第二章 コンサート&セミナー編(2025年5月から9月)

著者:ゴードン4号

《 お願い 》 第一章をお読みでない御方や、第一章の内容をお忘れの御方は、まずは下記をクリックして、第一章をお読みください。(第一章をお読みくださらなければ、これ以下の章の内容を、ご理解いただくことができません)

クリックして第一章へ



《 以下、第二章 》


 万博ツアーを終えて、僕が最初にやったことは、先生の会員制クラブ「心の友」のサービスメニューを再確認することだった。ホームページを開き、どのコースに対してどういったサービスメニューがあるのか、上から下までじっくりと眺めてみた。

 僕はこれまで、東京会場で行われたセミナーを別にすれば、とくに「心の友」のサービスを利用したことはなかった。これらのサービスは、先生のことを切実に必要とされる方々へ向けたものであり、自分には必要ないと思っていた。

 しかし、今回の旅を通して、先生のお姿を間近で見たことで、僕の中に抑えきれない欲求が芽生えていた。先生のことをもっとよく知りたい。直接お姿を見て、直接お話をお聞きし、もっと深く学びたい。その思いが強くなっていた。

 熟考の末、カウンセリングの申し込みをした。何はともあれ、まずは先生のカウンセリングを受けてみなくては、と思ったからだ。

 僕はこれまで、一度も先生のカウンセリングを受けたことがなかった。正直に告白すると、「心の友」のサービスの中でも、カウンセリングだけは受けてみたい、と、ずっと思ってはいた。しかし、先生のカウンセリングには、先生の助けを切実に求める方々が殺到するはずだ。自分みたいな、深刻な悩みのない人間は遠慮すべきだ、というのが、今まで僕がカウンセリングの申し込みを実行しなかった理由だった。

 しかし、それは言い訳に過ぎなかった。僕は、先生の前で自分のことを話すのが怖かっただけなのだ。

 先生はすぐに返事をくださり、7月5日にカウンセリングが受けられることになった。


 時を同じくして、僕は最終段階に入っていた小説を仕上げて、5月31日に郵便ポストに投函した。大雨の中、土曜日でも営業している大きな郵便局まで歩いていき、原稿の入った封筒を局員さんに渡した。切手代を支払うと、局員さんは封筒にスタンプを押して、送付用の集合箱に僕の封筒を入れた。間違いなく、5月31日の消印がついたはずだ。

 6月に入ると、休む間もなく、旅のメモをまとめる作業を開始した。手書きのメモを読み解き、エクセル上に時系列で並べていく。記憶の薄れないうちに一通りまとめたら、しばらく執筆は休みにして、次回作の構想をじっくりと練るつもりだった。次作は明るくてエンタメ性の高いものを書きたい、というのが、前作の推敲中に考えていたことだった。

 しかし、旅のメモをまとめるうちに、これは文章として残さなくてはならない、と思い始めた。「先生との旅」というタイトルがすぐに浮かび、気がつくと書き始めていた。そこから二週間ほどで、第一稿を書き上げた。この小説の第一章、「先生との旅 万博編」の元となる文章である。四百字詰め原稿用紙換算で、百二十枚ほどの分量になった。


 同じ頃、職場では、新たな仕事が舞い込んできた。僕は、ちょっとしたきっかけで始まった特別プロジェクトの現場リーダーになった。

 そのプロジェクトは、残業過多の同僚を助けるためのものだった。宮崎さんという名前のその同僚は、おそらく、その道三十年近くになる大ベテランで、文字通り朝から晩まで働いていた。横から見ていても、彼の業務過多は明らかで、自分がずっと助けたいと思っていても、立場上、間接的にしか助けることのできなかった人物だった。

 しかし、彼の残業過多がかなりの上層部の耳にまで入ることになり、会社として本腰を入れて彼を助ける話が急に持ち上がった。彼の直属の部門に任せるのではなく、周りの人間も入って手助けするというのだ。

 僕にとっては願ってもない機会だった。まさに、千載一遇のチャンスと言ってよかった。僕はメンバー集めに奔走し、自らそのリーダーに立候補した。

 立候補するタイミングには、細心の注意を払った。立場的にみれば、僕がやるべき仕事ではなく、もし僕がその任を受けたら、僕の本来業務が疎かになることは明らかで、上司や他の同僚から、反対の意向が示される可能性があったからだ。

 僕はチャンスをうかがい、誰からも文句が出ないであろうタイミングで、リーダー就任を一方的に宣言した。僕の目論見は当たり、僕はその新プロジェクトのリーダーに就任した。この話が出てから、僅か一週間あまりの出来事だった。


 「先生との旅 万博編」の推敲は、順調に進んだ。最初の数回の推敲で大まかな形が固まり、その後は細かいエピソードを書き足していった。まだ完成とは言えないが、ある程度自分自身を表現できているという感触を持てるまでにはなった。この文章はごく個人的なものであり、どこにも出すつもりはなかったが、先生にだけは読んでもらいたい。そう思うようになった。

 ここで、「心の友」で受けられるサービスの中に、「文章指導サービス」というものがあることを思い出した。このサービスを利用して、先生に書き上げた作品の添削をお願いしてみたらどうだろう。悪くない考えだと思った。

 しかし、その前に先生のカウンセリングだ。気がつくと、先生のカウンセリングを受ける日が直前に迫っていた。




再び京都へ


 カウンセリングで先生に何を相談するのか。仕事のこと、今後の人生のことを相談したいとは思っていたが、具体的には何をどう相談するのか、決められないまま当日の朝を迎えた。

 新幹線の中で、先生への質問を考えた。

 仕事を辞めたいということ。いや違う。仕事を辞めたいというより、僕は小説を書きたいのだ。その時間がもっと欲しい。小説を書く合間に仕事をするのは別に構わない。というか、仕事での人付き合いが執筆の刺激にもなっている。だが、仕事に時間を取られ過ぎると、僕の本来やるべき小説を書く時間がほとんど残らない。それが悩みだった。仕事を辞めたいというより、小説を書きたい!――シンプルにそのことについて相談してみよう。


 お昼前に京都駅に着いて、地下鉄に乗る。「京都国際会館行き」――この地下鉄に乗るのは何年ぶりだろう? おそらく前回、光の学校を訪れて以来だ。だが、それがいつのことだったのか、はっきりとは思い出せない。京都校のオープニング・イベントだろうか? いずれにせよ、最後に来てから十年以上の月日が流れていることだけは間違いなさそうだった。

 そんなことを考えていたら、車内の広告が目に入った。「和食展-京都文化博物館」とある。

 和食には興味がある。この展覧会を訪れてみたい。カウンセリングの後で訪れる時間はあるだろうか。しかし、この博物館はどこにあるのか?……この地下鉄の沿線なのだろうが、どのあたりなのか?……カウンセリングの後、地下鉄に乗り、この沿線のどこかにある博物館を訪れる。「和食展」を見て、再びすぐに地下鉄に乗り、京都駅で新幹線に乗り換える。新大阪に到着するのは、何時頃になるのだろう?……万博行きのバスには、間に合うだろうか?

