《 飯田史彦による緒言 》
以下の作品は、2025年5月にJTBさん主催で私が開催した、「飯田史彦の案内で巡る大阪万博ミステリーツアー」(写真によるレポートはこちらをご参照)にご参加くださった男性(小説家さん)が、(私の知らないうちに)お書きくださった新作です。(登場人物は、すべて実在なさっていますが、仮名にしてあります)
ツアーの内容と体験を、詳細なドキュメンタリー(事実報告)として忠実に再現なさっており、その過程で抱いた印象や深めた思考に基づいて、小説的な創作を加えながら、興味深く楽しめる傑作に仕上げてくださいました。(私を美化しすぎていますが、そこは「主人公を描写する際の小説的技法」だと解釈なさってくださいね・・・笑)
それでは、読者の皆様も、ぜひ一緒に参加している気持ちになって、わくわく、どきどきしながら、私との旅を満喫なさってくださいね!!
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《 本 編 》
先生がその旅の告知を出されたのは、まだ冬の寒さが残る3月初めのことだった。
その日僕は、就寝前のひと時を自宅のリビングで過ごしていた。カウチの上でスマホを操作し、先生のホームページを訪れた。
最新の更新箇所を確認すると、旅の告知が出ているのに気付いた。先生が旅の企画を出されるのはよくある事だし、その旅を企画するかもしれないという話は以前からされていたので、特に驚きはなかった。
僕は、先生のご本は全て読んでいるし、講演会や音楽療法にも何度も参加してきた。だけれど、旅の企画には一度も参加した事がなかった。今回も、参加するつもりはなかった。
それでも、一通り先生の書かれた企画書には目を通してみることにした。先生の告知に目を通すのは、先生のファンとしての決められたルーティンワークのようなもので、特別なことではなかった。
この旅には、参加した方が良いかもしれない。企画書を読み始めて、すぐにそう思った ―― 理由はよくわからない。
もともと旅の企画には消極的だったし、今回の行き先にも興味がない。にもかかわらず、参加したいと思ったのはなぜなのか?
はっきりとした理由は浮かばない。
敢えて理由を挙げるとすると、ひとつには、この機会を逃すと、この先そんなにチャンスは多くないのでは感じたこと。もうひとつは、旅の日程が週末だったから、仕事を休まずに参加できると思ったということになるのだが、どれも決め手になるような理由ではなかった。
だが、企画書を読むうちに、参加したいという気持ちは徐々に大きくなって行った。
参加すれば多少なりとも先生とお話しできるのではという思いや、あわよくば先生に悩みを相談することだってできるのかもしれない、という思いが湧いた。
企画書を読み終えた時にはすっかり参加する気持ちになり、一週間後の募集開始を待つことにした。
ところが、募集開始を待つ間に、決心が揺らぎ始めた。
カッパくんの声が、聞こえてきたからだ。
「先生とお話しするチャンスは、そんなに無いと思うよ」
カッパくんは、最初にこう呟いた。
「先生は人気がある訳だし、今回だって20人 ―― いや、それ以上の参加者がいるはずだ。その中には深刻な事情を抱えて、切実に先生を必要としている方たちが、間違いなくいらっしゃる。むしろ、そういう方たちの方が、多いだろうよ。先生も、当然そういう方たちのケアに時間を割く事になる。お前なんかと関わっている時間は、ほとんど無いと思うよ。お話しする機会だってほとんど無いし、ましてや人生相談なんて ―― そんな虫のいい話がある訳ないだろ」
カッパくんの言い分は、もっともだった。彼は、いつも僕に対して、冷静で的確なアドバイスをしてくれる。
「それに、万博なんて、全く興味ないんだろう?」
これが、カッパくんの二つ目の囁きだ。
そう ―― 実際、僕は、万博には全く興味がなかった。だからこれを言われると、ぐぅの音も出ない。
「一人で参加して大丈夫なのか? きっと浮くぞ、お前」
これが三つ目の囁きで、僕の最も弱いところを、突いてきた。
「お前以外の参加者は、だいたいがご夫婦とか、家族連れとか、友達同士とか、そんな人たちが殆どなんだよ。あるいは常連さん。50代半ばのおっさん一人の初参加者なんて、お前だけだよ、間違いなく。万博会場を歩くだけならいいけれど、食事だってあるんだぞ。知らない人たちの中に、ぽつんとお前がいて、まわりのみんなが盛り上がってる
―― そんな光景が目に浮かぶぞ」
カッパくんは容赦がなかった。
何しろ、カッパくんと僕は長い付き合いなのだ。僕が先生と出会って、もう四半世紀以上になるが、カッパくんと僕は、それよりもずっと以前からの知り合いだ。僕の弱みをよくわかっていて、巧妙にそこを突いてきた。
僕はすっかり弱気になり、申し込み開始日になっても参加の決心がつかず ―― 一旦は参加を諦めかけた。
ようやく決心がついたのは、それからさらに一週間が経った頃だった。
先生のホームページの通信欄に、申し込み状況が発表されていたのだ。
「旅の参加者が、あと一人で最小催行人数に達する」―― そのお知らせを見て、まるで僕に最後の一人になるよう呼びかけているかのように感じた。
思い込むと、行動は早い。
記事を目にした中央線の車内で、あっという間に旅行会社への申し込みのメールを書き上げ、送信してしまった。
あっけなかった。
でも、それからしばらくは、「自分が先生との旅に参加する」という実感は、今ひとつ湧かなかった。
本当にこのツアーは行われるのだろうか?
自分がその一員として、参加する事になるのだろうか? ―― そんな疑いが、心の底に残っていた。
当時の僕は仕事が多忙を極めていた。職場環境の悪さが誰の目にも明らかになり、周囲が右往左往し始めていた。それに伴い、僕の仕事も急激に変化していた。僕はあまりのひどい状況に呆れて、徐々に諦めの心境になりつつあった。
その心境の変化については、別の小説に書いたのでここでは触れないが、この頃の僕は、心の中で先生のお歌『嵐の海へ』を口ずさむことが増えていた。
同僚や友人達には、「自分の仕事は『タイタニックの甲板の上でバイオリンを弾く』ようなものだ」と言ったりしていた。半ば冗談、半ば本気で言っていたのだが、だいたいの人たちは、どう答えていいのかわからないというような、困った顔をしていた。
その中でシローさんだけは、「それって最後には死ぬって事じゃないですか!」と、実に適切なリアクションを返してくれた。僕は嬉しくなって、「ええ、そうなのですよ」と答えると、シローさんは少し呆れたように、でも優しく頷いてくれた。
話がそれたが、仕事に対する気持ちが徐々に変化しながらも、僕は、先生の旅の企画が本当に行われるのか、疑いの気持ちを拭えないままだった。旅行会社から入金などの連絡も無かったし、先生からも、申し込みを締め切った後には、何の告知も無かった。
4月も10日を過ぎた頃には、さすがに不安な気持ちが大きくなって、旅行会社の方にメールを出した。もしかして、自分にだけ連絡が漏れているような事もあるのかもしれない、と思ったからだ。
この旅の旅行会社の担当の方は、菊池さんというお名前だった。その苗字には愛着がある。僕の大好きな、広島カープのセカンドを守る名手、菊池涼介選手と同じ苗字だったからだ。だからこの旅行会社の菊池さんも、きっと良い方に違いない ―― そう信じていた。
しかし、菊池さんからは何の返事も無かった。
本当にこの旅行は行われるのだろうか?
僕の疑惑は、4月15日にピークに達した。先生が音楽療法イベントの企画を発表され、その裏タイトルが「大阪万博をぶっ飛ばせ」だと宣言されたからだ。これはいよいよ、ツアー中止の前振りに違いないと思った。
しかし、その3日後に僕の疑いは晴れた。
菊池さんから、ツアーの具体的なお知らせが届いたからだ。
それと共に、先生からも様々な事前情報が届くようになり、入金も済ませると、徐々に自分も旅に参加するのだという気持ちが湧いて来た。
僕のツアー参加への興味はただ一点、先生が、いったいどのように旅をアレンジされるのか、という事に尽きた。
どこのパビリオンを回り、どんな話をされるのか。
それを、出来るだけ間近で観察したいと考えていた。
これは、先生のファンとして、一度くらいは旅の企画にも参加しておいた方がいいだろう、という思いと、参加するからには先生の行動をつぶさに観察したい、という単純な考えに過ぎなかった。
またそう思うことで、一人参加の不安を払拭したいという狙いもあった。周囲から浮くような事があっても、「自分の目的は先生の観察にあるのだから良いだろう」と理由付けする事で、自分を守る考えだった。
楽しみと不安を比べると、不安の方が少し大きい気がした。
「お前、本当に参加して大丈夫なの?」と、カッパくんは囁き続けていた。
でも、もう後戻りは出来なかった。
「いったいどうして旅の申し込みをしたの?」とカッパくんに尋ねられたとき、僕は考え込んでしまった。たしかに、どうして僕はこの旅に行きたいと思い、実際に申し込みに踏み切ったのか?
不安の方が明らかに大きいのに ―― 明確な理由は、思い浮かばない。
単純に先生にお会いしたいという以外にも、何かに突き動かされたような所があった。
例えば、この旅で奇跡的な出会いを果たすとか、今後の人生を変えるきっかけとなるような重要な何かが起きるかもしれない ―― という淡い期待があった。
奇跡的な出会いって何だろう?
たとえば、会場のどこかで偶然シローさんとばったり出くわすとか、そんなことだろうか?
シローさんと偶然の出会いを果たした僕は、すぐに意気投合して話し込む。先生のツアーを離れて二人だけの時間を過ごす ―― とか、そんな展開が頭に浮かんだ。
先生の旅の案内には、「途中でツアーの行程を抜けて自由行動をしても構わない」と書かれていた。
「そんな事、起きるわけ無いだろ」
カッパ君から突っ込みが入るまで、僕は妄想を続けていた。
先生からは事前に、様々な万博情報が出された。YouTubeの動画紹介に始まり、ご自身で下見された際の情報も逐一紹介された。
下見は一度だけで無く、二度、三度と続いた。三回も下見されたのには、正直驚いた。先生は元々が学者であり、探究肌で何事にも凝るたちだとは知っていたが、三回もの下見は物好き過ぎる気がした。
でも、これには深い理由があった事が、後々分かることになる。
僕は先生からの事前情報を見て、少しは予習して臨んだ方がいいかも知れないと思うようになった。幾つかの動画を見てみたり、ガイドブックを買ってみたりはした。
でも結局、あまり熱心に下調べをする気が起きず、予備知識はほとんど身に付かなかった。会社での仕事と、締め切りの迫った小説の執筆が忙しく、時間が取れなかったせいもある。
それに、僕の目的は「先生の行動を観察すること」にある。であれば、余計な事前情報は不要だろう。そう考えた、ということもあった。
5月17日(第一日)
そんな訳で結局のところ、「出たとこ勝負」のような形になった。充分な事前準備をしないままに、旅の当日を迎えたのだ。
「自分だけ浮いてしまうかもしれない」
そんな不安を胸に抱えながら、僕は東京駅へと向かった。
東京駅には少し早めに着いた。
まずは改札の外にあるスタバに向かい、小説の推敲に取りかかった。月末が締め切りの原稿は、ようやく形になったものの、直したい箇所はまだ山ほど残っていた。前日にプリントアウトしておいた紙の原稿をめくりながら、気になる箇所に赤で訂正を入れていく ―― そんな作業に没頭した。
出発の30分前まで作業を続けた僕は、再び改札内に入り、構内の店舗を物色した。すると、行列の出来ているおにぎり屋を見つけた。車内で食べる昼食用に、おにぎり4個を買い求め、新幹線ホームへと向かった。
この日乗車するのは、9時33分発ひかり33号グリーン車。早割でひかり号のチケットを買うと、のぞみの指定席と千円弱しか変わらない値段でグリーン車に乗れる事を知り、手配した物だった。
過去に新幹線のグリーン車に乗った記憶はない。おそらく初めての事だ。
ワクワクしながら乗り込むと、なるほど車内は2×2列と広めでゆったりとしている。事前に手配していた、進行方向右側の窓際の席に座った。この日はあいにくの曇り空で、富士山が見られそうにないのは残念だったけれど、ゆったりとした座席で、快適な旅が出来そうだった。
天気と言えば、この週末の大阪の予報は二日間ともずっと雨だった。二日間、雨に降られ続ける覚悟で、多少濡れても大丈夫な上着と折り畳み傘を持参していた。
最新の天気予報を確認すると、大阪の天気は今も雨だが、午後から回復に向かう事を示していた。これは吉報に違いなかった。
ただ天気がどうであれ、自分の目的は、先生の言動をつぶさに観察する事にある。その目的を考えると、天気の影響は自分にはあまり関係ないものと思われた。
また、一人で参加する自分には、むしろ天気は雨くらいの方がいいかもしれなかった。傘をさしていれば、自分だけ一人だと言う事がバレずに、うまく場に和んだように見えるかもしれない、と思ったからだ。
ゆったりとした車内で、原稿の推敲は着々と進んでいたが、小田原駅で状況が一変した。外国人観光客が乗り込んで来たからだ。
どでかい荷物を持った、どでかい体の外国人男性が、僕の隣に座った。短パンにTシャツ姿の白人男性は、典型的なアメリカ人に見えた。とてつもなく大きな荷物を棚の上に載せた。四人ほどのグループ全員が、同じくらい大きな荷物を次々と棚に載せていく。回りの棚はあっという間にいっぱいになった。更に棚に載せられない荷物は通路に置き、通路にも置けない荷物は膝の上に置いた。
隣に座った白人男性は、ビッグサイズな四人組の中でも特大だった。グリーン車の座席でもかなり窮屈そうで、無理に体を丸めないと収まらない様子だ。膝の上に荷物を載せると彼のスペースには全く隙間が無くなり、僕の左隣は完全な壁になった。僕の座席にはみ出さないように気を使い、肘も体にくっつけている。その配慮はありがたいのだが、その窮屈そうな体勢で大きなため息を漏らすのを聞いていると、僕も出来るだけ小さくなって、窓にくっつくように座らざるを得なかった。
急に窮屈になった車内で、とても推敲を続ける心の余裕は無かった。原稿をしまって目を閉じ、先生の奏でる音楽に耳を傾ける事にした。京都到着まではまだあと二時間もある。わざわざ千円近く多めに払ってまで、こんな窮屈な体験をすることになった。自分の運の無さを恨むしかなかった。
しかし、お隣の外国人が幸運にも名古屋で降り、そこから各駅停車に変わったひかり号は、のんびりとした様相になった。
買っておいたおにぎりも食べ終わり、名古屋を出てから一時間で京都に着いた。
京都駅にて
京都駅のホームからコンコース階に降りると、僕の緊張はいよいよ高くなった。心を落ち着けるために、まずはトイレに向かう。
さらには構内のスタバでお茶も買う事にした。スタバには行列が出来ている。外国人の姿が目立つ。外国人観光客の多さは東京以上のようだ。
僕の前に並んでいる客も白人の家族連れだった。女性の店員さんに注文を伝えている。アメリカ人のようだ。店員さんも流暢な英語で応じている。帰国子女か、留学経験でもあるのだろう、日本人なまりの無い、きれいなアメリカンイングリッシュで応答していた。
白人の家族連れが立ち去ると、いよいよ僕の番になった。
「何を飲まはれますか?」
僕に対して店員さんが話しかけてくれた言葉を正確には覚えていないのだが、おそらくこんなセリフだった。普段耳にする事の無い地元の言葉で話しかけてもらい、僕はすっかり感動してしまった。彼女の話す英語は全くなまりがなかったのに、日本語は見事になまっていたからだ。
いや、なまっているという言い方は失礼だろう。彼女が話している言葉は、古都京都で昔から使われている伝統的な言葉であるに違いあるまい。僕は自分が紛れもなく京都に来た事を実感して、いよいよ改札の外へと向かう事にした。
京都には数えるほどしか訪れた事が無く、土地勘は無い。旅のパンフレットを何度も確認し、慎重に指定された出口に向かった。
建物の外に出ると、雨が降っていた。地下通路を抜けて道路の反対側に回り、傘をさして集合場所に向かう。
すぐに目印の旗を持った男性を見つけた。この方がどうやら菊池さんのようだ。彼に名前を告げて、ツアー仲間の団体に加わった。既に十名以上の参加者がいた。先生の姿はまだ無い。
予想通り数名のグループに別れて、皆楽しそうに談笑している。一人でぽつんと立っているのは、やはり僕くらいのようだった。近くの人たちの会話に聞き耳を立てる。過去のツアーの話なんかをしている。どうやら常連さん同士のようだ。僕だけが一人ものかもしれない。僕の不安と緊張は、一層高くなった。
出発十分前くらいだっただろうか。いつの間にか先生が姿を見せている。
あっという間に先生を取り囲むように輪が出来る。
皆、口々に先生に話しかける。
スタッフらしき女性が僕にも先生がいらしている事を教えてくれ、先生の近くに行ったらどうか、というようなそぶりを見せた。
だが僕は、先生の回りを取り囲む輪の中に割って入って、先生に話しかける勇気は無かった。スタッフの女性に、「はあ」といった意味不明な情け無い挨拶だけ返して、その場に立ち尽くした。
参加者の中に、一人だけ気になる女性がいた。若い女性だが、とても表情が暗い。何か大きな心配事か、悩みを抱えているように見える。その表情は、僕と同じくらい孤独に見えた。
一人で参加されているのだろうか?
