私たち、こうしてつながっているんだもの」

 胸の中が一段と温かくなる。僕はいつの間にか涙を流しながら、歌っていた。

 それからも僕たちは二人で歌い続けた。

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 黒い革のノートを閉じた後も、僕の胸の中はまだ温かく、甘い匂いもかすかに残っていた。

 車窓には、通勤中に見慣れた風景が広がっている。音声案内が流れたのをきっかけに、僕は新幹線を降りる準備を始めた。鞄の中にノートをしまいながら、僕は比叡山の山頂で見た風景に再び思いをはせた。

 空のずっとむこうの高い所に無数の光の存在たちがいた。そこから僕のことを見守ってくれていた。でも、どうして、わざわざ、こんなちっぽけな僕のことをあんなにも多くの存在たちが見守ってくれているのだろう?

 東京駅に着く。電車を降りる。ホーム上から、空を見上げた。

 その瞬間に、突然、答えが届いた。


 光の世界から、無数の存在たちが、あなたのことを、見守ってくれている。
 温かな視線で、あなたのことを、照らし続けてくれている。

 それはなぜか?

 それはあなたが
 唯一無二の存在として
 この地球に生まれて来ているから

 あなたに地球でしかできない
 様々な体験をしてほしいから

 それがやがてあなたにとって
 大きな学びとなり
 あなたは、さらに眩しく輝く存在となる

 その眩しく輝く姿で
 光の世界に帰ってきてほしいから


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 僕がジャンニと呼ばれるようになるより、ずっと昔。僕たち二人は、いつも一緒だった。

 先生に連れられて、海の壁の間を通り抜けた先で、僕たちは先生や皆と一緒に歌を歌った。

 歌を歌い終わると先生は、それぞれが行きたい場所へ行くようにと言われた。東でも西でも北でも南でも、行き先は自由に決めていいし、これからどう生きるか、それもあなたがた次第だと言われた。自由といっても、それには責任が伴う。そう言って、僕らが守るべきいくつかの掟も授けてくださった。

 それから旅立つ一人一人に握手をして、一言ずつ声をかけてくださった。

「自分の人生を生きること、それが一番大切なことだ。自分を信じて進みなさい。たとえ二人が離れ離れになったとしても、いつかまた会える。そう信じて歩き続けなさい」

 僕たちは先生から授かった言葉を胸に、まだ見ぬ世界へ旅立つことにした。

 帆船に乗り込み、嵐の海へと漕ぎ出すことにした。


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 あれからずっと、旅は続いている。

 そして、僕たちの旅は、まだまだ続く。



 


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