 そう、この日は夕方から、万博に行く予定を組んでいた。招待券を持っていたので、それを使って前回の復習を兼ねて、もう一度行ってみる計画を立てていた。その準備には結構時間を取られた。宿の手配、会場までのバスの予約、パビリオンの予約入場の申し込みなどなど。やるべきことがいろいろとあり、肝心の先生とのカウンセリングで、何をどう話すか、考える時間がなくなってしまった。

 カウンセリングの準備だけに集中すべきだったかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、降りる駅が来ていた。

 電車を降りて、階段を上り、改札に向かう。改札を抜けて、ホームページの案内にあった出口の階段を上がる。地上へ上がると強い日差しが差している。

 ここで初めて、僕はかぶっていたはずの帽子をかぶっていないことに気がついた。鞄の中をくまなく探すが、見当たらない。新幹線車内で帽子を脱いだ記憶はあるが、降りる時に持ってきた記憶はない。新幹線車内に忘れてきてしまったようだ。

 完全に僕の不注意だが、落ち込んでいる暇はない。くるりと百八十度向きを変えて、最初の角をすぐに左折した。


 三条通りに入ると、あとは一本道だ。

 カウンセリングの時間はまだ先だ。どこかでお昼を食べたいと思っていると、見覚えのある古い建物に目が留まった。先程車内で見たのと同じ、ピンク色のポスターが貼られている。「和食展」――京都文化博物館だった。思わず中に入る。

 通路を抜けて、入場券売り場を目指すが、その前に腹ごしらえだ。美味しそうな定食屋に飛び込む。焼き魚定食を食べながら、JR東海のホームページから、忘れ物の届け出をした。それが終わるとすぐに「和食展」に向かった。


 「和食展」に入場したのは12時過ぎ、カウンセリングまであまり時間がない。三十分ほどでサクッと見るつもりだった。だが、入場ゲートの手前で、音声解説の端末を貸し出している女性に声をかけられた。普段こういったものはあまり借りないのだが、なぜか思わず借りてしまった。音声の時間が二十九分。予定滞在時間の三十分にギリギリ収まる計算を咄嗟にしたのだが、これが命取りだった。

 音声の解説が面白い。展示されているパネルが、どれもこれも興味深い。時間が足りるわけがなかった。後半はかなりの駆け足になり、最後は泣く泣く会場を後にした。



光の学校へ


 外に出て、日傘をさし、早歩きで光の学校に向かう。見覚えのある入り口の前に着いたのは12時50分。約束の時間の十分前だった。

 インターホンで名前と用件を告げると、カチッという音と共に扉が開かれた。受付にはスタッフの女性三名が揃っており、出迎えてくださった。5月の旅行でもお世話になった方々だ。

 靴を脱いで、手の消毒をした後、メインホールへ通された。先生のコンサートが行われる場所だ。椅子に座って心を落ち着けていると、スタッフの女性が僕の名前を呼んだ。

 女性の指示に従い、カウンセリングルームの扉をノックすると、中から「どうぞ」の声。部屋の扉が開けられ、カウンセリングルームの中に入った。



先生のカウンセリング


 青空を描いた内装には、見覚えがあった。カウンセリングを受けたことはないが、以前にこの場所で、先生にご挨拶をしたことがあったからだ。

 ゆったりとしたソファに腰かける先生のお姿がある。挨拶をして手前側のソファに座ると、いよいよカウンセリングがスタートした。

 「今は、どちらにお住まいなんでしたっけ?」

 先生は僕の緊張をほぐすためか、まずは近況を尋ねた。「ご家族は?」とか「お仕事は?」といった、簡単な質問がいくつか続いた。

 先生はリラックスムードで話されているが、お顔には大量の汗が浮かんでいた。ただリラックスして話されているわけではなさそうだった。

 「おやすみの日は、何をされているのですか?」

 この質問も、先生は本題に入る前の雑談の流れでされたのかもしれなかった。しかし、僕はここぞとばかりに、一気に本題を持ち出すことにした。

 「四年前に、姉が亡くなりまして」

 「お姉様が? おいくつだったのですか?」

 「五十三歳でした」

 「少しお若いですね」

 「ええ、突然、癌になって、あっという間に亡くなったのですが、亡くなった直後に先生にメールを出したら、とても温かいお返事をいただきまして、あの時は、ありがとうございました」

 「ああ、少し思い出してきました」

 「それで、姉が亡くなってから、自分も悔いのない人生を送らなくてはならないなと思うようになりまして、姉が亡くなった翌年、五十二歳の誕生日に決心して、小説を書き始めたのです。小説を書きたいというのが、子供の頃からの夢だったので、このまま何もしなければ、死ぬ時に絶対に後悔するに違いないと気がついたからです。それからは、基本的に、毎日小説を書き続けています」

 「小説って、どういったジャンルですか? ミステリーとか?」

 「ジャンルでいうと、純文学ということになると思うのですが、事前にストーリーを決めるわけではなく、思いつくままに、自由に書き進めるスタイルです」

 「それは? 舞台は現代? それとも架空の場所とか?」

 「現代の日本が舞台です」

 「テーマは?」

 「テーマは、仕事とか、家庭とか、恋愛とか、ごく日常的なあれこれ、といった感じです」

 「それって、小説というより、エッセイみたいなものですか?」

 「そうですね。エッセイに近いかもしれません。ただ、エッセイと違うのは、事実だけを書いているわけではなく、自分の想像や妄想も思いつくままに書いているので、私は小説と呼ぶことにしているのです」

 「なるほど」

 「それで完成したら文芸誌の新人賞に応募するっていうのを続けているのですが、今のところ、毎回、予選敗退です」

 僕がここまで話をすると、先生は一瞬だけ右斜め上の中空を見つめた。それからすぐにこちらに向き直ると、このようにおっしゃった。

 「私は何冊も本を出していますし、経営学者でもありますから、出版業界についても、それなりに知識があります。

 それに基づいて、ちょっと出版社の内情をお伝えしますと、賞レースというのは、出版社がビジネスとしてやっているものなのですね。

 オリンピックなんかとは違って、公正に評価して受賞者を決めているわけではなく、だいたいが出来レースだと思ってください。

 だから、受賞する可能性は万に一つもないと思っておいた方がいいですし、選ばれなかったからといって、ダメと決まったわけではないのです」

 先生はそれからも、出版業界の内情について解説し、具体的なアドバイスをしてくださった。受賞の可能性は極めて低いが、編集者の目に留まれば本を出すチャンスはあるかもしれないこと。ただ、本を出せると言っても、出版社が費用を全て負担して本を出してくれるケースはごく僅かで、世の中のほとんどはいわゆる自費出版だということ、逆に言うと、お金さえ出せば本を出すという夢は叶えることができること、などを教えてくださった。

 「そんなに、厳しい世界なんですね」と僕は言った。それからこう続けた。

 「とりあえずは、何も期待しないで書き続けてみることにします。実は、今も、『先生との旅』というタイトルで、先日の先生のツアーの思い出を小説にしていまして、今、推敲中なのですが、完成したら、先生の『心の友』のサービスの中に、文章指導っていうのがあったので、先生に見てもらいたいと思っていたのです」