であれば、孤独な人間同士で仲良くなれるかもしれない。話しかけて見ようかと考えたが、慎重に観察すると、一人では無い事が分かった。ベンチに座っている年配の女性が連れのようだった。
暗い表情の理由は、その年配の女性を心配していたからだ、という事は後で分かった。そして今回の旅がこのお二人のために企画されたもの、と言っても過言では無かった事も後々わかる事になった。
結局、僕は参加者の誰とも喋る事も無いまま、集合時間の13時を迎えた。
菊池さんの案内に従いバスへ向かう。
自由席だが前二列は空けるようにとの指示があった。先生たちが座るからだ。
僕は預ける大きな荷物も無く、真っ先に車内へ乗り込んだ。前方の先生に近い席は誰もが座りたがるに違いない。一番後ろの進行方向左側の席に座った。
予想通り前の方から座席が埋まっていく。後方には何席か空席が残った。二人がけに一人で座っている参加者も何人かはいた。僕の他にも、一人で参加している方が少なくとも数名はいるようだった。
少しだけほっとした。
バスの車内
緊張感が取れないまま、バスは出発した。
菊池さんの案内に続き、いよいよ先生のお話が始まったのは、出発して五分ほどが経った頃だった。
「皆さん、こんにちは」
先生独特の柔らかく包み込むような、ゆったりとした口調で、先生のお話はスタートした。
僕はノートとペンを持つ手に力を込めた。先生のお話を一字一句も聞き逃すまい、という覚悟だった。
「私の声を聞くと眠くなる、とよく言われるのですけどね。昔、大学の授業は、いつもこんな感じでやっておりました。今日も、授業と同じ口調、喋り方でお話しいたします」
とてもゆったりとした口調だ。癒しに満ちている。目を閉じてお声だけに耳を傾けていれば、確かにぐっすりと深い眠りに落ちる事が出来そうな口調である。
だが、僕はそんな訳にはいかない。先生の言動は全て記録するつもりでここに来たのだ。もう一度、気合いを入れ直し、また、自分の望んだ場面がまさに今訪れている事に喜びを感じながら、ペンを握り直した。
「まず、最初にお伝えしたいのは、皆さんは本当に幸せ者だという事です。今こうして、万博に訪問する事ができている。それは本当に幸せな事なのです。
世の中には、万博に行きたくても行かれない人が、大勢いらっしゃるのです。そこには様々な理由があります。時間が無かったり、経済的理由であったり、お身体が悪かったり、あるいは本当は行きたいのに心に蓋をしてしまって、行かなくてもいいやと思ってしまっていたり、様々な事情で行きたくても行く事ができない人たちが、大勢いらっしゃるのです。
だいたい世の中の十人中九人は、心の奥で、できれば本当は行きたいと思っていても、諸事情で行く事が出来ない人たちでしょう。だから皆さんは、十人に一人に当選したようなものであり、もう今の時点で、本当に幸せな御方なのですね」
そうか、僕は既に幸せなのだな、言われてみればその通りだ。
「ちょっと大げさじゃないの」とカッパくんが言った気がしたが、その声はいつもより、随分とおとなしめだった。
先生のお話は、それからも続いた。世の中に万博の悪口が溢れている理由について、先生なりの解釈を説明された。
悪口には二種類ある。一つは意図的な悪口。政治的などの目的を持って、意図的に、嘘や誇張を含む悪口を広めている方々がいる、という事。
もう一つは、悪意の無い悪口。悪意は無いけれど、行ってもしょうが無い、意味が無いという気持ちから、悪口を言う人々がいる、という事だった。それは、心理学用語では、「合理化」と呼ばれる行動で、自分の身を守るために大人なら誰でも行っている行為との事だった。
人間は、やりたくても出来ない事に必ず遭遇する。そういう場合に、やりたいけど出来ないのではなく、やっても意味が無いからやらないのだ、と理由付けするのが合理化だ。この合理化を行う事で、上手く自分を諦めさせる。
この作業無しには、人間は社会生活を営む事は出来ない。幼い子供はこれが出来ず、自分の思いが叶わないと駄々をこねる。合理化が少しずつ出来るようになるのは、小学校三、四年生くらいからだ、という解説だった。
その解説の後にこう続けられた。
「人がなぜ悪口を言うのか。それは劣等感から来ているのですよ。相手が自分に無いものを持っている。その事に劣等感を感じて、ついつい相手の事を非難したくなって、悪口を言ってしまうのです。だから誰かから悪口を言われたら、このお方は自分の事を羨ましく思っているのだなあ、と考えればいいのです」
先生のゆったりとした口調は、多少難しい話をされる時にも変わらなかった。
悪口に対する身の守り方は、これまで、ありとあらゆる場面で非難を浴びた経験をお持ちの、先生ならではの深い実感に基づいているのだろうと思われた。
しかし、先生はそれをあえて表には出されず、淡々と話をされていた。
「おまえ、会社の偉い奴らの事、羨ましく思っていたの?」
ここでカッパくんが囁いた。カッパくんは、僕がいつも会社の悪口ばかり言っている事を指摘しているのだった。
確かに、僕は会社の上層部の連中に失望し、その悪口を口にすることが少なくなかった。社長の悪口だけならともかく、会社では神か天皇かのように崇められている会長の悪口を口にするのは僕くらいで、それを口にすると、回りの人間は露骨に嫌な顔をするか、聞こえなかったふりをする場合がほとんどだった。
僕は、会長や社長の事を羨ましく思っていたのだろうか?
僕は、彼らを羨ましがっているつもりは無かった。むしろ、彼らのようにはなりたくないと思っていた。
確かに彼らは、僕が持っていないものを数多く持っている事には違いなかった。彼らが持っている富や名声や権力は絶大だった。だが彼らはそれに決して満足せず、より大きな富・名声・権力を手に入れたいと願い、終わりの無い欲望の渦に囚われているように見えた。
もちろん、それは会社のためでもあり、従業員のためでもある。会社を大きくすることで経営が安定し、従業員の待遇も上げる事が出来る。確かに理屈は通っている。実際、彼らはそれなりの努力もし、大きな責任やプレッシャーとも戦いながら仕事をしている事だろう。その見返りとして富や権力を得ているのだ。
しかし、だからと言って、彼らが会社の業績を上げるためという名目のもとに、むやみに人を傷つけるのを許す気にはなれなかった。そんな彼らの姿を見ていると、ついつい悪口も言いたくなってしまうのだった。
先生のお話はそれからも続き、万博会場に着いてからの、具体的な行動についての話になった。
「体力に不安のある方は、迷ったら車椅子を使ってくださいね」
先生は語りかけるようにおっしゃった。
「本日も既にお一人、車椅子を使いたいと申し出ているお方がいらっしゃいます。他にも使いたいお方がいらっしゃいましたら遠慮無く言ってください。
車椅子に乗るのが恥ずかしいとおっしゃるお方がいらっしゃいますが、そういう人は車椅子に乗っているお方を下に見ている、という事なのですよ。私は普段から、車椅子に乗っているお方は試練に立ち向かっている素晴らしいお方だと尊敬していますから、自分が車椅子に乗るのも全く恥ずかしく無いのです」
こう言った先生の話ぶりには、先生の教えのエッセンスが込められている。
先生の教えを知らない方なら、突拍子無く聞こえてしまうかもしれないが、今日ここに集ったメンバーは、先生の教えを普段からよく学んでいる方達ばかりなのだから、余計な解説は不要だった。
先生はご自身の教えのエッセンスをさらりと盛り込み、話を続けられた。
先生のお話は、ご自身が実際に別のツアーで足を怪我して車椅子に乗った時の話に及んだ。皆に代わる代わる車椅子を押してもらい、高野山の奥の院に行った時の事を、相当珍しい体験をした、と嬉しそうに話された。
茶目っ気たっぷりに話されていたが、そこには深い配慮が感じられた。これだけ言っておけば、乗りたくても遠慮をしてしまう人はいなくなるだろう、と思うまで話を繰り返されたのだと思われた。
実際に、参加者の中には難病で体調に不安のある方、かなりご高齢の方も含まれているようだった。そう言った方々を引き連れて、人出の多い場所でのツアーを組む事への、先生の覚悟と配慮が感じられた最初の瞬間だった。
その後、トイレや給水をしたい時も、遠慮無く早めに言って欲しい、という話が続き、いよいよ万博会場内でどこを回るか、という話題に移った。
「事前の案内では、ヨーロッパのパビリオンを中心に回るとお伝えしていたのですが、それはやめる事にしました。実際に下見をして分かったのですが、ヨーロッパの多くは先進諸国で、それらの国々は、今さら自国の文化や歴史を紹介する事には、全く興味が無いみたいなのですね。何を今さらという感じで、先進国としてのプライドもあるのかもしれません。それで、文化や歴史を紹介するような展示は殆ど無くて、どちらかというと未来の展示をしているのです。未来社会だとか、最新の技術だとか、環境への取り組みだとか、そう言った展示が多いのですね。
私はそう言ったものにはあまり興味が無くて、その国の歴史や文化や民族の事を勉強したいのですね。ヨーロッパでは唯一、イタリアがそう言った展示に力を入れていて、とてもよかったのですが、既にそれが知れ渡っていて大人気になっていますので、今回の訪問での入場は諦めました。なので、今回は、歴史や文化や民族の事が勉強できる展示のある国々を回りたいと思います。
具体的な候補はいくつかあるのですが、今は申し上げません。本当に入れるかどうかは行ってみないと分かりませんから、今申し上げて実際に現場で入れないと、ガッカリさせてしまう事になりますのでね。どこに行くかは現地でのお楽しみ、という事にさせてください」
ここにも先生の深い配慮が感じられた。なるほど、歴史や文化や民族の事を勉強する気持ちで展示を見ればいいのだな、と自然と理解出来たからだ。
展示を漫然と眺めるのでは無く、目的意識を持って眺めなくてはならない。でもそれを、「歴史や文化や民族に興味を持ちなさい」と押しつけるような言い方は決してなさらない。あくまで自発的に興味を持てるような、配慮がなされているのだった。
それに、未来の展示には興味が無い、という言い方も絶妙だった。あくまで、自分の興味があるかどうか、という事を言っている訳であり、決して誰かを非難している訳では無い。展示する側の様々な大人の事情、それにも配慮されているのだろうと思われた。
「基本的に、明日の夕方に京都駅で解散するまで全て予定が組まれていますけれども、もし途中で抜けたいお方がいらっしゃったら、途中で抜けてもらっても構いません。今回もお一人、明日の午後にムエタイの実演を見るために会場に残りたい、と申し出ているお方がいらっしゃいまして、そのお方とは明日の午後に会場内でお別れします。そのように、途中で抜ける事を、旅行会社の業界用語では『離団』と言うのですけれどね、今回のツアーは途中で離団しても構わない、という事です。そうしたい場合は、一言、声をかけてから離団してください」
僕は自分が途中で抜けるような展開があり得るか、改めて考えてみた。
そんな展開は思い浮かばなかった。兎に角、先生の行動を最初から最後まで観察するのだ。
「それから、歩いている最中に私に話しかけて頂くのは、いっこうに構いません。ただし、カウンセリングは出来ませんから、そのつもりでいてください。雑談なら構わないのですが、中には人生相談を持ちかけてくる方がいらっしゃいます。でも、それは歩きながら出来るものではありません。カウンセリングは高い技術と集中力を使って行うものであり、いつでもどこでも、という訳には行きませんのでね。そのあたりは理解しておいてくださいね」
そうおっしゃって、先生のお話は終了した。全部で18分だった。
ここでカッパくんが「ほらね。俺の言ったとおりだろ」と微笑んだ気がしたが、僕も鼻からそのつもりだったから、気にするような事では無かった。
2分後、先生が再びマイクを手に取り話をされた。
「ひとつ言い忘れていた事がありました。本日の参加者の中に、お医者様が一人いらっしゃいます。若い女医さんです。何かあっても安心ですよ。それから、スタッフの中には、看護師の資格を持った人間がおります。熟練の看護師です。何かあっても安心、という事をお伝えしておきます」
この一言は、いかにも後で思い出したから付け加えました、というような言い方で話されていた。だが、後で考えてみると、実際には、先生の深い配慮、難病の方やご高齢の方への配慮から、さりげなくこのような言い方をされたのだろう、と思われた。
それから、20分ほど時間が経ち、菊池さんが地図を配り終えて、地図の見方について説明をし、もうすぐ右手に大阪城が見える、という話をされた後に、再び先生がマイクを手に取った。
「大阪城について、おそらくみなさんが知らないであろう、と思われる話をいたしますね。大阪城というとみなさん、豊臣秀吉が建てたお城だ、と思っていると思いますが、今建っている天守閣は、実は違うんです。実は今右手に見えているお城は、豊臣秀吉が建てたお城を再現したものでは無いのですね。
今の大阪城は、実は、徳川家が建てたお城を再現したものなのです。豊臣時代の天守閣とは場所も違うし大きさや色も違うのです。豊臣のお城は、今見えているお城より一回り小さくて色も黒かったのです。それを、江戸時代に徳川家が建て直したのです。場所を少し移動させ、徳川家の威厳を示すために、大きさは大きく外見は派手にしよう、と言う事で今の大阪城の形になったのです。
戦後に大阪城を再建しようとなった時に、当時の大阪のお役所の人たちも、大きくて派手な方がいいだろうという事で、徳川の大阪城を再建する事に決めたらしいのですね。私みたいな歴史マニアは、豊臣秀吉の大阪城の方を見てみたいと思いますけれど、派手で大きな方がいいだろうというのは、いかにも大阪人らしい発想みたいで面白いですよね」
その話が終わってまもなく、京都駅前を出発して一時間ほどで、いよいよ会場が見えてきた。
駐車場から万博会場へ
14時10分、西ゲートの駐車場に到着。
我々はバスを降りて歩き始めた。
この時はまだ少しだけ雨が残っていて、傘をさして歩いた。でもその雨も、ゲートに到着する頃にはやんでいて、傘はすぐに閉じられる事になった。
先生を先頭に、二、三人ずつ縦長の列になって歩く。僕は最後尾近くを、一人でぽつんと歩いた。
改めて参加者を確認すると、先生の一行は、参加者にスタッフの方々も含めると総勢30名ほど。男女比は4対6、年齢は様々だが、50代、60代が中心と思われた。家族連れや友人同士など二、三人で参加している方がほとんどのようだ。
僕のように、一人で参加している方は他にいないものなのか。ふと見ると、目の前の初老のご婦人も一人で歩いている。彼女が振り返った際に、思い切って話しかけてみた。
「お一人で参加されているのですか?」
「ええ一人です」
それが、この旅で僕が初めて参加者の方と言葉を交わした瞬間だった。
相手はOKさんだった訳だが、この時には未だどんな方なのか知る由もなかった。
「先生の旅にはよく参加されているのですか?」
「ええ、もう何度も参加しています。前回のヨーロッパは仕事があって、参加できませんでしたけれど、以前は毎回のように参加していました」
「そうなのですか。私は初めてなのです」
そんな会話をしながら、十分弱歩いてゲートに到着した。
彼女は、A県B市から来られており、家業でギフトショップの経営をされている方だった。今は息子さんに継いだものの、孫が六人もいる今でも、週六日は手伝いで働いているとの事だった。
この日は久しぶりに休みをもらって参加されたそうだ。以前は体調を崩して仕事を休んでいた事もあり、先生の旅には全て参加できた事、旦那様も長男で結婚には周囲の大反対があったが、何とかそれを乗り越えて結婚し、家業を続ける事が出来た事などをお聞きした。
いきなり入場ゲート到着までの間で、人生の大先輩から興味深いお話をお聞きする事が出来た。とても楽しい時間になり、僕の緊張もかなりほどけた。OKさんは、こちらから聞いたわけでも無いのに、ご自分のお仕事の話をしてくださった。仕事の事で悩む僕にとって、とても貴重なお話だった。
初対面の歩きながらの雑談で、こんな展開はなかなかあり得ない。人見知りで口下手の僕は会話が続かず無言になり、少し気まずい雰囲気に耐えながら歩くような展開だって考えられた。しかし今回いきなり会話が弾んだのは、おそらくOKさんが人生経験豊富な方だった事に加えて、お互い先生の元に集う同志だから、という事もあったと思う。
先生は生徒達へ向かって、よく「みなさんは同志です」という言い方をされる。それを聞くたびに僕は畏れ多い気持ちになるのだが、いくら出来が悪いとは言っても、同じ志を持つという意味ではやはり僕も同志に違いなく、それは他の参加者の方々もおそらく同じで、同志としてのつながりがあるのは先生とだけでは無く、生徒同士にもあるのだろうと思った。
いよいよ、会場内へ
昼過ぎの入場ゲートは空いており、すんなりと中に入った。人数確認を済ませると、いよいよ先生を先頭にして、会場内を歩き始めた。
14時28分、トイレ前で一旦ストップ。みんなトイレを済ませて集合し、再び歩き始めた。
先生は常に先頭を歩き、皆を誘導する。時々、スタッフが話しかける以外はお一人だ。
参加者の中には、先生の横を歩いて挨拶をしている方もいる。それ以外は、みんな先生の後ろから縦長の列になって歩いて行く。
14時36分、先生がお一人になった所を見計らって、僕も先生に挨拶をした。
「東京都三鷹市から来ました。森田です」
と僕が言うと、
「ああ森田さん、名簿にお名前を見つけた時は嬉しかったですよ」
とおっしゃってくださった。嬉しくなった僕は、
「万博には興味がなかったのですけど、先生の案内を読んでいたら何故か参加してみたくなりました」
と言わなくても良い事を口走り、
「今日は、先生がどのようにツアーをアレンジされるのか興味津々なのです。こんなに人の多い場所で、どうやって行き先を決めて行くのかとても楽しみです」
と言った。
「スタッフを走らせて、混み具合を調べているのですよ。混み具合は行ってみないとわかりませんからね」
と先生。そう言われてみると、先程までいたスタッフの女性の姿がない。既にどこかのパビリオンの入り口を回って、入場待ちの列の長さを確認しているのだろう。
「そうだったのですね。さすがに先生お一人で、混み具合まで確認するのは難しいですよね」
「ええ、空いていると思って行ってみると、長い列が出来ていたりするのですよ。みんな考える事は同じですからね。空いている事がわかると、一斉に人が集まるのです」
先生は、実に楽しそうに話をされた。
こんなに人が多く、行動予定も立てられないような場所へのツアーの主催。それを楽しそうに話される先生。やはり先生は相当な変わり者だ。普段から軽妙な語り口で、
「試練よ、来い! 逆境よ、ありがとう!」
などと書かれる事はあったが、やはり普通ではない。
しかし、先生はもちろん単なる物好きでも無く、冗談で試練や逆境という言葉を口にされている訳では無かった。それは、この時でも既に、僕も理解しているつもりではあったが、この時の理解は、まだまだ頭だけの浅い理解に過ぎなかった。
この後の二日間で、先生が、僕の想像よりもずっと深い覚悟と使命感を持って、臨んでおられる事を目の当たりにすることになった。
14時42分、車椅子の方も合流。
インド館に並びかけるも入場制限で入る事が出来ず断念。更に進む。
会場内はどこも人で溢れている。午前中まで大雨だった事など全く関係無いみたいだ。こんな人ごみの中で、シローさんとばったり出くわすなんて事は、残念ながら無さそうだった。
14時47分、雨がぱらつく。結局、会場内で雨に降られたのは、この一瞬だけだった。
14時48分、ねぶたの展示を鑑賞。同54分に集合して再出発。
コモンズA
15時01分、コモンズA。三十分時間を取っての自由行動となった。コモンズは、専用のパビリオンを持っていない様々な国々が小ブースを開いている。共同パビリオンだった。AからDまであり、そのうちのA館に入る事になった。
コモンズAの内部は、多くの人で溢れていた。建物の中には大小様々なブースがあり、多くの人でごった返している。その様子は、仕事で訪れる電機、通信、車載といった業界団体主催の展示会でも、慣れ親しんだ光景だった。
だが、それらの展示会と雰囲気は全く違っていた。ビジネスの世界の展示会にあるギラギラした感じは無く、逆に、純粋な好奇心を満たそうとする楽しい雰囲気があった。
会場内で最初に目に飛び込んで来たのは、サモアの展示だった。「サモア」の文字を目にして、昔の記憶が蘇る。高校時代の事だ。現代社会という科目の資料集に、様々な民族の顔写真を集めたカラーページがあった。その中の一つに掲載されたサモア人の男性は、褐色の肌、黒くて短い髪、目と鼻が大きく、いかにも南方系というような、健康で逞しい若者だった。
クラスメイトの一人が、そのサモア人が僕にそっくりだと言い出した。その話は、いつの間にかクラス中に広がり、彼が「サモア!サモア!」と僕の事を指さして呼ぶと、教室内で笑いが起きるようになった。確かにその写真のサモア人の若者は、僕に似ていなくもなかった。目と鼻が大きく、短髪がツンツン立っている様子は。確かに僕と似ていた。
だがそっくりという程では無いし、何よりその写真の若者はとても逞しかった。写真には全身は写っておらず、肩から上だけの姿だったが、その姿だけでも彼がとても逞しい事がわかった。逞しさ、それは当時の僕が憧れていながら、全く手にする事の出来ないものだった。今もできてはいないが、その当時はその事に対する、強烈な劣等感を持っていた。だからなのだろう、僕はサモア人と似ていると言われた事に対して、あまり良い気持ちは抱けなかった。
とはいっても、当時の僕はそこまで冷静に自分自身を分析出来ていた訳では無く、誰かが「サモアサモア」と叫び、周りから笑いが起こるのを、苦笑いでやり過ごしているだけだった。怒りもしなければ、やめてくれと言う訳でも無かった。幸い、クラスのサモアブームは長続きする事無く、いつのまにか過ぎ去ってくれた。
遠い過去の記憶を追いやった後は、次々と他国のブースを訪れた。南太平洋、アフリカ、中央アジア、カリブ海、様々な地域の様々な国々の展示が、順不同で並んでいた。それらの国々には、知っている国や訪れた事のある国もあったし、全く知らない国もあった。特にアフリカの国の中には初めて耳にする国も多く、興味が尽きなかった。
これぞまさに、万国博覧会だった。
15時30分、コモンズA前を出発、先生を先頭に歩く。
マレーシア館
15時38分、マレーシア館に入館。
マレーシアには、仕事でもプライベートでも訪れた事があるし、大学時代にインドネシアについて勉強していた僕にとっては、そのお隣の国として親しみがあった。屋台の模型の展示は懐かしさも覚えて興味深く見た。その後は、マレーシアの都市の未来像、スマートシティのジオラマの展示が続き、そこを抜けた後には売店と料理店があった。美味しそうな香りに後ろ髪を引かれながら外に出た。滞在時間は10分ほどだった。
外に出ると先生がいて、その周りに続々と参加者が集まって来ている。先生は、このままこの場所に留まるように指示された。
「もうすぐステージでのダンスが始まるので、ここで待っておくのが一番です。ちょうどこの場所が目の前になりますので」
と言われた。
実は我々が集合した場所は、マレーシア館の屋外ステージの目の前だった。先生はさりげなく、我々を一等席に誘導してくださったのだった。
16時00分、マレーシア館前のステージでダンスパフォーマンスが始まった。マレーシアの民族衣装に身を包んだ若い男女が、地元のポップミュージックに合わせて踊りを披露してくれた。全部で十名ほどの男女が目の前の舞台で踊る姿は、迫力満点だった。
マレー系、中華系、インド系など、様々なルーツを持つのであろう若者たちの姿は、エネルギーに溢れていて、僕はいつの間にかその姿に惹き込まれていた。みんな笑顔が自然で、心から楽しんでいるように見えた。国を代表して万博のステージで踊りを披露している事への、喜びと誇りのようなものも感じた。
僕はその中でも特に二人の若者に惹きつけられた。中華系と思われる顔立ちの男の子と、エキゾチックな顔立ちの女の子だった。男の子には、以前にどこかで会った事のあるような親しみを感じた。知り合いの誰かに似ている気がしたので、それが誰なのかずっと考えながら彼の踊りを見た。女の子は瞳の輝きと真っ赤なシャドウの塗られた大きな唇が特徴的な、美しい女性だった。ずっと歌いながら笑顔を絶やさず踊り続ける姿に、目が釘付けになった。
最後には観客をステージに招き入れて踊ったが、踊りの苦手な僕は、もちろん舞台には登らなかった。
ステージ終了後に、写真撮影タイムもあった。あの男の子と女の子と一緒に写真を撮りたかったが、そんな勇気は出なかった。
16時23分、マレーシア館前を出発。
アラブ首長国連邦館
16時30分、アラブ首長国連邦のパビリオンを訪れた。
ここのパビリオンの中は、ゆったりとしていて、混み合っていなかった。だが、奥に隔離された小部屋があり、そこだけ行列ができている。この列に並んで良いものなのか、それとも外へ出てしまった方がいいのか、迷う場面だった。
ここまででわかっていたのは、先生は細かい時間の指定はなさらないという事だ。「XX分で見て来てください」といった指示は出されず、自由に見て来てください、というのが基本的なスタイルだった。
また、先生が一緒に中に入る場合でも、展示に対する解説をなさるというような事も無く、先生はあくまで行き先を決めるだけの道先案内人のような役目に徹していた。そのため、各パビリオンでどのくらい時間を使うかは、参加者自身の判断に任されていた。
UAE館の奥の小部屋に続く列には、数十名ほどが並んでいるように見えた。その中にはお仲間と思われる方々の姿もあった。
僕は近くにいた参加者とも話をして、とりえあえず列に並んでみる事にした。僕たちの後にも複数の参加者が順番待ちの列に並んだ。僕だけ出るのが遅くなり、皆を待たせてしまう心配は無さそうだった。
結局、10分ほどで小部屋の中に入った。隔離された展示は、消防用ドローンの模型だった。防衛省の制服を着た男性が英語で話し、日本人の女性が横で通訳するスタイルで説明を受けた。
大型ドローンの二分の一サイズの模型を見ながら聞いた話によると、高層ビルなどの消火活動に使う消防用ドローンで、地上から給水ホースにつながれた状態で飛び上がり、地上五十メートルの上空に留まっての放水が可能との事だった。
ジェットエンジンを八機積んでいて、水圧や火災による熱や煙や風圧にも耐えながら、体勢を維持して放水し続ける能力を有している、との事だった。
説明と質疑応答は十分ほどで終了となったが、出る間際に、防衛省の方に英語で直接話しかけてみた。
「このドローンはもう実用化されているのでしょうか?」
「いえ、まだ開発中です」
「実際に動くものが出来るのはいつですか?」
「来年2026年のQ4に試作機ができる計画です」
「そうですか。来年ですか。結構すぐですね。分かりました。ありがとう」
という会話をして外に出た。
現地の方と直接会話ができるのも、万博の魅力の一つだろう。防衛省のお役人さん(おそらく軍の偉い方)と直接話をする機会など、そう滅多にあるものでは無い。僕にとってはおそらく最初で最後だろう。
カッパくんが、
「開発担当が防衛省って事は別の意味もありそうだね。そのあたりについて質問したらいけないのかな?」とか、「来年のQ4に試作機って言う事はつまりまだ何も出来ていないって事なのじゃ無い?」とか囁きかけて来たが、僕は「黙れ」とだけ言って相手にしなかった。
17時02分、UAE館を出て出発。
17時05分、トイレ休憩。
17時14分、再び出発。
ハンガリー館
17時26分、ハンガリー館の入場待ちの列に並んだ。
係の方が、出て来るまで一時間かかると告げていたが、先生に迷われる様子は無かった。
僕は予習を怠っていたので、ハンガリーでどのような展示が行われるのか、全く理解していなかった。またハンガリーという国がどの辺りにあり、どういった特徴のある国なのかも、良くわからなかった。ヨーロッパの国だとは思うが、場所がどのあたりなのか定かでは無い。
この時は、たまたま男性参加者のお二人、格闘家のKさんとC県から来られたSさんと一緒に並ぶ形になり、お二人へも「ハンガリーってどんな国でしたっけ」と話しかけてみた。お二人とも、ハンガリーについては良く知らないみたいで、あまり会話は弾まなかった。
このパビリオンの順番待ちの列は、なかなか前に進まなかった。僕は一緒に並んだ男性お二人の会話を聞くとも無しに聞き、時々お二人の会話にも加わった。お二人とも、年齢は同世代に見えた。ツアーには何度も参加されている常連メンバーのようだった。僕だけが初参加で、会話を弾ませる糸口は見つからなかった。
先生も見える距離に並んでおられたが、スタッフの女性たちや車椅子の方をはじめとする参加者に、しきりと何かを話しかけられている様子が伺えた。朗らかに話をするそぶりから、並んでいる間もエンターテイナーに徹している様子が感じ取れた。
順番待ちの通路にはモニターが設置され、ハンガリーにゆかりのある著名人が、ハンガリーの魅力について語る映像が流されていた。その中の一つに、クラシックギタリストの村治佳織さんも出ていた。ハンガリーの音楽教育について話をされていた。もしかしたらハンガリー館の展示も、音楽に関するものなのかもしれないと思った。
音楽と言えば、ハンガリーってもしかしたら、映画「サウンド・オブ・ミュージック」にも出てきた国だっただろうか?