 「私は論文とかの添削ならできますが、小説は専門外なので、指導はできませんよ。小説については、むしろ森田さんの方が詳しいでしょうし。でも、読者としてなら、読んでみたいです。紀行文学はもともと好きですし、森田さんがどのようにあの旅について書かれたのか、興味がありますから」

 「それは嬉しいです。今まで、誰にも自分の小説を見せたことがないので、先生に読者として読んでもらえるとなると、気合が入ります。でも、添削してもらうつもりで、ある程度の出来になったら見ていただくつもりでしたけど、先生が読者となると、きちんと推敲してからお送りしますね」

 「ええ、楽しみにしていますよ」

 それから先生は、ご自身が御本を出されるに至った経緯を、詳しくお話ししてくださった。そして、御本が大反響を呼んだことに伴い、大学内部から激しいバッシングに遭った話なども、具体的にお聞きした。それは、ちょっと信じられないような話だった。


 予定時間をかなりオーバーして、先生のカウンセリングは終わった。僕が今までに受けてきた、どんなカウンセリングとも違った。先生は淀みなく話されてはいたが、時々、光の世界とコンタクトを取り、僕に何を話すか決めている様子が見てとれた。

 天国にいる誰かが、僕が落選のたびに落ち込む様子を気にかけ、受賞の厳しさを伝えつつも、うまく励ますよう、先生に頼んでくれたに違いなかった。

 「作品を読むのを楽しみにしていますよ」

 先生は、別れ際にもう一度そうおっしゃり、僕に手を差し出された。僕は、今回は両手でガッチリと握手をさせてもらい、カウンセリングルームを後にした。

 僕は、先生に最初の読者になってもらえるという大きな希望を胸に、光の学校を後にした。



推敲を始める


 翌朝、僕は新大阪駅のスタバにいた。壁際の席に座り、パソコンを立ち上げた。

 推敲を始める前に、先生への御礼のメールを出した。先生に最初の読者になってもらえることへの御礼と、気合を入れて推敲をすることを伝え、さらに、自分にけじめをつける意味で、7月中に作品をお送りすることを記した。


 いよいよ「万博編」の推敲が本格的に始まった。僕は、ここから三週間(後に説明するが、さらに二週間の延長戦もあり合計五週間)、推敲作業に没頭することになった。

 推敲は作品を書く上で必須であり、今までの作品も必ず推敲は行ってきた。締め切りの期限や分量にもよるのだが、だいたい少なくとも十回、多い時には二十回以上の推敲を行うのが常だった。

 だが、今回は明らかにこれまでと違う点があった。それは、先生にこの作品を読んでもらえるという事実だ。自分以外の読者を意識して推敲を行うのは初めてのことだったし、それは大きな励みになった。

 もちろん、先生から厳しいコメントが来ることは覚悟していた。

 先生はプロの文筆家であり、その世界の厳しさは十分にご存じだ。そして、出版業界の厳しさについては、カウンセリングの中でかなり詳しく説明し、諭してくださった。

 僕の作品も、先生の厳しい視線にさらされるのだ。それは少し怖いことにも思えた。もし厳しいコメントが来たとしても、「今持っている自分の力は出し切ったのだから仕方ないだろう」と、諦めがつくレベルにまでは、作品を仕上げたいと思っていた。

 推敲は概ね順調に進んだ。書き足りない部分に手を加えていくうちに、百三十枚程度だった原稿は百六十枚にまでなった。




先生へ原稿をお送りする


 三週間後の7月27日の19時過ぎに、僕はついに先生に原稿を送った。その時点での推敲回数は十九回だった。

 驚いたことに、先生からはその日の夜遅くにはご返事があった。更に驚いたことには、身に余るようなお褒めの言葉をいただいただけでなく、先生のホームページで紹介したいというオファーまでいただいた。と同時に、先生のホームページへの掲載にあたっては、修正すべき点がいくつかあることも指摘を受けた。

 予想外の展開に驚きはしたものの、僕は覚悟を決めて、ホームページへの掲載をお願いする旨の返信をし、二週間の猶予が欲しいと願い出た。


 その日から二週間、僕はそれこそ必死の思いで更なる推敲作業を行った。僕が更に十回の推敲を行った原稿を、先生が敏腕編集者の視点でホームページ掲載のスタイルに改編してくださり、それを僕が公開前のホームページ上で確認し、最終の微修正を加えたものが、2025年8月11日の17時30分に公開された最終版ということになる。

 自分の書いた文章が、先生のホームページで紹介される。しかも、先生の温かいコメント付きだ。こんなに嬉しいことはないし、どこか信じられないという気持ちもあった。


 五週間にわたり推敲を繰り返してきたわけだが、当然ながら、一日中ずっと推敲を行っていたわけではなかった。平日は毎日会社に行き、朝から晩まで会社での仕事をしていたからだ。

 推敲とは対照的に、会社での仕事に大きな進展はなかった。

 自分がリーダーに立候補して始めたプロジェクトは、それなりの結果を生み出せてはいたが、なかなか思ったほどの進捗は得られなかった。もっとこのプロジェクトだけに時間を割きたいと思っても、会社という場所には、自分にとってはどうでも良いと思われるような仕事がいくらでもある。そういった仕事をしながらのプロジェクト推進になるので、やりたい仕事に全精力を注ぐことができないもどかしさがあった。

 この状況を誰かに相談したいと思っても、気軽に相談できる相手もいなかった。シローさんに相談してみたい気もしたが、なかなか込み入った話をするような機会はなかった。そもそもこのプロジェクトは、僕の本来業務ではないし、会社のオフィシャルな仕事とも言えなかった。そんな中途半端な仕事の相談をしてみたところで、された相手も何と答えれば良いかわからないだろう。

 僕は結局のところ、会社では全てが中途半端だった。

 ただ一つだけ、目の前の困っている人を助けたいという気持ちは、消えることがなかった。たとえ多少、嫌な出来事があったとしても、目の前の人を助けるという思いを新たにすると、その瞬間に迷いは消え、先生のお姿が目に浮かんだ。僕も、先生のように人助けをするのだ。その思いが、僕の支えになっていた。


 そしてもう一つ、小説世界があるということも大きかった。毎日、小説を書く。あるいは推敲をする。その間は、誰にも邪魔されることのない、自分だけの世界に入ることができる。平日は一日一時間程度に過ぎない。忙しいときだと三十分ほどしか時間が取れない日もある。それでも、毎日確かに小説世界の扉を開け、その世界に入ることは、自分の大きな助けになっていた。

 更に今回、先生が予想外の機会を与えてくださり、先生のホームページ上に、自分の書いたものを載せてもらうことになった。

 実際にどのくらいの方が自分の文章を読んでくださるのかわからなかったが、自分の全く知らない誰かに読まれる前提で推敲を行い、それが実際に公開された。それは純粋に嬉しかったし、自分にとっては大きな一歩だと思った。


 ホームページ上に「先生との旅」が公開されると、先生のところには、何通かその感想が届いたようだった。先生は、その中の三通を転送してくださった。どの方も、僕の書いた文章を褒めてくださっていた。どの方も一気に読んでしまったと書かれており、先生の言動に興味があるのは僕だけではないことがよくわかった。