あの舞台はスイスのような気がしたが、オーストリアに併合されていた時代のハンガリーだったのだろうか、などと考えたが正解はわからなかった。
村治佳織さんの映像を2回、3回と繰り返し見ても、なかなか列は前に進まない。1回に会場入りできる人数が限られているし、一度扉が閉まると次の入場までなかなか開かなかったからだ。
「なかなか進みませんね」と僕が言うと、「列を抜け出して別のパビリオンを見て来ても間に合うんとちゃいますか」とKさんが真面目な顔で言った。
「抜け出してガンダムを見に行こうかな」
と僕が言うと、
「離団!離団!」
とSさんが嬉しそうにつぶやいた。
「いや、冗談ですよ」
と僕が言うとKさんが、
「でもガンダムは別の機会に見に行きたいですね」と言った。
「もう一回来られるかなあ。C県からだと遠いからなあ。それにガンダムは予約が無いと駄目みたいだし」
とSさんが嬉しそうにつぶやいた。Sさんはどんなお話をしている時でも、常に楽しそうに見えた。
そこで会話が途切れたので、僕はお仲間たちが待っている様子を改めて眺めてみた。
先生と今回の参謀役スタッフのMさん。その近くには車椅子に座った女性。車椅子を押す付き添いのご家族は、おそらく娘さんだろうか。娘さんの表情は京都駅で見た時より、いくぶん和らいで見えた。この車いすの女性は恐らくご病気をお持ちで、体力に不安があるのだろう。時と場合で車椅子に座ったり、自力で歩いたりを使い分けていらっしゃり、先生も常に至近距離でサポートをされているのがわかって来た。
一人で参加の男性陣は、格闘家のKさん、C県出身のSさん、そして僕。あとはご夫婦、家族連れ、最初に話をしたOKさんの姿も見える。かなり年配のご老人もいらっしゃる。先生の元に集う仲間は、随分とバラエティーに富んでいるのがわかった。
列の後方にはスタッフの女性が数名いて、後ろからも目配りしている。これも先生からのご指示だろう。バラエティーに富んだ一行をまとめる為に、様々な配慮がなされているのがわかった。
会場の扉は15分に一回開き、70人ほどが入れ替えで入場していくようだ。順番待ちの列は少しずつ前に進み、結局一時間並んだ末に中に入った。
ハンガリー館の中は、暗い照明の円形の劇場のような作りになっていた。ステージの真ん中に民族衣装を着た女性が立っている。女性が立つステージを取り囲むようにして椅子が設置されていて、僕は女性の背後の座席に座った。
僕はこの期に及んでも、この後に何が行われるのか全く理解していなかった。目の前の女性は微動だにしないし、気配も感じられない。この方は人間ではなく、良くできたマネキン人形のロボットに違いない。このロボットが動き出したりするのだろうと、実に的外れな予想をしていた。
扉が閉められると、真ん中に暗めのスポットライトが当てられ、マネキンだと思っていた女性が突然動き出した。ロボットにしては動きがなめらかすぎる、彼女はマネキンではなく生身の人間だった。
ゆっくりと回転するステージの上で、彼女は歌を歌い始めた。とても美しい声だ。おそらくハンガリーの民謡のような歌なのだろう。とても懐かしいような気持ちになるメロディーだった。その歌声は素晴らしく、時々倍音になって響いた。
事前に心を鎮めておき、目を閉じて音楽に集中すれば、先生の音楽療法と同じような効果が得られる気がした。しかし、目の前の民族衣装を着た女性の姿や、ミステリアスな照明の演出も観察したい気持ちがあり、音楽だけに集中する事が出来なかった。
曲調は少しずつ変化し、最後のメインメロディーは、みんなで歌いましょうと促されて、声を出して歌った。
「ララララ ララララ ララーララ ラララ」
みんなで歌うスタイルも、先生の音楽療法と同じだった。
先生の音楽療法を懐かしく思っていると、「先生の音楽療法の方が良くないか?」と、カッパくんが呟いた。美しい声のプロの歌手の方を前に、何て失礼な事を言うのだと思ったが、僕もこの時はカッパくんの意見に同意した。
光の世界との繋がり感の意味では、明らかに先生の音楽療法の方が上だった。少なくとも僕にとっては。先生のお歌なら一瞬で深い繋がりを得られる。先生の音楽療法には、単純な歌の上手さとは違う何かがあるのだ。
しかし今回、僕が事前に予習をしておき、きちんと心構えをした上で女性の歌声に耳を傾ける事が出来れば、もっと深い感動を得られた事だろう。その点には後悔が残った。
18時41分、会場の外に出た。すっかり暗くなっていた。
同じ回に入ることの出来なかった仲間たちが出て来るのを待って、19時ごろに再び先生を先頭に歩き出した。
フランス館(に並びながらアメリカ館の映像を見る)
そろそろバスに戻る時間なのだと思われたが、先生はフランス館の列に並んだ。
ずいぶんと長い列だったが、これでも日中に比べると短くなっているらしい。列の進みが早いのもあって、30分弱で中に入る事が出来た。
フランス館に並んでいる途中、隣のアメリカ館の壁に写し出された映像が目に入った。アメリカ国内の様々な風景が写し出されている。その映像は観光地では無く、住宅街や農場などアメリカの何気ない風景だった。それは、自分が現地に住んでいた頃にいつも目にしていた、懐かしい光景だった。
僕が現地に住んでいたのは、もう10年以上前の事で、あれから世の中は大きく変わった筈だ。だけれど、目の前に流れる映像を見るに、アメリカの人々が暮らす牧歌的な風景は今も変わらないのだ。その事を知り、少し嬉しくなった。
その後、アメリカの都市が紹介される映像が流れた。ニューヨーク、ワシントンDC、シカゴ、ロサンゼルスといった大都市に続き、全米中の様々な都市が紹介された。ボストン、サンフランシスコ、シアトル、ヒューストン、フィラデルフィア、アトランタ、クリーブランド、サンアントニオ、マイアミ、デンバー、プエルトリコのサンファン。
そのどれもが、自分がかつて一度は訪れた事のある場所だった。僕はアメリカに10年住み、その間、いろいろな場所を訪れてはいた。しかし、本当に多くの場所を訪れていたのだという事に改めて気づいた。
仕事で全米中を飛び回っていたと言えばかっこよく聞こえるが、その一つ一つは地味な仕事ばかりだった。何か人に自慢出来るような成果も上げられなかったし、会社からの評価も高くは無かった。「ドサ回り」といった表現がぴったりと来るし、当時は仕事だから仕方なくやっている気持ちの方が強かった。
しかし、今にして思うと、会社のおかげで、随分と貴重な経験をさせてもらっていたのだ。引っ込み思案で、出不精で、人見知りの激しい僕が、仕事で命じられる事でもなければ、まず成し得なかった体験に違い無かった。
19時30分、フランス館に入館した。フランス館だけは事前に予習していたので、何が展示されているのか理解していた。評判を呼んでいたルイ・ヴィトンの鞄や、クリスチャン・ディオールのドレスを使ったアート作品を見た。
しかし、悲しいかな、僕はもともと高級ブランド品には興味も無ければご縁もない。展示作品をじっくり眺めてみても、あまりその価値が理解出来ないまま外に出た。
19時50分、出口付近に先生が待ち構えていらっしゃった。男性陣はもうほとんどの方が外に出ているが、女性の参加者の姿は無かった。
先生は、
「女性陣はやっぱりなかなか出て来ませんね。特にXXさんは時間がかかるかもしれませんよ」
などとおっしゃっている。
先生は、参加者にどこに行きたいか直接的に尋ねる事も無かったし、参加者の方からリクエストを出すような機会も無かった。しかしながら先生は、参加者の好みや性格をある程度把握されており、それも踏まえて訪れる場所を決め、どのくらい時間がかかりそうなのかも予想されているようだった。
会場の外へ向かう
20時前に全員が揃い、今度こそ駐車場に向かって出発した。
夜になって会場の混雑は少しましになったとは言っても、まだ多くの訪問客でごった返していた。一日中いろいろ回っているので、地図を手にしていても今自分がどこにいるのかわからなかった。
ただ、僕たちは先生の後ろをついて歩くだけで良かった。先生は、どんな時も迷うこと無く僕たちを先導してくださった。道を間違えて引き返したり、右から左へウロウロしたりといった事は一度も無かった。
20時00分、カンボジア館が空いているという事で、急遽、立ち寄る事になった。5分ほどで一回りして再び出発した。
20時09分、最後のトイレ休憩。トイレ休憩の取り方も実に絶妙だった。これで安心してバスに乗る事が出来る。
トイレを済ませると、いよいよ西ゲートに向かって昼間に来た道を歩き始めた。
京都駅に集合した時には、知り合いが誰もおらず不安と緊張でいっぱいだった。誰にも馴染めず、孤独な旅になるであろう事も覚悟していた。半日前なのに遠い昔の事のようだ。不安や緊張が無くなった代わりに、心地よい疲労感があった。
今日は本当に良く歩いたし、いろいろな物を目にして、いろいろな話を聞いた。先生とスタッフの方々を除けば、皆初めて会う方たちばかりだったが、すんなりとその場に馴染む事ができた。やはりみんな先生の元に集う生徒であり同志なので、自然と親近感のようなものを抱く事ができていたのかもしれない。
緊張が解けたせいだろうか、ゲートに向かって歩いている道の途中で、小脇に抱えたノートを落としてしまった。今回の旅の記録を取っておいたノートである。バサっと何か地面に落ちた音がして、「あれ、もしかしてノートを落としたかな?」と思う間もなく、後を歩いていた格闘家のKさんが、「落としましたよ」と言って拾った物を渡してくださった。間違い無く僕のノートだった。
「ありがとうございます。助かりました。記録したメモが全て台無しになるところでした」
と僕は言った。それを聞いて、斜め前を歩いていたスタッフのMさんが、
「記録を取られていたのですか?」
と尋ねてきた。僕は、
「ええ、先生がどのようにツアーをアレンジされるのか知りたくて、こまめにメモを取っていたのです」
と答えた。するとMさんは、
「すごいすごい」と言いながら、手を叩いて褒めてくださった。
僕はすっかり嬉しくなり、
「おかげで、先生の旅のアレンジの凄さがいろいろとわかりました。なぜ何回も事前に下見されたのか、わかった気がしました。これは相当事前に準備しておかないと、出来ませんよね。ホームページで先生が三回目の下見の報告をされたのを見た時には、先生は結構物好きなのかな、なんて思っていたのですが、参加してみてわかりました。この広さでこの混雑ぶりなら、下見は必須ですね。三回でもむしろ少ないくらいだと思いました」
と言った。一緒に歩いていたKさんやSさんもそうだそうだと頷いたり、「よく迷わずに歩けますよね」と言ったりして、僕の意見に同意してくれた。
すると、先頭を歩いていた先生がくるりと振り向き、僕たちに向かってこうおっしゃった。
「いやね。最初は下見をするつもりは無かったのだけどね。とりあえず一回だけと思って行ってみたら、こりゃ良く調べておかないとだめだなって事がわかったので、二回、三回と下見したのですよ」
先生がわざわざ振り返って答えてくださった事で、僕はますます嬉しくなった。
食事会場へ向かう
20時20分、ゲートを通過、十分後には駐車場に到着した。
20時33分、バスに搭乗、すぐにバスは走り出した。
20時37分、菊池さんが今後のご案内。
20時40分、先生のお話が始まる。
食事後の道頓堀ツアーについて注意点を話された。少し怪しげな通りを歩くことになるので、変な人に絡まれないよう注意するように、との事だった。「怖い人に絡まれても安心してください。格闘家の方もおりますし、屈強な男性陣がたくさんおりますので」と話された。
確かに、今回のツアーには多くの男性が参加されていた。その中には格闘家のKさんを始め、いざとなったら先生や仲間たちを守ってくれそうな、頼もしい雰囲気の方々が複数名いらっしゃった。おそらくこれらの方々は、ずっと昔から先生をお守りする役目を担った経験をお持ちなのだろう。僕とは明らかに違う雰囲気を持っていた。
僕はどうだろう。先生のボディーガードとしては役立てそうにない。僕には違う役目がある筈だ。旅の記録を残す事が僕の役目なら嬉しいし、そうなる事を願った。
夕食会場
21時01分、食事会場に到着。
夕食会場は有名なお好み焼き屋の本店で、テーブルは様々な人数用のものがあり、バラバラに分かれて座る事になるだろう、と言う事が事前に菊池さんからアナウンスされていた。旅の前には食事が大きな心配事の一つだったが、今となっては、誰と座ってもそれなりに会話を楽しむ事ができるだろう、と思うようになっていた。
二階に上がると、二人席から六人席まで様々なテーブルがあり、半分以上の席は既に埋まっていた。どこに座ろうかと考えながら室内を見渡すと、先生が一番奥のテーブルにいらっしゃるのがわかった。先生と同じテーブルは、ひと席だけ空席があるように見えたので、勇気を出して先生のテーブルに進んでみた。
しかし、先生のテーブルに空席があると思ったのは勘違いで、既に全ての座席が埋まっていた。格闘家のKさんが申し訳なさそうに、でも先生たちをお守りするのだと言う強い使命感に満ちた表情で見ていた。
参謀スタッフのMさんが、「そちらが空いていますよ」と言って隣の二人テーブルにいざなってくださったので、そちらに座る事にした。
僕が座ったテーブルの対面には、一人で参加されている男性が座っていた。歳は僕より少し上に見えた。今日一日、全く話した事の無い方だった。これがHさんだった訳だが、僕にとっては貴重な出会いになった。偶然にしては出来過ぎていた。
ただ、この時にはそんな事はまだ知る由も無く、通路を挟んだ向かい側に先生の姿も見えているし、同席も気を使わなくて良さそうなおじさんだし、悪くない席だと思っただけだった。
「先生のツアーには良く参加されているのですか?」
僕はこの旅で初対面の方と話す時に、必ずする質問を投げかけた。
「いえ、初めてです」「私も初めてです」という会話の後、「実は」とHさんが口を開いた。
「実は、先生の事を知ったのは、つい一カ月前の事なのです」
「えっ」と僕は驚いた。
この旅に参加しているのは、長年、先生のファンをやっている方たちばかりだと、信じていたからだ。
Hさんは、つい一月前に先生のご本をたまたま手に取った事。それが先生の処女作の初版版だった事。こんな世界があったのかと衝撃を受け、その後何冊も手に取った事。ホームページでこのツアーの事も知り、遅れて申し込んだ事などを話された。
申し込み期限が過ぎた後に参加者が増えた事は知っていた。わざわざ遅れて申し込みをするのはどういった事情なのか、あまり想像がついていなかったのだが、まさか先生の事を知って間もない方が参加されるとは、予想もしなかった。「行動力がありますね」というと、「とりあえず今からでも参加出来ますか?と聞いたら参加できるって事だったので、申し込みしました。思い立ったらすぐに行動するタイプなのでね」と何でもない事のように答えた。僕とは大違いだ。
僕は先生の長年のファンであり、先生のご本は全て読んでいる事や、講演会や音楽療法には何回も参加した事がある事などを話すと、「そんな昔から先生の事をご存知だったのですね」と逆に驚かれた。
生ビールで乾杯をし、お互いに名前も名乗ってからは、すっかり打ち解けた雰囲気になった。お好み焼きをつまみながら、先生の話やお互いの身の上を少しずつ話した。
隣のテーブルに目をやると、先生が穏やかな表情で話されているのが見えた。先生のテーブルには、車椅子のご婦人と付き添いの女性が先生と並んで座り、対面にはスタッフのMさんと格闘家のKさんが座っていた。先生が何を話されているのかまではわからないが、終始他愛の無い話で場を和ませようとされているのがわかった。
MさんやKさんが先生のツッコミに対して真面目に、あるいは少しおどけて答えているような構図が浮かんだ。車椅子の女性も笑顔だったし、付き添いの女性の表情もお昼に京都駅前で初めて見た時とは見違えるほど、明るくなっていた。
先生たちのテーブルは全員がお茶を飲み、和やかで上品なムードだったの対し、僕たちのテーブルはおっさん二人でビールを飲み、気楽なムードで会話が進んだ。僕が東京に住んでいる事を話すと、Hさんも以前は仕事で東京に住んでいたが、親の介護をきっかけに故郷であるD県E市に戻った事を話された。
「仕事はどうされたのですか? 地元で再就職したとか?」
と僕が少し突っ込んだ質問をした事をきっかけに、Hさんのお仕事の話になった。
そしてその話をお聞き出来た事は、先生の行動を観察するという僕の主目的を別にすれば、この旅のハイライトとも呼べる時間になった。
「いえ、一人で仕事をしていたので、そのまま同じ仕事をE市でも続けました。丁度サラリーマンを辞めて独立した後だったので、自由に引っ越し出来たのです」
「お一人で仕事をされているのですか!」僕は思わず感嘆の声を上げた。一人で仕事をしたい、それが正に自分の考えていた事だったからだ。続けて、更に突っ込んだ質問をしてしまった。
「いわゆる個人事業主ですか?」
「いえ、一人でやっていますけど、個人事業主ではなく、会社を作ってやっています」
「へえ、会社としてやられているのですね。凄いですね」
「いえいえ、大した事ではありませんよ。会社と言っても一人ですから」
謙遜してそう答えるHさんに対して、僕は思わずさらに突っ込んだ質問をした。
「どういったお仕事をされているのですか?」
「不登校の子供を持つ親御さんへの支援をしています」
「不登校のお子さんを持つ親御さんへの支援。。。という事は、以前は学校の先生か何かをされていたのですか?」
「いいえ、前職は普通の会社員でした。都内のメーカーでシステムエンジニア、いわゆるSEとして働いていました」
「えっ!SE?では不登校の親の支援とは、全く関係の無いお仕事ですよね?」
「はい、理系の大学を出てSEになりましたから、大学の専攻も会社での仕事も、今の仕事との繋がりは全くありませんでした」
「それが?どうして?」
ここから、Hさんのとても興味深いお話を聞く事になった。
Hさんは、二十年前までは都内のメーカーに勤務するサラリーマンだった。システム開発を行う部門に所属し、システムエンジニアとして働いていた。毎日遅くまでの残業が当たり前の世界で仕事は楽ではなかったが、SEという仕事そのものは嫌いではなかった。おそらく、このまま生涯サラリーマンを続けるのだと考えていた。でも、ほんの小さな事をきっかけに、Hさんの人生は大きく変化する事になった。
そのきっかけは小さな疑問を抱いた事だった。ある日、ふと「なぜ最近、不登校という言葉を耳にする事が増えたのだろう」という疑問が湧いた。その当時、テレビや新聞のニュースで「不登校」という言葉を目にする事が増えていた。自分が子供だった頃に比べて、不登校になる子供の数が格段に増えているのは、間違いなさそうだった。それが何故なのか、突然気になりだしたのだ。
Hさんは、もともと何かが気になると自分で調べずにはいられない性格だった。すぐにインターネットを駆使して、様々な情報収集に当たった。自分なりに出した結論は、不登校になる子供たちは親との関係に問題を抱えている、という事だった。もっと具体的に言うと、親たちの過干渉によって子供たちが自信を失い、本来子供たちが持っている自立する力を損なっているのが原因だ、という事だ。今でこそ、そう言った考え方は広まってはいるが、当時はまだ、そういう考えは珍しかった。
でもHさんには、自分の考えは間違っていない、という確信があった。それは自分の考えた事が何かで得た知識の寄せ集めなどでは無く、自分の実体験に基づいて、自分が子供の立場に立って、徹底的に考えた上での結論だったからだ。自分の考えをうまく伝える事が出来れば、不登校に悩む親子を救う事が出来るのではないか?Hさんは次第にそう思うようになって行った。自分の考えを伝えて不登校の親子を救いたいという思いは、日に日に強くなっていたが、それは漠然とした思いに過ぎず、具体的な方法論を考えた事は無かった。ましてや仕事にする事は全く考えていなかった。
しかし、ある日の仕事帰り、突然どこかから声が聞こえた。「そろそろ独立したら?」夜の九時か十時ごろ、閑散とし始めた横浜線のホーム上での事だった。それをきっかけに、初めて会社を辞める事を考え始めた。更に、どこかから声が聞こえるという事が二回、三回と続くと、会社を辞めて不登校の親子を助けるのだという気持ちは、使命感にも似たものに変わっていった。
だが、どうやってそれを形にするのか?具体的なアイデアは何もなかった。とりあえず会社を辞めて、それから考えればいいと思っていた。ただ、辞めたい気持ちは固まっても、なかなか会社へ言い出せないでいた。みんな目の前の仕事に追われていて、上司にそんな事を言い出すきっかけが無かったからだ。
ところが、ある日の通勤途中に偶然人事部長と一緒になり、歩きながら話をする機会を得た。しかも、何故だかわからないが「おまえ会社辞めようと思っていないよね?」と、人事部長の方から突然問いかけて来てくれたのだ。Hさんはここぞとばかりに自分の思いを口にした。「実は」と言って、そのまま退社の意向を話すことができ、すんなりと退社が決まった。
会社には独立するつもりだと話したが、何をするつもりかまでは話をしなかった。同僚たちはおそらくHさんがサラリーマン時代の経験を活かしてシステム関連の仕事で独立するつもりなのだろう、と思った筈だ。まさか全く経験の無い分野で仕事をするつもりだとは誰も思っていなかったと思う。もし本当の事を話しても、おそらく誰にも理解してもらえなかっただろう。
会社を辞めた後、不登校の子を持つ親御さんを対象にしてカウンセリングを行う事を思いついた。メールでのカウンセリングなら開設資金も殆どかからない。ただ、カウンセリングについては全くの素人だった。まずは不登校に特化したカウンセリングのセミナーに参加してみたが、全く役に立たなかった。セミナーの内容はひどい代物で、逆にこれなら自分にも入り込む余地がある、自分一人でも何とかなるに違いない、と自信を持った。
意を決して、自分一人でホームページを作り、自分の思いを綴った。30分ほどであっという間に書き上げた。ホームページを立ち上げると、ネット上で広告を出し、集客を始めた。それから試行錯誤を繰り返しながらカウンセリングを続け、気が付けばもう20年が経とうとしている。
独身だから出来た事だとは思う。誰にも気兼ねなく、自分のやりたい世界に飛び込む事が出来た。もし養うべき妻や子供がいたら、そうは行かなかったかもしれない。自分が独身だったお陰で、経済的な心配が少なくて済んだという事に加えて、仕事をする上でも直接的なメリットがあった。それは、自分が常に子供の立場に立つ事が出来た、という事だ。
「なにしろ自分は親になった事が無いのでね。ある意味、今も子供のままなのです。だから自分も100%子供の立場に立って、その子が本当は親にどうしてほしいのか、考える事が出来るのです」
「なるほど、それは大きいですね。人って自分が親になってしまうと、いつの間にか、自分が子供の頃の気持ちを忘れてしまいますもんね」
「そうだと思うのです。だから自分は今も子供のままでよかったなと思ったりするのです」
「でも、それって親の方から文句を言われたりしませんか? 子供のいない人間に何がわかるんだ!みたいな事」
僕はストレートな質問をぶつけた。もうこの時には初対面の遠慮は全く無くなっていた。Hさんも僕の質問に全てオープンに答えてくださった。
「ええ、実際に正にそのように言われた事はありました。そういった経験を通して、徐々に伝え方を変えていったのです。最初は5対5で親子両方の立場に配慮して話をするようにしていたのですが、今ではだいたい6対4か7対3で親の立場に配慮しながら、自分の意見を伝えるようにしています」
Hさんはこのようにして、もう20年間、ずっと一人で仕事をしてきた。正月三が日を除くと休みは取らない。その日の17時までに来たメールは、基本的にその日のうちに最初の返事を返す。18時に最後のメールを出すと、パソコンを閉じて、すぐに寝る支度を始めて寝てしまう。翌朝は4時に起きて仕事をする。その繰り返し。
今回の旅行で初めて正月以外の休みを取った。それまでは正月以外に休んだ事は無かった。好きで始めた仕事だし、何のストレスも無いので、休みが無くても全く苦にはならない。とは言ってもいつも家にいて仕事だけをして来たわけではない。遠出は出来ないが、近場の旅行には出かけている。ネットさえあればどこでも仕事は出来るから、旅先でも仕事をした。東京にもちょくちょく出かけて、カフェ巡りなどをしている。
「東京にもまだ一人で行っても落ち着ける、外国人観光客なんかにも知られていない、良い雰囲気のカフェが残っていたりするのですよ。朝地元のE市を出るとだいたい午前中の間に着くことができるのです。開店と同時にお目当てのカフェを訪れて、ゆっくりとランチを食べて帰るのです」
とHさんは言った。
「それは楽しそうですね」と僕が言うと、Hさんは、「ええ、楽しいですよ。一人で出かけるのは好きなのでね」と答えて目を細めた。
「だいたいどこも日帰りで行くのですか?」
「東京はだいたい日帰りですね。ちょっと遠い場所なら泊りで行く事もあります。ホテルでも仕事はできますからね」
「東京以外にもいろいろ行かれるのですか?」
「そうですね。名古屋とか関西方面とか、遠くだと九州なんかにも足を伸ばした事があります。思い立ったらどこへでも行く感じです」
Hさんは、なんでも無い事を話すように話をなさった。自慢するわけでも、へりくだるわけでもなく、実に正直に話をされているように見えた。
「とても素敵な人生ですね」
と僕は言った。僕の本音から出た素直な感想だった。Hさんは、少し考えてからこのように返してくれた。
「素敵かどうかは良くわからないのですが。。。変わった人生だとは思います。でも全ては仕組まれていたというか、定められた運命だったような気もします」
僕は大きく相槌を打った。
それから気づくと自分自身の事を話していた。
「Hさんのお話をお聞きして、とても驚いていたのです。実は私も、そろそろサラリーマンを辞めたいと思っていて、昨年秋に辞表を出したのです。でも引き留めにあって断念してしまったのです。とりあえず仕事を辞めてから次に何をやるか考えるつもりだったのですけど、辞めると言った途端に不安になってしまって。そこに説得を受けたものですから、あえなく断念してしまったのです。
やっぱり、勢いで辞めるのではなく、きちんと計画を練ってから辞めなくては駄目だなと思っていたのですけど、Hさんのような方もいらっしゃると知って驚きました。とりあえずサラリーマンを辞めてそれから次の事を考えるって、まさに自分が考えていて出来なかった事なのですけど、それを実際にやっている方のお話が聞けて、本当にありがたい気持ちです」
僕は気付くと自分の最近の出来事を、洗いざらい話していた。
初対面の相手に対して、親しい人にも殆ど話していないような話をしている自分に、少し驚いていた。普段の自分からはあまり考えられない事だったからだ。
でも、この時は何の迷いも感じなかった。旅の気楽さのせいもあっただろう、少しお酒が入っていたせいもあったかもしれない。Hさんの雰囲気に甘えたせいもあったと思う。
Hさんは何でも聞いてくれそうな気がしたし、実際に僕の話も少し驚いた表情を見せただけで、静かに頷きながら聞いてくださった。僕は、たまたま相席になるという偶然の出会いに感謝した。
夜の大阪の街を歩く
22時ちょうどに食事会場を出発。
僕らは再び先生を先頭に、大阪の夜の街を歩き始めた。このあたりは大阪でも一番の繁華街と言うだけあって、街にはまだたくさんの人がいて、とても賑やかだった。
程なくして道頓堀に到着した。阪神タイガースファンが飛び込むので有名な、あの場所が目の前にあった。ここで僕たちの一行は橋の上から川沿いに降り、思い思いに写真を撮ったりする事になった。
気が付くと僕は橋の下に来ていた。先生とOKさんがすぐ隣にいた。OKさんが先生に話しかける。
「祖父がこのあたりの材木商に、丁稚奉公に出ていたのです」
「ああそうですか。お祖父様の時代なら、材木産業は花形だった頃でしょうね」と先生。
「ええ、随分と景気が良かったって。それで、その頃の事なのですけど、祖父がこの道頓堀に来た事があったらしいのです。そしたら、たまたま目の前で、身重の女性が川に身を投げたらしいのです。それで自分も飛び込んで、その女性を助けて、消防局に表彰されたって話を、よく聞かされていたのです」
「とても勇敢なお祖父様だったのですね」と先生。
「ええ、とても。目の前にあるのが、祖父の言っていた道頓堀だと思うと、感慨深くて、とても良い思い出になりました」
川面の色は暗く川底は見えなかったが、とても深そうに感じた。流れこそほとんどなかったが、水をたっぷりとたたえていた。道頓堀川は、お祖父様の時代も今も変わらず、水をたっぷりとたたえている。玉川上水とは違うのだ。
僕は、いつも自分が散歩している、玉川上水の流れを思い浮かべていた。そこには、ちょろちょろと流れる小川程度の水量しか無い。誰かが飛び込む程の水量をたたえていた時代は、とうの昔に去ってしまった。それに比べて、目の前の道頓堀川は、今も昔も変わらないのだ。
川沿いを少し歩いた後、再び地上に上がり、橋を渡り返して路地に入った。先生はのんびりと、でも真っ直ぐに歩いて行った。
怪しげな風俗街に入ると、しきりに客引きが声をかけるようになった。勇敢な客引きの一人が、先生にも声をかけた。
「お客さん、席ありますよ」
「30人近い連れがいるのですが」
先生が真面目に答えると、客引きのお兄ちゃんは一瞬ひるんだ様子を見せた。それでもと思い直し、
「お席をご用意しましょうか?」
と答えた時には、先生はもう前に進んでいた。
先生に声をかける無謀な客引きは、他には現れなかった。
それに対して、先生の斜め後ろを歩く僕には次々と声がかかった。常にキョロキョロとし、いかにもお上りさん風な姿は、格好なカモに見えていたからだと思う。実際に、夜の飲み屋街を歩くのは実に久しぶりだし、東京と大阪では少し雰囲気が違うような気もして、興味津々でついキョロキョロしてしまったのだ。
ただ、客引きを相手にするのは面倒だから、基本的に無視して通り過ぎた。にもかかわらず、客引きたちは、これでもかと声を掛けて来た。
そんな僕を見て、先生が「モテモテですね」と声を掛けてくださった。
「いや、おまえ、もてている訳ではないぞ」
とカッパくんが僕に向かってすかさずツッコミを入れて来たけれど、僕は先生にそう言われると、なんだか嬉しい気がした。
路地を抜けて大きな通り沿いに出たところに、僕らの今夜の宿があった。こぎれいなビジネスホテルだった。
鍵を受け取り部屋に入ったのは、22時57分だった。お風呂に入って、少しだけ瞑想をして、あっと言う間に眠りについた。
長い一日が終わった。
5月18日(第二日)
朝5時過ぎに目を覚ました。いつもの時間だ。
布団に入ったままで前日の出来事を振り返った。自ら車椅子を操る先生のお姿を思い出した。Hさんからお聞きした話も思い出した。
結局、僕がやりたい事も人助けなのかもしれない。僕が毎日会社へ通う理由も、目の前にいる人、職場で仕事をしている仲間たちを助けたいという、ただそれだけだった。
人を助けたいという気持ちを持っているという意味では、僕の仕事も、先生が実践されている事にも似ているし、Hさんがやられている事にも似ているとは思った。
結局、僕はこのままでもいいのかもしれない。
でも、先生やHさんとは、明らかに何かが違う。
6時に一階へ降りると、既に何人かの方が列を作り、朝食会場が開くのを待っていた。Hさんもいらしたので、一緒に食事をする事にした。Hさんと並んで、座って食事をしながら、いつの間にか仕事の話をしていた。
「昨日、Hさんの話を聞きながら思ったのですけどね。結局、人って誰かの役に立ちたい、誰かを助けたい、という気持ちがあるのかなと思ったのです。先生もそうだし、Hさんのやられている事も人助けじゃないですか。人を助けたいという気持ちが、やっぱり大切なのかなって、そう思ったのです」
Hさんは相槌を打ちながら、僕の話を聞いてくれている。人助けという考えは、Hさんも同じなのだ。僕は続けた。
「その意味では、私も職場で仲間たちを助けるような仕事は、嫌いじゃないのですよ。むしろ楽しいのです。だけど、会社の偉い連中の事は、全く好きになれないのですよ。彼らは会社をでかくする事にしか、興味が無いように見えるのです。売上とか利益とかの数字を大きくする事にだけ執着して、現場で働く人間の事は、全く考えていないように見えるのです」
「私が働いていた会社も同じでしたよ。常に会社を大きくする事を目標にしていました」
「やっぱり、どこの会社も同じなのですかね。僕の務めている会社は、買収を繰り返して会社規模はどんどん大きくなっていて、世の中では成長企業とかってもてはやされていたりするのですけどね。現場は結構ブラックで、酷いものなのですよ」
「ああ、私の職場もそうでした。常に、業績拡大を目指して、新しい仕事を取ろうとするものだから、現場はいつもオーバーワークになっていましたね。あの頃はブラックという言葉もありませんでしたから、夜遅くまで働くのが当たり前でしたけどね」