 驚いたのは、読みながら色々なことを考えた様子がうかがい知れたことだ。僕の書いた文章を自分に置き換えて、様々な思いを巡らせてくださったようだった。中には、僕が書いている時には考えもしなかったような、鋭い考察をされている方もいた。

 自分の書いた文章が、誰かに届いたことは嬉しかったし、自分のやってきたことが間違っていなかったという、小さいけれど確かな手ごたえを得た。

 ただ、これは、自分の力で成し遂げたことかと言われると、それは違うと思った。まずなにより、先生のお力が大きい。先生がご自身のホームページで紹介してくださることがなければ、誰かが僕の文章を読んでくださることはあり得なかった。

 更に、実際に読んでくださった方が、僕の書いた文章から、僕自身よりもずっと深い、様々な考察をしてくださったのは、読んでいるご本人の力であり、それを引き出したのは、文字で書かれた言葉や文章が持つ、言葉や文章そのものの力である気がした。

 文字で書かれた言葉には、時間と空間を超えて、見ず知らずの人同士をつなげ、共鳴させるような力があるのだと思う。それはあるいは、文学の力といっても良いのかもしれない。




先生のセミナー参加を申し込む


 8月18日、「心の友」のセミナーの申し込みが開始された。

 毎年秋に開催されている、会員向けのセミナーだ。僕は、今までは東京会場で参加していたが、今回は迷わず京都会場への参加を申し込んだ。京都会場なら、セミナーの後に先生のミニコンサートが行われることに気がついたからだ。

 先生の音楽療法は何年ぶりだろう?

 少し考えて、最後にコンサートに参加してから、もう十年近く経とうとしていることに思い当たった。僕が最後に参加した先生のコンサートは、2016年3月26日、六本木で行われた伝説的なイベントだった。

 当時の記憶が少しずつ、よみがえる。2016年春、その頃、僕は台湾に住んでいた。任期三年で赴任した台湾の首都、台北への駐在が残り半年となり、駐在生活のラストスパートをかけ始めていた頃だ。

 この頃、僕はだいたい週末になると、飲み仲間と夜の街に繰り出すことが多かった。

 しかし、その年の3月最後の金曜日は飲み屋へは行かず、家に帰ってもお酒は一滴も口にせずに寝床についたのを覚えている。翌日の日本行き、先生の音楽療法イベントの参加に備えて体調を万全に整えておきたいとの思いからだった。

 そういえば、当時、あのコンサートのことも記録を残していたはずだ。久しぶりに当時の記録を読んでみることにした。

 クラウドに保存されていたメモには、こんなことが書かれていた。




2016年3月26日 六本木コンサートの記録


 26日の朝、僕は、予定よりずっと早く目を覚ました。もう少したっぷり睡眠を取っておきたかったが、興奮しているのだろう。遠足の朝に早く目を覚ます小学生と同じ状態に陥っていた。

 心配していたフライトの遅れもなく、昼過ぎには羽田に着いた。このまま六本木に直行すると、だいぶ時間を持て余すことになるが、それでも寄り道をせずに会場近くまで行くことにした。

 スタバで時間を潰し、開場の時間を待つ。徐々に心臓が高鳴っていった。



 開場の三十分前にはスタバを出て、入場待ちの列に並んだ。開場時間の少し前に「友の会」の優先入場が開始され、建物の中に入った。

 配られたパンフレットを見ながら、ホール内の入り口の前に並んだ。パンフレットには先生の詳しい曲紹介が書かれている。解説にざっと目を通し、今回の演目が七曲であることを確認した。

 僕の記憶が正しければ、先生がこれまでに発表された曲は全部で十五曲だ。ということは、約半分の八曲が今回は落選ということになる。それがどの曲なのか、考えてみた。頭の中で六曲まで数えたところで、入り口の扉が開かれた。


 会場は自由席だった。早い者勝ちで、好きな座席に座ることができる。僕は迷わず、ピアノのある左側の座席を選んだ。先生の専属ピアニスト、MAさんの演奏をできるだけ近くで味わいたいという思いがあったからだ。MAさんのピアノ演奏はCDなどでは何度も聴いてはいたが、ライブ演奏を聴くのは初めてだった。MAさんのピアノも今回の楽しみの一つだった。

 前から三列目の座席に着くと、僕は先生の解説を熟読した。その中で『いつまでも、いつでも一緒』の解説に目が留まった。この曲の演奏中に、中世の教会で音楽を奏でる姿が見えた、との記述があったからだ。そして、是非、中世の教会をイメージしながら歌ってみて欲しい、と書かれていた。

 先生は、過去の著作の中でも、今回とほぼ同じ話を書かれていた。過去の著作では、一度そのようなイメージが見えたことがあった、というニュアンスだったが、今回は、歌うたびに同じイメージが見える、という表現に変わっていた。

 先生がご自分の過去生の記憶のような話をされるのは、とても珍しいことだった。それを、場所を変えて二回もされるとは、相当強力な体験なのだろうと思った。

 この曲は、過去に何度も歌ったことがあったが、中世の教会をイメージしながら歌ったことはなかった。今日は先生の言われるように、中世の教会、以前、自分自身も訪れたことのあるイタリア中部の宗教都市にあった、素朴な石造りの教会をイメージしながら歌ってみようと心に決めた。


コンサート開始 一曲目『逢いたい』


 17時40分、会場が暗くなり、専属ピアニストの女性、MAさんが奏でるピアノの旋律が流れ始めた。聞き覚えのあるクラシックのピアノ曲だ。

 MAさんのドレスが光に照らされ輝いている。まるで天使みたいな輝きだな、などと考えながら、僕はピアノの音色に身を委ね、ゆっくりと目を閉じた。その瞬間に、懐かしい感覚がよみがえる。胸のあたりが温かくなり、それが喉を通って頭部へと広がる。目頭が熱くなり、自然と涙が溢れた。僕はあっという間に光の世界につながった。まさか先生の登場前にこんなことになるとは、思いもよらなかった。

 だが、同じような状態になったのは、僕だけではないことがわかった。あちらこちらから、すすり泣くような声が聞こえてきたからだ。

 いつの間にか先生が舞台にいて、歌い始める。先生の歌声とギターの音色。目を閉じたまま、光の世界とのつながり感に身を委ねた。

 先生の声に、時々うっすらと女性のような高い声が混じる。倍音?……先生が特殊な歌い方をされているのだろうか?