「昔はそんな感じでしたよね。最近は昔よりはマシになったのかもしれませんけど、それでも酷いものなのです。偉い連中は末端の現場の事なんて全くわかっていないくせに、中途半端で的外れな口出しだけしたがるから、余計現場が混乱して、ますます酷い状態になるっていうような事が、しょっちゅう起きるのです。結構、真面目にトンチンカンな事をやるので、見方によってはすごく面白いですけどね。コメディを見ているみたいで」
「コメディですか」
「ええ、本当にコメディみたいなのです。最近で言うとですね」
と言う感じで僕は、いつの間にか最近会社で起きた出来事を、面白おかしく話をしてしまった。単なる愚痴に近いような与太話だったのに、Hさんは嫌な顔をせずに聞いてくださった。朝から楽しい食事になってしまった。
部屋に戻ってすぐに、僕は外へ出かけた。近所のスタバまで散歩して、小説の推敲をするためだ。
地下道の一角にあるそのスタバの店内は空いていて、ゆっくりと集中して小説の推敲をする事ができた。小説は後半の重要なシーンに差し掛かっていて、僕は大幅な加筆をした。少しだけ良くなったと思った。
1時間ほどスタバにいて、8時過ぎにホテルに戻ると、1階にはもう身支度を整えた仲間たちが続々と集まって来ていた。僕も部屋に戻って荷物をまとめると、すぐに1階へ向かった。
朝のバス車内
8時25分、バス乗車。
8時33分、バス出発。
8時34分、菊池さんのご案内。
8時39分、先生のお言葉が始まった。
「普段は9時から11時頃に起きますのでね。まだ頭が回っていません」
という一言から、二日目のお話は始まった。
先生はまず、日焼け止めの話をされた。スタッフに聞いて、良さそうな日焼け止めを買って来た。もし使いたい人がいたら申し出るように、と先生は言われた。
先生はこうやって、現実的な細かな事でも、助けの手を差し伸べようとしてくださる。先生のやり方が、少しずつわかって来た。
またこの日、オーストラリア館は予約済みである事が告げられた。オーストラリア館の注目ポイントとして、入ってすぐの森の中に、コアラが隠れている事が紹介された。コアラを見逃さないように、との事だった。
オーストラリア館以外の予定は決まっていない事、スタッフを走らせて、戦略的に行き先を決めて行く、との話もされた。「戦略的」という短い言葉の裏に、先生やスタッフの方たちの数々の地道な努力や配慮がある事が、今ではわかっていた。
最後に、みなさんは幸せものです、という言葉で先生のお話は終わった。
8時47分、菊池さんから二日目のチケットが配られた。
8時52分、先生から追加のお話があった。北欧館でムーミングッズが買える事や、西ゲート近くに公式のお土産物屋が三軒ある事、この日の最後にお土産購入の時間を設ける事を話された。
西ゲートに並ぶ
9時00分、駐車場着。
9時20分にはゲートに到着したが、既に入場門は長蛇の列になっていた。
菊池さんから、出来るだけ分かれて並ぶようにとの指示が出された。僕たちは、仲間たち4、5名ずつで何列かに分かれて並んだ。
昨日とは打って変わって、太陽の強い日差しが差していた。日傘を取り出している仲間も多くいた。僕も日傘を開いて列に並んだ。
僕と同じ列には、Sさんと、まだ一度も話した事の無い女性の二人組参加者。可愛らしいワンピース姿のDさんと、ジーンズが似合うFさんだった。Sさんと女性たちは、すぐに話し始めた。
Sさんは、このツアーの間中、実にいろいろな方と会話を弾ませていた。Sさんだけはツアー仲間の全員と最初から知り合いだったように見えるほど、自然な振る舞いだった。
会話を聞いていると、Fさんは、先生が大学教授をされていた時代の教え子の方だという事がわかった。そこで思わず僕も会話の輪に加わり、大学教授時代の先生について質問をした。
Fさんは、先生がまだ20代だった頃の生徒だった事、先生の授業は学生を飽きさせない工夫があっていつも楽しく、他の授業と違って退屈した記憶が無い事などを教えてくださった。
「それは貴重な体験ですね」と僕は言った。
「先生のご本の読者は何十万人もいると思いますけど、ご本を出される以前の先生、特に若い頃の先生の姿を知っている人って、そんなに多くないと思うのですよね」
「そうですね。当時、先生の授業を受けていた学生が何人いたかわかりませんけど。。。せいぜい一学年数百人くらいでしょうか?」とFさん。
その隣のDさんは会話には加わらず、終始笑顔でみんなの聞き役に回っていた。僕は、もっと若い頃の先生について質問をしたかったが、入場のセキュリティチェックが近づき、会話はそこで終わった。
会場内へ
9時37分、全員がゲート内に揃ったのを確認して出発。
9時39分、トイレ前。ここでいつも通りのトイレ休憩かと思ったが、急ぐので、車椅子の方が合流したら即出発する事が先生から告げられた。この後の行程の都合があるようだ。
9時41分、全員揃って出発。
先生は、女性の乗る車椅子を自ら押して先頭を歩いた。先生の左側には女性の付き添いのご家族、右側にはスタッフのMさんがいた。
先生の行動は本当に臨機応変なのだと感心した。急ぐ時は急ぐし、そうでない時には時間をたっぷりかける。普段は細かい指示は出されないが、必要な時には明確な指示を出された。
「無計画と臨機応変の違いってなんなの?」とカッパくんが僕に尋ねてきた。カッパくんにしては良い質問だ。僕がその二つの違いが何なのか考えながら歩いているうちに、先頭を歩く先生の足が止まった。
サウジアラビア館からオーストラリア館
9時47分、サウジアラビア館に入った。
次の予定があるから10時20分には出るように、と珍しく時間の指定があった。
僕が外に出たのは9時55分だった。10時00分にはほとんどの仲間が外に出ていた。
先生の姿を探すと、集合場所から少し離れた所で、空の車椅子を預かって、菊池さんやスタッフの方たちと輪になって、何やら話をされているのが見えた。今後の作戦会議をやっているご様子だ。
僕はその様子を素早くメモに記す。「先生、自ら車椅子を預かり、作戦会議など」、僕はこうやって細かいメモを取るのが、だんだんと楽しくなって来た。従軍記者にでもなったような気分だった。
従軍記者と言えば、正岡子規は日清戦争に従軍していた。その帰路に体調を崩し、初めて吐血した事は有名な話だ。そこから僅か七年後に短い一生を終える事になるのだが、それでも子規にとって従軍記者となった経験は無駄では無かったはずだ。
第二次世界大戦でも、多くの著名な作家たちが従軍記者として戦地に赴いている。残念ながら、それらの多くは時の政府や軍の方針に従い、我が国の行なっている戦争をただ礼讃し、戦意を高揚させるためだけの文章だったと聞く。検閲の厳しかった時代だから、仕方ない面もあるだろう。それでも検閲を潜り抜け、少しでも自分に正直になろうとしたかどうか、その苦悩の痕跡を行間に残す事ができたかどうかは、非常に重要だと思う。
太宰治は従軍こそしていないが、戦時中も積極的に作品を書き続け、我が国が戦っている戦争について、戦地に行った仲間たちについて、作品の中で何度も語っている。それらの作品の中でも、太宰は自分に正直であろうとしたし、終戦後もその姿勢は変わらなかった。
僕も文章を記す時には自分に正直でありたい。それは簡単な事では無いが、挑戦する価値のある、崇高な目標だと思うと、なんだかますます気分が高揚して来た。
10時18分、車椅子の女性がサウジアラビア館から出て来られた。
僕たちの一行は、菊池さんに連れられて、予約のあるオーストラリア館に向かった。先生はお留守番である。
10時19分、オーストラリア館入館。
予約入場なので、入場チケットについているQRコードをかざして中に入る。QRコードが必要なのは予約入場の時だけだった。建物の中に入りながら、僕は素早くメモを記した。
「1019、オーストラリア、予約ゲート、QR」
僕はすっかり従軍記者の気分な訳だが、興味の中心が先生の行動やご発言にあるので、万博の展示には今一つ気持ちが向かって行かないのが難点だった。僕は各パビリオンの内容について、重要な部分を見落としている可能性は大いにあるかもしれないと思った。
そんな事を考えているうちに、僕はオーストラリアパビリオンの導入部の森を過ぎて、次のコーナーに差し掛かろうとしていた。
ここに来て初めて、先生が森の中にコアラがいる話を車中でされていた事を思い出した。僕は慌てて振り返り、今通り過ぎて来たユーカリの森を覗き込んだ。
コアラなんていたのか? わからない。
ちょうどスタッフのMさんがいらしたので、彼女に「コアラを見逃してしまったのですが」と告げた。Mさんは「えっ」と驚きの声を上げてから、「あそこですよ」と優しく教えてくださった。森の木の幹にモニターが埋め込まれており、コアラの3D映像が流されていたのだった。
オーストラリア館は、3D映像をふんだんに使って、オーストラリアの自然の魅力を紹介していた。中でもメインとなる最後の3D映像は迫力満点だった。横の壁3面と天井にもモニターを埋め込んだ4面スクリーンを使って、海中の様子を3D映像で紹介しており素晴らしかった。途中から見たので次の回にも残って通しで見た。全部で1.5回も見た計算だ。
おかげで今回は仲間たちの中でも出るのが最後になった。外に出ると仲間たちは既にお隣のスペイン館に向かっている。僕も急いで後を追った。
スペイン館、タイ館
10時34分、スペイン館入館。
10時42分、スペイン館を出ると、すぐにタイ館に並んだ。
タイパビリオンは、少し入場待ちの列が出来ていた。
10時49分、タイパビリオンの館内に入場した。
入り口に張り紙が出ていて、「タイパビリオン マッサージが満席です」とある。この表示はおそらく現地の方が日本語に翻訳されたのだろう。意味は通じるが、日本人なら「マッサージは満席です」と書く。このニュアンスの違いは日本語のネイティブ以外には理解するのは難しいだろうし、僕自身もその違いは説明できない。「は」と「が」の違いを教えるのは難しいし、それだけで一冊の本になっている。ずっと昔、当時日本語教師をやっていた妻からも聞いた事があった。
万博のような大イベントでも、国によって出せる予算も準備の時間も限られているのだろう。タイのような比較的大きな国でも、細かい日本語のチェックをしてくれるような日本人スタッフを、十分に用意する事は難しいのだろうと思われる。
このマッサージのお知らせも、現地の方がおそらく自動翻訳機に頼りながら、自力で訳されたに違いあるまい。そう思うと、どこか微笑ましい気持ちになった。
タイ館は中に入っても、まだメイン会場では無く、メイン会場のシアターに入る順番待ちのスペースに通された。
ただ待っているだけで無く、案内係のお姉さんが日本語と英語で待っている客に話しかけて、待ち時間を退屈させない工夫があった。タイ語の挨拶などを紹介し、お客さんにも実際に声を出してみることを促し、みんなでタイ語の挨拶をして、といった短いパフォーマンスの後、いよいよメイン会場に通された。
10時58分、タイのメイン会場に入場。そこには大スクリーンがあり、3D映像が流された。タイの文化の紹介に、SDGs的な未来像を交える映像なのだが、これが酷い出来だった。内容もそうだが、3Dなのにやたらとテロップが出されて文字情報に頼る作りがなんとも残念だった。
先程のオーストラリアの3Dが素晴らしかっただけに酷さが際立ち、これがずっと続くのかと不安になった頃に、案内係と思っていた男女が舞台に飛び出し踊り出してくれた。二人の踊りに手拍子をして応えているうちに映像は終わった。
若い男女二人のパフォーマンスで少し救われた気持ちになってシアター奥へと出ると、そこはマッサージルームとガラス張りの厨房が見られるスペースになっていた。そこを抜けるとレストランと物品販売のお店があり、外に出る。
全体としては、悪くない作りのパビリオンだった。
お昼休みに見たもの
11時08分、集合場所に戻る。
大屋根リング下のベンチでお弁当の到着を待つようにとの指示。トイレを済ませてから、ベンチで待機した。
11時22分、スマホの万歩計をチェックすると、この時点で6606歩だった。
11時28分、お弁当を受け取る。なかなか豪華だ。
11時45分、集合場所に行ってみる。
車椅子に自ら腰掛け、会場地図を凝視する先生のお姿があった。その表情は真剣そのもの。午後の作戦を練っているに違いない。気軽に話しかけるのは憚られたので、遠目にお姿を眺めるだけにした。
リング下の外側には、さきほど訪れたスペイン館があり、建物の前でバグパイプのような楽器での演奏が始まった。その音色を聞きながら、午後の作戦を真剣な表情で練り続ける先生のお姿を観察した。車椅子に腰掛ける先生は、ずっと地図を凝視したままで、微動だにしない。プランA、プランB、プランC、プランD、様々な事態を想定し、いくつもの案を練っているのだと思われた。
先生は、時には女性の乗る車椅子を自ら押し、時にはその車椅子を預かり、そして今は自らそれに腰掛けて作戦を練っている。この旅で、常に先生の近くに車椅子があったし、先生は車椅子をとても扱いなれているように見えた。
そういえば、ずっと以前に難病患者さんと出された共著にも、『車椅子』から始まるタイトルが付けられていた。車椅子は先生の活動を支える重要な道具の一つだし、先生自ら車椅子を押すという行為は、ただ単に移動の補助という事に留まらない、乗っている方に直接先生の愛を届けるような、崇高な意味があるようにも思えた。
車椅子に座って地図を凝視する先生のお姿、そこから少し離れた場所で談笑する仲間たち、民族衣装に身を包んで不思議な音色を奏でるスペインの方たち、その前に立つ観衆、それらを交互に眺めていると僕は、自分がどこでもない時代の、どこでもない場所にいるような、不思議な感覚に陥って行った。
午後の部スタート
12時00分、集合時間になっても先生は菊池さんと何やら話されている。やっと午後の作戦が決まり、指示を出されているように見受けた。
ほどなく、再び先生を先頭に、我々一行は歩き出した。
先生が女性の乗る車椅子を自ら押す。右横にはスタッフのMさん。この旅ではずっと先生の参謀役を務めている。先生の左後ろには車椅子の女性の付き添いのご家族。
その後ろに我々一行がゾロゾロと続く。総勢30名。縦長の列の一番後方には、残りのスタッフ数名の方々がいて、一行がはぐれないよう目を配ってくれているものと思われた。
僕は、先生たちのすぐ後ろの第二集団とでもいうような位置で歩いていた。大屋根リングの高い天井の下、先生を先頭に歩いている。
この風景には、過去にどこかで見たような既視感があった。
先生は、最初トルコ館に向かわれたが、Mさんから20分待ちの報告を受けると、「うーん」と少しだけ迷われた様子見せてから、「やめときましょうか」とおっしゃられた。いきなり当てが外れて、落ち込みそうなものだが、先生は慌てる様子も無く、そのままペースを変えずに前進した。
引き続き、先生を先頭に、とても高い天井の下を歩く我々。
以前にも、そういった体験をした事がある気がした。
トンネルとか、大きな洞窟とか、そういったものの中を歩く経験を、以前にもした事があるはずだ。
それがいつの時代の、どんな場所だったのか、すぐには思い出せなかった。
午後になって、人出は更に増えたように見える。どこもかしこも人で溢れている。その中を先生は、迷う様子も無く、ゆっくりとだが一直線に歩いて行かれる。
ベンチで休んでいる人の中に、赤いカープのユニフォームを着た子供を見つけた。僕と同じカープファンの親子だ。まだ幼児なのに、この歳からカープのユニフォームを着こなしているとは頼もしい。ユニフォームを着ているのがお子さんだけというのも、やりすぎない感じで良い。通り過ぎ際にさりげなく男の子の背中を見ると、『33番菊池』のユニフォームだった。王道である。思わずにんまりとしてしまった。
光の広場から大屋根リングの上へ
12時12分、先生は大屋根リングの下を抜けて「光の広場」へと僕たちを導いた。
ここで一旦立ち止まり、大屋根リングの上へ登る事を告げた。
前日は雨で立ち入り禁止となっていた大屋根リング。この日は奇跡的に晴れた事で、登る事が出来た。
Mさんを先頭に、我々はエスカレーターに乗った。先生から、上に登ったら右へ進むように、との指示が出されていた。
大屋根リングの上は、なるほど話題になるだけの事はあって眺めがよかった。みんな思い思いに写真を撮る。
海の向こうに山並みが見えている。どこの山なのか気になるのは元ワンゲル部員の習性だろうか?