 このような声は、以前のコンサートでも聞こえたことがある。先生のCDをヘッドホンでじっくり聴いた時にも、聞こえることがある。

 だが今日は、今までと比べて、よりはっきりと聞こえるようだ。

 ギターの柔らかい音色。ベースが寄り添うように加わる。今日のギターは低音がよく響く。先生は、何か特殊な弾き方をなさっているのだろうか? 目を開けて見ると、いつの間にか、もう一人の男性が演奏に加わっていたことに気づいた。低音は、今回のゲスト奏者、CBさんの奏でるコントラバスだった。ギターでこんなに低い音は出せない。当たり前だ。

 そこにピアノ伴奏も加わり、トリオが完成した。そのまま曲はクライマックスを迎える。

 「信じる」という歌詞の繰り返し。先生の歌声、ギター、ピアノ、コントラバス。これらが僕の心を開き、光の世界へと誘う。


 一方で歌の歌詞は、僕の心の別の部分を揺さぶる。僕は、ある人を信じたいと思っても、信じられない自分がいたことを思い出す。「その人を信じたい」という自分と、「いいように利用されているだけかもしれない」と、注意を促すもう一人の自分。曲を聴いているうちに、信じたい気持ちが大きくなる。それが、「信じたい」から、「信じよう!」という決心に変わる。このような心の葛藤を体験させてくれたことに対する、相手への感謝のような気持ちも、自然と湧き上がってくる。

 心地よい涙を流しながら、信じる勇気に満たされた状態で、一曲目は終わった。


二曲目『いつもそばにいるよ』


  『いつもそばにいるよ』では、ピアノとコントラバスのお二人が一旦退場され、先生のソロでの、ギターの弾き語りに変わる。

 先生が「奇妙なラヴソング」かつ「壮大なラヴソング」と表現なさる曲だ。


三曲目『いつまでも、いつでも一緒』


  『いつまでも、いつでも一緒』は、何度も聴き、何度も歌ったことのある、初期の名曲。今回は、先生の勧めに従い、教会をイメージしながら歌ってみることにする。教会をイメージしながら歌うのは初めてだ。

 この歌も先生の弾き語りで進む。歌に合わせて教会をイメージしてみる。イタリア中部の宗教都市にある、小さな石の教会を思い描く。

 教会と田園風景。その中に小さな少年だった自分がいた。幼なじみの女の子も一緒だ。

 教会から聞こえてくる歌声に耳を澄ます。自分も一緒に歌ってみる。

 幼なじみの女の子のことを愛している。彼女も僕のことを愛していることがわかっている。だが、彼女は、どこか遠くへ行ってしまった。誰か好きではない男のところへ、連れていかれたようだ。

 胸に引き裂かれるような痛みが走る。


 そんなイメージを、不思議な感覚で眺めている時、先生が歌いながら涙ぐまれる。

 先生もまた、教会のビジョンを見て、涙ぐまれているのだろうか? そんなことを、ぼんやり思った次の瞬間、強烈な感覚に襲われた。

 当時の自分の切ない気持ちと、今の自分の苦しみが、一つに重なり合うような感覚。当時の自分と今の自分が、時空を超えて重なり合い、お互いを励まし合うような感覚。

 今も昔も、つながっているんだ。今も昔も、自分はずっと、一生懸命頑張ってきたんだ。

 そう思えた時、涙を抑えきれなくなった。声を出さないように、肩を震わせながら泣いた。

 この曲は、今まで何度も聴き、何度も歌っている。しかし、今回は、今までと全く違う、特別な体験になった。

 この曲でも、女性のような高い声がずっと聞こえていた。それが、一段と大きくなった瞬間があった。女性というより、子供の声のようだ。今までと違い、はっきり聞こえる。

 びっくりして、ステージを見る。子供の姿はステージにはない。先生が少し慌てたように見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか。その瞬間、子供の声はふっと消えた。

 あれは多分、光の存在となった、どなたかのお子さんの仕業なのだろうと思う。会場にいるお母様を励ますために、おちゃめなイタズラをしたのだろう。イタズラ好きな可愛い男の子だったのかもしれない。お母様にもきっと思いが届いたことだろう。


フランツ・リスト『愛の夢』のピアノ演奏


 この曲の原題は『おお、愛し得る限り幸せ』。愛せるだけで幸せなのだ。たとえ片思いだったとしても、直接会うことができなくても、愛せるだけで幸せだという、とてもロマンチックな歌だ。先生はそう解説をされた後、一旦、退場された。

 MAさんのピアノ演奏が始まる。先生の言葉を噛み締めながら聴く。


四曲目『私に起きている奇跡』


 先生が再び登場。土方歳三に変装されている。

 この曲は、つい一か月前に公開された新曲だった。発表以来、何度となく繰り返し聴いた。生で聴くのはもちろん初めてだが、初めてという感じがしない。聞き慣れた前奏が始まり、あっという間に引き込まれる。

 この曲を聴きながら、台北で過ごした、この一か月が頭を駆け巡る。街の風景、描いた思い、大切な人たちの顔。自分にも奇跡が起きている。

 夢に向かって進もう! 小説を書こう!


クラシック曲の演奏とコントラバス講座


 ピアノとコントラバスのデュオによる、サン・サーンス『白鳥』の演奏。その後、ステージが明るくなり、コントラバス講座を中心とした楽しい舞台が始まる。

 ここは、おそらく普通のコンサートなら(宝塚などの舞台でも)、休憩時間となるところだが、先生は敢えてそれをなさらなかった。

 楽しい舞台を挟むことで、エキサイトした状態をクールダウンさせる。だが、会場は閉じられたままなので、今までに作りあげた濃密な空気はそのまま残っている。光の世界とのつながりも途切れない。

 非常に良い状態で、後半の合唱タイムへと、突入できるようになっていた。


五曲目『私の幸せ』

六曲目『ツインソウル』

七曲目『歩き続ける』


 合唱タイムでは、先生の名曲が次々と演奏された。一番を先生が歌われ、二番から合唱をするスタイルが基本なのだが、先生の歌声に耳を澄ましていると、あっという間に光とのつながり感に満たされ涙が溢れる。二番の合唱部分がスタートしても涙が止まらず、なかなか歌うことができない。曲の後半になって、何とか立ち直り、声を絞り出す。歌詞カードの上にこぼれる涙を落としながら歌った。

 ただ、『ツインソウル』の合唱部分では、自然と大きな声が出た。男性だけの部分では、かなり頑張った。会場の真ん中あたりに、声の大きな男性(関西方面のコンサート録音で、いつも活躍されている方だと思う)がいて心強い。この方がどなたなのか、公演終了後に、声のした方向の座席を見てみたが、該当者を特定することはできなかった。


アンコール曲『私に起きている奇跡』の合唱


 アンコールの話は、事前にメールで先生からこっそり教えてもらっていたにもかかわらず、すっかり忘れていて、もう一曲歌えること、新曲を歌えることを大喜びした。

 この頃には、例の高い声も一段と大きくなり、会場全体に光の存在の気配が満ち満ちていた。かなり高次の存在(先生が脳出血で倒れられた際にお会いしたという、桃色をした光など)もいらっしゃっていたように感じた。

 ステージの上の方から、そういった高次の存在が我々を見下ろして、優しく微笑みながら愛を送ってくれているような感じを、リアルな感覚として受け取った。

 だから、「ああ神様 私に力をください」の歌詞のところでは、自然とステージの上の方を見上げるようにして歌っていた。

 最後は、光の世界につながるというより、会場全体が、光の世界にすっぽり包まれていた。会場全体が宇宙船となって、光の世界へ浮かんでいるように感じた。




握手会


 コンサートの後、握手会の列に並ぶ。トイレに行ってから並ぶと、もう六十人以上の長い列になっていた。僕の後にも同じくらいの列ができていたので、全部で百五十名くらいは並んだ計算だろうか。遅い時間にもかかわらず、四割近い方が握手会に残ったようだ。

 長い列だったが、一人十秒の原則通り進んでいく。ルールを守る方が多いのか、先生のさばきがうまいのか。

 それにしても、三時間近いコンサートの後に握手会。参加した我々も、全力を出しきり心地よい疲労感があるくらいだから、先生の疲労度は相当なものであったと思う。いつもながら、先生の献身ぶりには恐れ入る。

 「こんばんは、森田です。台湾から来ました。最高でした」と話をさせていただき、握手をしてもらった。

 先生は、放心状態のような感じだった。



コンサート終了後の感想


 先生の音楽療法の特徴を改めて整理すると、「光の世界との深いつながり感」が得られるということに尽きる。胸の奥底から温かいものが溢れ出し、包まれていくような感覚。その結果、自然と涙が溢れ出す。心が完全に開かれた状態になり、様々な不思議な体験も伴う。

 一番わかりやすい不思議体験は、天使の歌声が聞こえることだ。先生の歌声に寄り添う形で、高音の女性のような声が聞こえてくる現象が頻繁に起きる。

 もう一つは、自分の感情が激しく揺れ動く、ということ。過去や直近の出来事が、リアルな感情を持って突然よみがえり、涙が溢れ出る。時には号泣してしまうこともある。だが、それは嫌な涙ではない。自分を励まし鼓舞するような、癒しに満ちた涙だ。

 ここまでは、僕がこれまでも先生のコンサートで、何度となく、経験していたことだった。


 だが、今回はもう一つ不思議な経験をした。過去生と思われる、遠い昔のビジョンが、はっきりと見えたのだ。幼なじみの女の子と二人で、教会から流れてくる歌声に耳を傾けている時の、満たされた気持ち。お互いに愛し合いながら、離れ離れになってしまった時の、心が張り裂かれるような痛み。その時の様子が、リアルな感情を伴って、はっきりと見えた。

 そのビジョンは、『いつまでも、いつでも一緒』を歌っている時に現れた。そこで現れた女の子は、その後もコンサートの間に何度も現れた。

 その女の子のイメージは、はっきりとしている。真っ直ぐ伸びた黒い髪。瞳の色も黒。瞳の奥の輝きが特徴的だ。性格は内向的で、何事もじっくり考えてから実行に移すような慎重な性格。しかし、時には、直感に従って行動する大胆さも持っている。

 だが、これが誰なのか全く思い当たらなかった。




再び2025年8月18日


 十年ぶりに、当時書かれたコンサートの記録を読んでみた。実に興味深いことが書かれている。

 一番、驚いたのは、「小説を書こう!」とはっきり書かれていたことだ。それだけはっきりと書きながら、この後も僕は、小説を書き始めてはやめるということを繰り返すだけだった。

 夢に向かって歩きだすということ。その最初の一歩を踏み出す勇気を持てなかった。

 本当に決心を固めて、本気で小説を書き始めるまで、それから六年半もの時間を要した。身近な人の死がきっかけだった。姉が天国から僕の背中を押してくれなかったら、今も僕は書き始めないままだったかもしれない。




8月後半から9月前半


 8月も後半に入ると、僕の会社での仕事は、ますます忙しくなった。下期に向けた予算の見直し作業や、新しく入社する方々の受け入れ準備。様々な仕事が舞い込んできた。

 そんな中でも、何とか時間を割き、同僚を助ける特別プロジェクトも前に進めた。その仕事だけが、会社での僕の救いだった。

 8月も終わりに近づいたある日の日記に、このように記した。

 人を助けるということ。誰か困っている人の仕事を、直接的に手伝うということ。宮崎さんの仕事を、今日、手伝うことができた。彼は申し訳なさそうに、書類作成を頼んできてくれた。嬉しかった。少しだけ、頼りにされ始めているのだ。微力とは言え、直接的に人の力になれたということ。それがただ嬉しい。

 手伝ったことは書類を作るという、地味な作業に過ぎない。おまえのやるべきことは、もっと他にあるだろう。担当者の作業を手伝うなんて、おまえのやるべきことではない。そういうお叱りの声が、どこかから聞こえてきそうだ。

 だけれど、僕には、まだ、はっきりと見えている。目の前の御方を、献身的に救おうとする、先生のお姿が。

 僕もこれでいいのだ。今はそう強く思える。むしろこれでこそいいのだ。僕は、先生のお姿を思い出しながら、そう強く思った。

 心の底から、力が湧いてくる感覚があった。


 9月に入り、会社での仕事の忙しさは、更に一段と増した。中途の社員が複数名入り、その方たちのお世話をしなくてはならない。それと共に、宮崎さん支援の特別プロジェクトも佳境を迎えた。

 6月に、この特別プロジェクトを開始した時の構想は、9月から人を入れて、その方に、宮崎さんの仕事の一部を引き継いでもらう計画だった。今までは、その前準備のようなものだった。

 宮崎さんを支援する傍らで採用活動も進め、9月に入社してもらったのが向井さんだった。向井さんは、年齢こそ宮崎さんより少し若いものの、過去の経験やスキルは申し分のない女性だった。向井さんに基礎教育をした後、宮崎さんの仕事を徐々に引き継いでもらう、ここからが本番だった。

 構想上は、ごく自然な発想だったが、引き継ぎがうまくいく保証はなかった。宮崎さんの仕事を引き継ぐ話は、過去にも何度も試みられて、ことごとく失敗していたからだ。

 宮崎さん自身が、目先の仕事に追われていて、他人を教えている余裕がないこと。また、彼は他人に頼まれれば、どんな仕事でも文句を言わずに引き受ける一方、他の人に仕事を渡すのは極端なまでに苦手なようだった。

 誰かが間に深く入り込んで引き継ぎの仲立ちをしない限り、過去と同じ失敗が繰り返されることは目に見えていた。その役目を自ら担おうというのが、僕がこのプロジェクトを立ち上げた当初から考えていたことだった。この仕事は自分にしかできない。その本番がいよいよやってきたのだ。

 入社した向井さんの教育は順調に進んだが、宮崎さんがすんなりと仕事を渡してくれるかどうかは、全くわからなかった。宮崎さんは、深層心理で自分が仕事を失うことへの恐怖心のようなものを持っているようにも思えた。実際に、僕が宮崎さんに対して、向井さんへの引き継ぎを匂わせ始めると、彼は少しずつ不機嫌な様子を見せるようになった。


 僕は、朝7時前に会社に行き、夜は19時過ぎに会社を出るのを、標準的な勤務時間に定め、本来業務の合間を縫って、宮崎さんのサポート時間を確保した。それに加えて通勤にも片道一時間半近くかかるため、小説の執筆時間は一日三十分程度しか確保できなくなった。

 それでも、執筆は毎日続けた。たとえ短時間であっても、僕の本業は小説を書くことにある。小説を書くことを通して、自分を表現すること。それが自分の残りの人生をかけて、やるべきことだった。