お仲間の一人、地元出身と思われる関西弁のおじさんに、「あれは六甲山でしょうか?」と尋ねてみたが、「そうとちゃいまっか。ようわかりませんけど」との答だった。普通の人は見えているのがどこの山なのか、あまり気にされないのかもしれない。
僕はスマホの地図を開いて確認した。方角的に、六甲山の山並みで間違いなさそうだった。
12時19分、エレベーターから降りて来た先生と合流。再び先生を先頭に歩く。
「カナダ館は予算をケチっていると評判なのですよ」と先生が指差す方向を見下ろすと、大型テントのような、いかにも安っぽい作りのカナダ館の建物が見えた。これではちょっと大きめの台風でも来たら耐えられないのでは、と心配になるような作りだ。
中にはステージがあって、バンドがポップミュージックのようなものを演奏しているのが見えた。聞こえてくる歌声を聞きながら先生は、
「あんな音楽では、アメリカとの違いが出せていないですね。歌もあんまり上手くないし」
と手厳しいコメントをされた。
僕は、もし自分がカナダ館をプロデュースするとしたら、どのような展示にするだろうかと考えてみた。「赤毛のアン」の展示を思いついた。モンゴメリさんの直筆の原稿を展示してくれたら是非見てみたい。
僕は作家たちの直筆原稿を見るのが大好きだ。それもきれいに清書された原稿ではなく、何度も修正を加えられた跡のある、推敲の過程がわかるような原稿には心が惹かれた。
モンゴメリさんもそのようなものを残されているのだとしたら、この万博の期間限定で公開すれば、きっと見たがる人はたくさんいるはずだ。それに「赤毛のアン」の過去の映画化作品やドラマ化作品、世界中で翻訳されたご本の展示など、魅力ある展示が出来ると思った。
だが、これでは万博のパビリオンというより文学館だ。一般受けはしないのかもしれない。であれば、カナダの大自然を紹介すればいい。何しろカナダは美しい自然の宝庫なのだ。その中にはまだ良く知られていない場所もたくさん残されているだろう。そういった場所を紹介すれば。。。
などと考えながら、先生の後について歩いた。
12時28分、大屋根リングを4分の1周歩いた時点で、下に降りる事になった。
77番柱の前で待つように、との指示で、先生と一旦別れた。
「調和の広場」に降りて大屋根リングの下へ向かい、皆で先生が降りて来られるのを待った。
12時31分、77番柱前。
空の車椅子を押した先生が、エレベーターで降りて来られるのを出迎えた。
高い場所から降りて来る先生をみんなで出迎える。
このシーンも、以前にどこかで見たような既視感があった。
それがいつの事だったのか、この時にはすぐにわかった。
小高い丘のような場所に立ち、崖の下に集まる群衆に向かって説教をされる先生。
そのお姿をみんなで見守る。
山上での説教を終えて、降りて来られた先生。
その先生をみんなで出迎える。
そういった事が確かにあった。
あれは今から二千年ほど前の出来事だろう。
僕たちと合流した先生は、「次は海の方へ向かう」と話され、再び歩き出した。
12時33分、建物の中に人の少ない穴場のトイレがある事を紹介。先生は所々で、こう言ったプチ情報を挟む。
12時34分、北欧館の混み具合を確認。
12時35分、北欧館の裏側、海辺のベンチで休憩。
ムーミンのお土産を買いたい人だけ北欧館の裏口からこっそり入るように、との指示が出された。僕は休憩チームに残りベンチに座った。
先生も残られ、参加者のおじいさんに腰掛けて休むように勧めている。先生は今回の旅で、基本的に車椅子の女性へのケアに自らの精力を最も注がれてはいたが、他の参加者の事もいろいろ考えておられていて、全てを配慮しながら行動を決めている様子が見て取れた。
同じく休憩チームに残っていたHさんと並んで座りお話をした。Hさんは55年前の大阪万博も訪れており、うっすらと記憶が残っているそうだ。ものすごく雨が降っていた事は覚えているとの事だった。
僕はその頃、まだこの世に生を受けてはいない。母親のおなかの中にいる胎児とつながりながら、もうすぐ自分が降り立つ舞台を見下ろしていたはずだ。その頃、僕は何を思っていたのだろう。
バングラデシュとセネガル
12時49分、再び出発。先生はエジプト館に向かうも、90分待ちで断念。
13時06分、隣り合うバングラデシュとセネガルを連続で見る事になった。
どちらの展示パネルも見どころに乏しかった。なぜ面白みを感じないのか?
それは、パネルに書かれている文言が、見覚えのあるフレーズばかりだったからだ。持続性、循環性、サステナビリティ、環境、未来、技術といった言葉が並ぶ。SDGs的な万博のメインテーマに沿っての事だから仕方無いのかもしれない。だが、そこには個性や面白さを全く感じない。
おそらく業者に大金を払って見栄えだけ整えたら、こんな感じの展示になるのではないか?
こう言った見栄え重視で中身の薄い文言のオンパレードは、身近な場所でも目にした記憶があった。どこだろう?少し考えて、それが自分の会社のホームページや外部向け報告書の中だと思い当たった。共通しているのは業者に金を払って、見栄え良く仕上げて貰っている点だ。やはり、自分の頭で考え、自分の手足を動かして物を作らないと、人の心に響くような仕事は出来ないのだ。
そんな中、セネガル館では一つだけ面白い光景が見られた。
中で物品の販売もやっていたのだが、長い机の上に民芸品などの品物を並べただけのシンプルな作りは、現地の実際の出店を思わせた。値札らしきものが無いのも現地風でよかった。売り子は民族衣装を着た逞しいお兄ちゃんだったが、商売熱心でしきりと客に話しかける。全て英語。
「ハウマッチ?」と客の一人が尋ねる。
「ワンサウザンド」
「ドル?ジャパニーズエン?」
「USダラー」
「高い!トゥーエクスペンシブ!」
「How much do you wanna pay(いくらで買いたい?)」
と会話が続いた。
まるで現地さながらの英語での価格交渉は、見ていて楽しかった。
セネガルは展示も全て英語だったのだが、その方がかえって異国の感じがしたのもよかった。
僕が二つのパビリオンを見て外に出ると、仲間たちも続々と戻って来た。
一部の例外を除いて、僕はだいたいパビリオンから出るのは早い方だった。なにしろ展示物より先生の行動に興味を持っているので、展示物の鑑賞に熱が入らないのだ。これが学校の授業だったとしたら、かなり出来の悪い生徒に違いなかった。
僕とは対照的だったのが、車椅子の女性だった。彼女は、どのパビリオンでも実に丁寧に鑑賞している様子が見て取れた。一瞬、一瞬を慈しむように、心に刻みつけるように、鑑賞されている姿が印象に残った。
コモンズB
13時17分、セネガル館前を出発。
13時18分、コモンズBの前、入り口から少し外れた所で先生は立ち止まって集合をかけられた。
「大事な話をしますから集まってください。もっと近くによって」
先生が移動中にみんなに話をする際は、必ず立ち止まってみんなに小さく輪になるように呼びかけた。これは参加者が聞き逃して迷子にならないようにする為の配慮と、周りのお客様の邪魔にならないようにする為の配慮からだった。
「今から40分、時間を取ります。コモンズBとCを見て来てください。40分後、午後2時ちょうどに、ここ、同じ場所に集合してください。このキャラクターが目印になりますから、みなさんわかりますよね。では解散!」
先生の声に従って、皆が思い思いに歩き出した。
僕はコモンズBに向かった。同じようにまずは目の前のコモンズBに入った仲間が多かったように思う。
コモンズBでまず気になったのは、パラグアイだった。ブースのタイトルに「Ikigai」の文字があったからだ。『生きがい』という言葉は、先生の教えを表すキーワードだった。先生が90年代後半から00年代にかけて発表された数々の著作は、『生きがい論』として知られ、ベストセラーになった。
僕はパラグアイのブースタイトルの文字を見て、『生きがい論』がついに南米にまで拡がったのか、と色めき立った。
しかし、興味津々で中の展示を眺めても、『生きがい論』に通じるような要素は発見できなかった。パネル展示も奥で流れる映像も平凡でつまらなかった。
受付のお姉さんの手が空くタイミングを待って、英語で話しかけ、このブースのタイトル「Ikigai」の意味について尋ねてみた。お姉さんは流暢な英語でこう説明してくれた。
「Ikigaiという言葉は日本語で、このブースのメインテーマのようなものです」
「そうですか。ではIkigaiという言葉をパラグアイの言葉、スペイン語で表すと、どういう言葉になるのでしょうか?」僕は更に質問した。
「スペイン語にIkigaiに相当する言葉は無いのですが、私たちはpurpose of lifeといった意味で使っています。パラグアイにはpurpose of lifeを提供(provide)できるものがたくさんある。パラグアイの魅力を伝え、purpose of lifeを提供する事で、パラグアイと日本をつなぐ(connect)役割をしたい。それがこのブースのテーマなのです」
「ああなるほど。そういう意味だったのですね。よく分かりました。ありがとう」
僕はお礼を述べてパラグアイのブースを後にした。
生きがいという言葉が欧米の言葉では存在しない事、英語にするとなるとpurpose of lifeと訳され、いささか仰々しくなり、日本語の「生きがい」とは趣が異なってしまう事など、まさに先生が『生きがい論』の初期の著作の中でも紹介されていたとおりだった。
だから、パラグアイのブースの女性の説明は全く間違っていないし、教科書どおりの模範回答ではあった。しかしその答はいかにも作られた答であり、心に訴えかけて来るものはなかった。それはブースの展示から受けた印象と同じだった。
パラグアイに限らず、SDGs的な言葉を散りばめて見栄えだけを整えた展示は、そこここで散見された。おそらく業者に丸投げで事を進めるとこういったものが出来上がるのだろう、という思いは更に強くなった。
反対に、とても興味を惹かれたのがジンバブエのブースだった。ジンバブエはバーチャルグラスを用いたデモを行なっていて、そこには順番待ちの行列が出来ていた。僕は順番待ちには並ばずブースの奥へと進んでみた。
一番奥は壁3面が全てスクリーンになっていて、動画が流されている。この作り自体はパラグアイや他国のブースでも同じであり、コモンズ内の小ブースの標準パターンの一つのようだった。だが今まで見た国ではあまり面白いと思える動画には出会えなかった。
ジンバブエの動画コーナーには人がおらず、内容には期待が出来ないのかも知れなかったが、僕はとりあえず中へ進みスクリーンを見た。そこには、現地で暮らすおじいさんがパイプをくゆらせる姿が映し出されていた。
テロップでの説明から、そのおじいさんが酋長的な立場の方で、伝統的な儀式としてパイプを吸っている事がわかった。民族的な儀式を壁一面の大スクリーンで流すのは、他国の動画とは一線を画していた。僕は思わず立ち止まって映像に見入った。
しばらくして、映像はジンバブエの大自然を紹介するものに変わった。僕はそのコーナーの真ん中に立ち、3面の大スクリーンに取り囲まれる形で映像を楽しんだ。まるでその場にいるかのような感覚を得た。滝の映像が流れた際には全身が涼しくなり、もしかして天井からミストを流す演出までしているのか、と思ったほどだった。
念のため天井を見上げて確認したが、ミストが流れ出ている訳では無く、映像で得られた没入感から涼しさを感じたようだった。壁3面を使って3Dで自然の姿を映し出すと、ここまでの没入感が得られるという事を初めて知った。その後も、ジンバブエの大自然を映した迫力のある映像が次々と流れ、いつまでも見続けていたい気持ちになった。
でも気が付くと、いつの間にか僕の背後には、後から訪れたお客さんが何人か入って来ていた。3面スクリーンの真ん中という特等席を、いつまでも占拠するわけにもいくまい。僕は後ろ髪をひかれながらもジンバブエを後にし、他のブースに移ることにした。
他にも初めて名前を聞くような国、名前だけは知っていても知識ゼロの国々の展示には、惹かれるものが数多くあった。
例えば、ガンビアという西アフリカの小国は初めて名前を知った。西アフリカを流れる大きな河、ガンビア川の中流から河口の両岸地域だけが、一つの国になっている。地図で見ると国土の真ん中に川が流れ、その両岸の土地はわずかである事がわかる。なぜ、このように川の両岸だけで一つの国になったのだろうか?