 会社での仕事は、そのための学びの場だった。それはそれで全力を尽くすのだが、本業を疎かにしてはならない。僕は会社での仕事がどんなに忙しくても、決して小説を書くことはやめないと固く誓っていたし、それが僕の心の支えになっていた。

 会社にいる時間をできるだけ増やして、二人の引き継ぎの準備を進めたが、うまくいく自信の持てないまま、時間が過ぎていった。あっという間に二週間が過ぎ、気がつくと、先生の会員向けセミナーが目前に迫っていた。




先生のセミナーで、三度目の京都へ


 9月13日、僕は再び京都行きの新幹線に乗った。先生のセミナーに参加するためだ。朝6時過ぎに家を出て、新幹線乗車の四十分前に東京駅に着いた。あまり時間はないが、短時間でも小説の執筆はしたい。やはりスタバに行こう。

 改札を抜け、スタバに向かう。地下通路を歩いている時に、突然、『いつまでも、いつでも一緒』のメロディーが口をついて出た。

 「ああ、あなたに、見せたいものがある」

 何度も繰り返し歌ったことのある、歌詞とメロディーを口ずさみながら、僕はふと、これから向かう京都の、光の学校で、新たな出会いがあるだろう、と思った。

 それは、確信に近い気持ちだった。と同時に、それは、自分が正しい方向に向かっているということを表しているのだ、とも思った。

 気持ちが静かに高ぶるのを感じながら、僕はスタバのドアをくぐった。


 午前8時発ののぞみ号、三連休初日朝の新幹線は満席だった。家族連れ、カップルや友人同士、泊まり支度の荷物を抱えた乗客が大半を占めている。これから旅行に向かう人たちの様子はみんな楽しげで、僕はそれを見ているだけでも明るい気持ちになった。

 この日はセミナーとミニコンサートを聴くだけという気楽さもあり、僕はリラックスして過ごすことができた。小説の続きを五枚ほど書き、あとは車内の様子をメモしたりして過ごした。




光の学校近くを散策


 烏丸線烏丸御池の駅に着いたのは、10時30分過ぎだった。講演会の開始までには、まだ三時間近くある。どこかで昼食を食べること以外に、やるべきことはない。とりあえず駅地下のスタバに入ってみた。

 そのスタバは、それほど混んではいなかった。壁際の、背もたれのしっかりした座席を確保することができた。これなら、ゆったりと過ごすことができそうだ。

 ミニコンサートの予習を兼ねて、先生のお歌を聴くことにする。

 ヘッドセットをつけて、スマホの再生ボタンを押す。『私に起きている奇跡』が流れてきた。途中から天使の歌声が聞こえてくる。うっすらと、だが、確かに聞こえる。

 この音源は、いつも聴いている、六本木で行われたコンサートのライブ録音だ。今までも、何度となく聴いてきた同じ音源なのに、天使の歌声が聞こえたことはなかった。

 今日、突然、天使の歌声が聞こえたのは、やはりここが京都、光の学校のすぐそばだからなのだろう。

 やはり、京都、先生のできるだけ近くに来ることには、意味があるのだ。


 スタバを11時30分過ぎに出て、隣にある書店に立ち寄った。

 書店の品揃えを見て歩くのも、僕の好きなことの一つだ。自分好みの本がひっそりと本棚に置かれているのを見つけると嬉しくなるし、その店ならではの個性のようなものを見つけると、書店員さんの人柄が何となく感じられるのも楽しい。

 その本屋は、小さめの大型店、大きめの中型店、といった規模で、雑誌や新刊、文庫、新書、学習参考書といった売れ筋商品以外にも、専門書も様々な分野を幅広く網羅した作りになっていた。

 この規模の本屋は、幅広いジャンルをカバーする分、逆に特徴を出しづらい面があると常々思っていたが、この店は、入ってすぐの目立つ場所に芸術関係のコーナーが設けられているという大きな特徴があった。

 また、ジャンルを問わず、地元ゆかりの本が多く並べられていたし、店内で聞こえてきた子供たちや親子の会話に地元言葉が聞き取れたのも、この本屋が地元に根付いている感じがして嬉しくなった。

 文芸書のコーナーも、じっくり見てみた。ア行から順番に、多くの作家の本が並んでいた。僕の好きな、流行遅れの作家の名前は見当たらなかった。僕の知らない作家の本が、数多く並んでいるような気がした。地元ゆかりの作家の方の本が多く置かれているからなのか。あるいは、関東と関西では文芸書の好みや売れ筋の作家が異なるようなところも、あるのかもしれない。

 それにしても、世の中では、実に多くの本が出版されていることがわかる。そして、次々と消えていく。これだけ多くの本があるのに、自分の書いた小説は、本という形では、この世に存在しない。それどころか、文学賞の一次予選すら通過しない。僕が自分の本職は小説家だと思っているのは、全くの独りよがりに過ぎないのだ。その当たり前の事実に改めて気づいて、今さらながら、悲しい気持ちになった。


 嫌な気持ちを払拭するには、美味しい物を食べるに限る。近くの寿司屋に入り、天ぷらそばとにぎりのランチセットを注文した。次々と訪れるお客さんの様子を観察しながら、お寿司とお蕎麦を食べる。12時30分前には寿司屋を出た。

 店を出てすぐに、店員さんが追いかけてきた。帽子を忘れていたというのだ。その帽子は7月に京都を訪れた時には、新幹線車内に忘れたものだった。その時はJRと警察に届け出をすることで、取り戻すことができた。

 今回は絶対に忘れないようにしようと、気をつけていたはずなのに、また忘れてしまった。帽子を二回も忘れる。これは、何かのサインかもしれないと思った。

 そこから三十分かけて、三条通りの商店街を、じっくりと観察しながら歩いた。どのお店も個性的で興味が尽きない。新しいお店と歴史あるお店、高級店や国際的なチェーン店と庶民的な個人商店。様々なお店が混在していて、しかも賑わいを見せている。人通りも混みすぎず、少なすぎずで、程よい感じだ。寺町通りの交差点とその周辺のアーケードまでの間で、ウインドウショッピングを楽しんだ。

 このあたりを先生に案内してもらったら、とても楽しいだろうな、などと考えているうちに、受付開始の13時が過ぎていた。僕は、光の学校の建物まで戻り、三階へと進んだ。




二か月ぶりの光の学校


 扉を開けると、もう顔馴染みになったスタッフの皆さんが出迎えてくださった。受付を済ませると、次々と先生のホームページで公開してもらった小説の感想を言ってくださる。特にMさんは、「もう何回も読みました」とおっしゃってくださった。これにはさすがに驚いた。一度ならず、何度もお読みくださる方がいるとは、全く予想もしていなかった。

 メインホールに入ると、入ってすぐの後ろの方の列に、万博ツアーでご一緒した関西弁のおじさんが、奥様と並んで座っているのが見えた。万博編の中でワンシーンだけ登場してもらった、KBさんである。

 KBさんは、万博ツアーにもお二人で参加され、いつも奥様とご一緒だった。今日も仲良く、お二人並んで座っていらっしゃる。おじさんの手前の席が空いていたので「ここの席に座ってよろしいでしょうか?」と声をかけると、「どうぞ」と言っていただき、お隣に座らせてもらうことにした。