おそらくこの川で漁をして暮らす民族が独立して、一つの国を作ったのではあるいまいか。「国民全員フィッシャーマン!」といった標語が頭に浮かんだ。実際にそうなのかどうか、じっくり調べる時間は無かったが、とても興味を惹かれた。
コモンズBで時間を使いすぎた僕は、コモンズCへの入館を諦める事になった。
それでも全く後悔はなかった。
おみやげ物タイムに考えたこと
14時00分、再集合の時間が来た。
この時点で、スマホの万歩計は11274歩。今日も良く歩いている。
先生からは、これから西ゲートに向かい、お土産タイムを設ける事が告げられた。
ムエタイを見に行くという格闘家のKさんとは、ここでお別れとなった。
いよいよ、この旅も終わりを迎えようとしている。
14時06分、トイレ前。ここで一旦解散して、14時50分に再集合の指示が出された。
この西ゲート近くのトイレ前が、常に万博内の移動での基点となった。先生は、車椅子入場組との合流や人通り、トイレ休憩時間の確保など、様々な利便性を考えて、この場所を基点となる集合場所に選ばれたのだと思う。さりげない部分にも、綿密に準備をして臨まれていたことがわかる。
僕は公式グッズのお店を素通りして、一番外れにある関西地区のお土産物屋に向かった。一通り見て回ったけれど、気持ちをそそられるようなお土産は見つけられなかった。日本の観光地で売っているお土産物はどうしてこうも個性が無く、つまらない物ばかりなのだろう。僕なりの見解はあるのだが、敢えてここでは述べない。
僕はお土産物の購入を諦め、もう一度、パビリオンがある万博のメイン会場に向かった。
ガンダムパビリオンの前に行って、ガンダムの写真を様々な角度から撮影した。更に大屋根リングの上に登り、そこからもガンダムの写真を撮った。ガンダムの撮影に満足すると、僕は集合場所に向かってゆっくりと歩き始めた。
歩きながら、この日一日ずっと気になっている事について考えた。大屋根リングの下を、先生について歩いている時に見えた光景の事だ。
遠い昔に、確かに同じような経験をした事があった。あれがいつどこで、どんな状況での事だったのか、思い出せそうで思い出せなかった。
大屋根リングから先生が降りて来られる映像は、おそらく二千年ほど前の事だとすぐにわかった。でも、大屋根リングの下、天井がとても高いトンネルのような場所を歩いた記憶は、いつのものなのか。
最初は、洞窟とかトンネルとか、そういったものの中を歩いた時の記憶ではと思った。しかし、どうもしっくり来ない。
もしかしたら、トンネルのように見えて、実はトンネルでは無い何かではなかったか。両側が高い壁のようになり、天井がとても高い、途轍もなく大きなトンネルのような場所だ。例えば背の高い木々に囲まれた道、緑のトンネルというような場所かもしれない。大屋根リングは全て木で作られているし、悪くない連想に思えた。
でも、これも今一つしっくりと来ない。
時間より少し早く集合場所に戻り、ベンチに座って、終わろうとしている旅について振り返った。
僕が目にしたのは、先生が目の前のお方を献身的に助けようとするお姿だった。自分の頭で考え、自分の手足を動かし、自ら汗をかく。その先生のお姿を、目の当たりにした。
「私は、ただ、目の前にいらっしゃる御方を救いたいだけなのです」
以前、先生がご著書の冒頭を、こんな言葉で始められていた事があったのを思い出した。先生はまさに、この言葉どおりの事を実践されているのだ。その姿勢は、ずっと昔から変わらない。先生のやり方に派手さは無いが、その地道で確かな姿勢は着実に積み重ねられ、気が付くと大きな力となるのだろう。
パリサイ人から激しい糾弾を受けながらも、愛を貫いたイエス・キリスト。
清貧を頑なに実践し、ついには教皇にも認めさせたアッシジのフランチェスコ。
地道な愛の実践は、どんな大きな権力にも勝るのだ。
それは、時代も場所も問わず、変わらない事なのだ。
ゲートへ向かう
14時52分、菊池さんが人数チェックを始めた。
会場内ではおそらく、この旅最後の人数チェックだろう。
何度も集合と解散を繰り返して、旅を続けた。菊池さんとスタッフの方々は、その度ごとに人数チェックを怠らなかった。先生の綿密な戦略が実行できたのも、こういった横で支える方々がいてこそだ。
14時54分、トイレ前を出発。
14時58分、ゲートを通過。
15時11分にはバスに乗り込んだ。
僕は、その間ずっとOKさんと一緒に歩き、彼女から話を聞いた。
ちょうど一日前、このツアーで初めて話をしたのが彼女で、最後に話をお聞きしたのも彼女になった。故郷の事、おじいさまの事、旦那様の事、息子さんの事、お孫さんたちの事。彼女の話は多岐に渡った。でもその話の中心は常に彼女の仕事の話題だった。彼女の人生において仕事の占める割合が、とても大きな物である事を思わせた。
OKさんはA県B市に生まれて育った。F県との県境にあり、瀬戸内海と中国山地に囲まれた風光明媚な場所である。果物ギフト店を経営している家の長女だった。戦前に大阪の奉公先から地元に戻ったおじいさまが始めた事業だった。おじいさまは奉公先で学んだ大阪商人のやり方をBの町に持ち込んだ。事業は大成功を収め、多くの使用人を雇うまでに大きくなった。のんびりとした田舎町だったB市の人々にとって、それは衝撃的とも言える出来事で、おじいさまの名前はあっという間に広がった。厳しい商売のやり方に対して、「あいつの歩いた後には草も生えない」と非難めいた事を口にする人も中にはいたが、地元ではちょっとした有名人になった。
彼女は物心がつくとすぐに、そのおじいさまから直接、薫陶を受けて育った。小さな頃から「おまえは将来、商売人になるのだ。この店を継ぐのだ」と言われ続け、自分自身も自然とそれが自分の定められた道だと信じるようになった。
「そうすると学校は商業高校に進んだのでしょうか?」と僕は尋ねた。
「ええ、地元のB商業に進みました。旦那も同じ高校の出身でした。お互い長子同士だったので結婚するまでは大変でしたけど」
そこから話は結婚当時の苦労話になった。お互いが家業を継ぐ事を求められていたため、お互いの親族から結婚に反対された事。お互いの家業をまとめて会社組織とする事で何とか結婚できた事。会社は有限会社から株式会社へと発展させていった事。今とは違い、株式会社を作るにはそれなりの資金が必要だった時代であり、簡単では無かった事などをお聞きした。
「会社設立の仕方なんかも全くわからなかったから、何もかも全て、一つ一つ自分で調べてやったのです」
そう話すOKさんの口調はとても柔らかかったけれど、言葉には実感が込められていて力強さがあった。旦那様との出会いから結婚に至るまでの経緯には、おそらくかなりドラマチックな展開や苦労があったのだろうと推測した。そのあたりをもう少し詳しく聞いてみたかったけれど、さすがに歩きながら聞けるような話ではなさそうだった。
子育てをしながらも、ずっと家業の経営が彼女の人生の中心にあった。息子さんに社長の座を継いだ後も休み無く働き続けた。しかし長年の無理が祟ったのだろう、ある日体調を崩し倒れてしまった。それを機に家業は息子さんに全てを任せて仕事を休む事にした。
時間が出来た事で初めて自分の人生を振り返ってみた。その中で先生に出会い、先生主催のツアーにも片っ端から参加した。時を同じくして孫が次々と生まれ、孫の世話が新たな楽しみになった。自分が子育てをしていた頃には忙しすぎて子育てを楽しむ余裕はなかった。その分、孫にはたっぷりと時間をかけて愛情を注いでいる。
B市は何も無い町で人口減少が止まらず、今や消滅都市と呼ばれている。だけれど今も自然には恵まれている。目の前に海が広がり、すぐ裏には山があり緑に囲まれている。こんな美しい場所で仕事が出来る事には、何度と無く感謝をした。
体調が戻ってからは、再び会社へ出るようになった。経営は全て息子に任せたと言っても、手伝える事はまだいくらでもある。結局今も週六日は仕事をしている。今回、久しぶりに先生主催の旅に参加するまで、この2年間で日曜日以外に仕事を休んだのは、初めてだった。
「あなたはどういった仕事をなさっているのですか?」
彼女は僕にも仕事の事を訪ねた。
「東京でサラリーマンをしています。営業の裏方みたいな仕事です。以前は海外にも住んだりして、営業の第一線にいたのですけど、今は裏方として回りの人間を助けるような仕事です。若い人たちに仕事の仕方を教えたり、実際に手伝ったり、そんな事をやっています」
と僕は答えた。
「誰かに何かを教えるのって大変じゃありません?」とOKさんが続けて尋ねた。
「ええ、大変です。なかなかわかってもらえない事も多くて。でも時々相手が成長してくれているなとわかる時があって、そういう時は嬉しいのです」
と僕は答えた。その答えに嘘はなかった。
仕事をしていて楽しい事や嬉しい事も確かにある。だが今の仕事をずっと続けたいとは思えない。一口に仕事と言っても、OKさんが人生を通してやってきた仕事と、僕がやっている仕事には、根本的とも言える大きな違いがあるように思えた。
その違いは何なのだろう?
その疑問を持ち続けたまま、僕は彼女との会話を続けた。
OKさんは、一見すると優しい笑顔のおばあ様に見えた。6人のお孫さんを可愛がっている姿は容易に想像できた。ただ、その笑顔の奥には、表面的な優しさに留まらない、凛とした佇まいがあった。彼女の話はとても面白く、もっといろいろと尋ねてみたかった。
しかし気が付くと、バス乗り場が目の前に迫っていた。僕は彼女に挨拶をして、バスに乗り込んだ。
帰りのバス
15時13分、バスが出発すると、菊池さんがすぐにマイクを握って挨拶をした。
15時15分、先生がマイクを握った。
「皆さんお疲れ様でした。昨日までの予報なら天気が悪く、逆境と試練の旅となる筈でしたけど、大成功の旅になりました。皆さん、本当に幸せ者ですね」
先生の話は続く。
「ここでね、皆さんに一つだけお願いがあるのですが、是非この旅の復習をしてください。恨みを晴らすという意味の復讐ではありませんよ。予習復習の復習です。実は、旅というのは3回楽しむことが出来るのです。一つ目は予習の楽しみ。事前に下調べをする楽しみですね。二つ目が実際に訪問する楽しみ。それが昨日今日とやってきたこと。
そして三つ目が復習の楽しみです。一つ目と二つ目は終わった訳ですが、三つ目はこれからです。皆さんにはまだ、大きな楽しみが残されているのですね。旅の思い出を振り返ったり、さらに次の訪問を計画したりと言った事です。そして普通のテーマパークと万博の違いは、万博はその後の人生を通じて一生楽しむ事が出来る、という事なのですね。今回パビリオンで訪れた国々について調べてみるとか、現地料理のレストランを探して食べてみるとか、実際に現地を訪問してみるとか、そういった事を通じて、ずっと楽しむ事が出来るのです。だから是非、今後の人生を通じて一生楽しみ続けてくださいね」
15時22分、先生のお話は終わった。
僕はノートに1522と書き入れた。
万歩計を見ると15223歩だった。15223もノートにメモした。
先生のお話が終わると、車内は静かになった。眠り始めた仲間たちもいるようだ。
僕もかなりの疲れを感じてはいた。でも気持ちは昂っていて、全く眠たくは無かった。
僕は二日間取り続けたノートのメモを眺めた。何時何分という数字と、場所の名前などの文字情報の組み合わせが羅列されたメモになった。数字と文字の組み合わせの記録。それは将棋の棋譜を連想させた。僕は、将棋に例えると記録係か観戦記者みたいなものなのかもしれない。
将棋は無限に近い組み合わせの中から、真理を追い求めて凌ぎを削る競技である。目の前で行われている事は、駒を一手ずつ進めるという地味な行為の繰り返しに過ぎないのだが、天才たちが繰り出す戦いは、美しい棋譜となって残る。その棋譜を残すのが記録係であり、その棋譜に隠された意味や、天才たちの苦悩の跡を文字にして伝えるのが観戦記者の役目だ。
僕のやりたい事も、それと似たようなものなのかもしれない。
バスは順調に京都への道を進んでいた。日曜日の夕方の高速道路は、大きな渋滞も無く流れているようだった。東京なら多かれ少なかれ必ず渋滞が発生する時間帯だが、関西ではそこまでの渋滞は無いようだった。
16時11分、菊池さんがマイクを握り、あと5分で京都駅に到着する事を告げた。
16時13分、いよいよ先生の最後のお話が始まった。
「こうして、楽しい旅が終わろうとしていますけれどもね。皆さんは本当に幸せな御方ですね。二日間、万博を満喫する事が出来たのでは無いかと思います。昨日も言いましたけれども、世の中には行きたくても行かれない人たちがたくさんいる中で、皆さんは実際に行く事が出来たわけですから。
今後もね、このような旅の企画を菊池さんの会社にお願いして、企画したいと思いますから、是非楽しみにしていてください。この旅の様子も、数日以内にはホームページにアップしますので、楽しみにしていてくださいね。
このたびの旅に参加する事ができて、本当におめでとうございます。そして、ありがとうございます。また、いつかどこかで、この世かあの世かわかりませんけれども、お会いできるのを、楽しみにしております」
先生のお話が終わると、車内は大きな拍手に包まれた。
拍手が鳴り止んだ頃には、京都駅が目の前に迫っていて、バスはゆっくりと駐車場に停まった。
旅のおわり
バスから降りる時に、先生は一人一人に握手して見送ってくださった。
僕の順番が回ってきたので、僕は先生の手を握りながら、ありがとうございました、と言った。悔やまれるのは、左手が荷物で塞がっていた事だ。両手で握手をしたかったのに、右手だけになってしまった。
バスを降りると旅の仲間たちは、それぞれの次の目的地へと旅立って行った。
僕は一人で駅構内へと戻り、お土産物屋を物色した。シローさんや同僚たちの顔を思い浮かべながら、お土産物を選んだ。いろいろ見て回った末に八ツ橋を買った。僕好みのお土産だった。
新幹線に乗り込んだ後も、僕は高揚感に包まれていた。
さっそくスマホを開き、先生へお礼のメールを送った。様々な気付きが得られて大満足だった事、取ったメモを元に復習を楽しみたいという事、先生を始め、出会った皆さんに感謝が尽きない事を綴った。
こうして、二日間の先生との旅は終わった。二日間とは思えないほど、中身の濃い旅になった。様々な学び、気付き、出会いがあった。
その中でもやはり、先生のお姿を目の前で見られた事が一番大きかった。
今までご本で読んで来た先生の教えの数々。
先生がそれを、目の前にいるお方に対して、地道に実践するお姿があった。
先生の教えは、先生の生き方そのものなのだった。
先生の大きな教えは、先生の小さな言動の一つ一つの積み重ねによって、築かれていたのだ。
先生の行動は、目の前に落ちている小さな小石を拾って一つずつ、積み上げて行くような行為に思えた。そして、先生の積み上げた小石の山は、いまや、富士山のように雄大で美しい独立峰を形作っている。
僕も、先生のような生き方をしたい。
先生のように、目の前の小さな言動の一つ一つで自分を表現し、これが自分です、と言えるような何かを築き上げたい。
そして、それは地道に一つずつ、小さな言動を積み重ねて行く事でしか、成し得ない事なのだ。
もう一度、先生の元で学ぼう。『光の学校』の生徒として、より身近な所で学んでみたい。先生の出来るだけ近くで。
「やっと、小石を積み上げる気持ちになったのね」
誰かが耳元でささやいた。シローさんの優しい声だ。
「お前、小石を悪い奴に投げつけたいんじゃなかったのか?」
今度はカッパくんがささやきかけて来た。
そう僕は、悪い奴らに小石を投げつける事ばかり考えていた。
ずっと昔、先生が、罪びとに小石を投げようとする人々を、諭されているのを見た事があった。その時、僕は確かに自分の持つ罪を意識して、小石を投げるのを止めようと誓った筈だった。それにも関わらず僕は、相変わらず誰かに小石を投げつける事ばかり考えていた。
僕はずっと以前から、様々な時代、様々な場所で、先生に師事して学んでいたのだと思う。いつの時代でも、おそらく出来の悪い生徒だったに違いない。だから今もこの体たらくだ。
だけれど幸いにも、『光の学校』には落第や留年はあっても、除籍処分は無いみたいだ。だからもう一度、真剣に先生の元で学んでみよう。そして今度こそ、胸を張って卒業と言えるまで、最後まで逃げずに挑戦を続けるのだ。
しかし、いったい、これが何回目の学びなのだろうか?
どどーん!
ごごごご、ごごごごう!
その時、大きな音と共に目の前に映像が現れた。
僕は岸辺に立っている。
目の前の海の水が轟音と共に切り裂かれていく。
海水が二手に分かれて、目の前に道が出来た。
道の両側には海水がそびえ立ち、高い壁のようになっている。
海の真ん中に突然、高い水の壁に囲まれた、道が現れたのだ。
その道を先生が一歩また一歩と進む。
僕は仲間たちと一緒に、先生の後ろについて行った。
左右の海水の壁はどこまでも高くそびえ立ち、僕らは、とてつもなく天井の高いトンネルの中を、進んでいるように見えた。
先生は、その道の真ん中を、一歩一歩確実に進んでいった。
大屋根リングの下で見えた過去の映像は、この場所だったのだ。
僕は三千年以上の昔から、先生の元で学んでいたのだ。
僕は感謝した。
自分をここに導いてくれた大きなものに感謝した。
もう一度、先生の元で学ぶ機会を与えてもらえた事に感謝した。
今回の旅で出会った人々に感謝した。
いつもそばにいてくれる家族や会社の仲間たちにも感謝した。
カッパくん、シローさん、そして自分自身にも感謝した。
感謝が尽きなかった。
さあ、これから、本当の旅が始まる。
完
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《 飯田史彦による結語 》
上記の物語に登場する「車椅子の女性」(がん患者さん)は、その数週間後、2025年7月に、光の世界に戻って行かれました。今は、まぶしい光の姿になられて、ぴかぴかに輝きながら、のんびりと幸せになさっておられます。彼女の今生の素晴らしい想い出として、万博会場で私が撮影した、最愛のお嬢様との記念写真を、いつまでも、以下に公開&保存させていただきますね!!
(^-^)