 KBさんは、僕が隣に座っても、それ以上僕に話しかけることもなく、反対側に座った奥様と、楽しそうに談笑を続けられていた。小説のことを何か言われるかと思っていたが、何も言われずほっとした。小説を読んでいないのかもしれない。一緒にツアーに参加された方には、すぐにバレてしまうだろうと思っていたのだが、案外気づかれないのだ。これには一安心した。


 僕は、座席に腰を下ろす前に、サッとホール内を見渡した。開場直後だったが、すでに六、七名の方が、思い思いの場所に座っていらっしゃった。その中で、最前列の一番奥に座った女性の後ろ姿には見覚えがあった。

 ツアーでご一緒だった、車椅子の女性だ。今日は娘さんの姿はないから、お一人で参加されたのだろうか? などと思いかけてから、車椅子の女性は既に天国へ旅立たれたことを思い出した。他人の空似だろうと思い直して、座席に座った。


 座席に腰掛けるとすぐに、僕はペンとノートを取り出した。ここに至るまでの行程について、記録を残すためだ。あまりこまめにメモを取ると、僕が小説の作者だとバレてしまう心配もあったが、意外とバレないことが、KBさんの態度からもわかった。僕は安心してペンを走らせた。

 奥の座席で、高齢の女性と中年の男性がお話されているのが聞こえてきた。「アメリカは、どちらにお住まいだったのですか?」と男性が尋ねると、女性が「クリーブランドです」と応える。「それは、シカゴからも結構近いですね」などと男性が応じる。懐かしい地名が聞こえてきて、びっくりした。アメリカに縁のある方が、僕以外にもいらっしゃるのだ。

 そんなことを考えながら、僕はペンを走らせ、旅の行程、三条通りで見たお店の様子などをメモにまとめた。


 KBさん夫妻がトイレに立ち、僕も一通りメモを取り終えて、一人でぽつんと座っているところへ、前列に座っていた女性が近づき、僕に向かって話しかけてきた。

 「あの、『先生との旅』の小説を書かれた方ですよね?」

 僕は慌てて立ち上がり「ええ、そうです」と答えた。

 「実は、あの小説を読ませていただいて、自分がずっと思っていたことを、はっきりと言葉にして書かれていたので、とても嬉しかったんです。それで、どうしても、直接会ってお話ししたいと思っていたんです」

 「それは、ありがとうございます」

 「今日は、東京に戻らなくてはならないですよね。この後、少しだけでも、どこかでお話することはできませんでしょうか?」

 「帰りの新幹線は余裕をもって予約したので、時間はあると思います。私も是非お話をお聞きしたいです」と答えた。目の前の女性が、僕の文章のどこに共感してくださったのか興味があった。

 「それはありがたいです。まさか、こんなにすぐにお会いできるとは、思っていませんでしたから。思い切ってお声掛けして、良かったです」とおっしゃる。

 「ツアーでご一緒していたのでしたっけ?」

 「いいえ、私は平日の会に参加したので、一緒ではありませんでした」

 「では、どうして、私が小説の作者だとわかったのでしょうか?」

 「それは......」とご婦人は少し慌てたようにされてから、

 「ノートとペンを持っていらっしゃったから、間違いないと思いました」とおっしゃった。

 そうなのか。やはり、ノートとペンを持っているだけで、バレてしまうのだ。僕は自分の存在が簡単に見破られてしまったことと、全く見ず知らずの目の前のご婦人が、僕の書いた小説を、とても熱心に読んでくださったのだということを知り、ちょっとした衝撃を受けた。

 「あの、お名前をお聞きしても、よろしいでしょうか?」

 「ああ、申し遅れました。Yと申します」

 「Yさんですか、私は、本名はXXと申します」

 お互いの挨拶を済ませると、ご婦人は「では後ほど」と言ってから、自分の座席に戻っていかれた。女性が座ったのは、最前列の一番奥。つまり、僕が先程、後ろ姿を車椅子の女性と見間違えた女性だった。


 開始時間が近づくと、座席は徐々に埋まってきた。僕の一つ前の列に座った女性が後ろを振り返って、KBさんに話しかける。

 「ねえKBさん、小説に出てきた関西弁のおじさんって、KBさんのことじゃないの? 他に関西弁のおじさんっていないもの」と女性。KBさんは、イエスともノーとも答えない。

 僕は、「正解です!」というべきなのか、聞こえないふりをすべきなのか迷ったが、何も言わずに俯いた。そっとノートを膝の上に隠した。

 KBさんは、万博編では関西弁のおじさんという名前で一瞬しか登場しないのに、それが誰なのか言い当てるとは、斜め前に座った女性も、随分と丁寧にお読みくださったに違いあるまい。

 僕は「あの小説を書いたのは僕です」と懺悔してしまいたいような、このまま小さくなって隠れてしまいたいような、どうして良いかわからない気持ちになった。目を閉じて深呼吸をして、心を落ち着けるように努めた。

 KBさんから何も言われず油断したが、やはり読者の方が数多くいらっしゃるのだ。KBさんも単に、僕に気遣って、知らないフリをしてくださっただけだったことが、後々わかった。




先生登場


 なんとか心の落ち着きを取り戻した頃に、いよいよ先生が登場した。

 拍手に迎えられた先生は、ステージ中央には向かわず、向かって左手にある、ピアノの前に座った。姿勢を整えて、鍵盤の上に手を下ろす。グッと集中される様子がうかがえた。

 先生はピアノも弾かれるのか。全く知らなかった。先生が過去のコンサートで、ピアノを演奏されていた記憶はなかった。もしかしたら、今日が初演ということになるのかもしれない。

 喜びかけた瞬間に、先生が立ち上がり、「冗談ですよ」と言って、今度こそステージ中央に向かって歩き出した。

 「私は、ピアノは弾けません。特に、今日はプロのピアニストの方もいらしていますから、冗談でも、ピアノを弾くなんてことはできません」

 先生はそう、さりげなく前振りをしてから、中央の講演台の前に座った。


 今度こそ、講演会のスタートかと思ったが、先生はギターを手にされ、ミニコンサートを講演会の前後に分けて行うことを告げた。

 『アメージンググレース』から『生まれてきて良かった』『私に起きている奇跡』『君を守りたい』をメドレーのような形で、連続で演奏された。

 光の世界につながる感覚があり、目頭が熱くなった。天使の歌声のコーラス参加はなかったが、この日は男性コーラスが参加した。

 女性や子供の声が重なることは、これまでにも度々あったが、男性コーラスが聞こえてきたのは初めてだった。天井の高い位置から、うっすらと重なる男性コーラスは、若い男性の声のように聞こえた。九年半前に六本木でコーラス参加していた小さな男の子が、今日も来てくれているのだとしたら、ちょうど、青春真っ只中の年ごろで、こんな声になっているのかもしれない。

 前半のコンサートは、十五分か二十分ほどだったのだろうか? 先生は、メドレーで途切れなく、四曲を歌った後、そのまま休む間もなく、講演会に突入した。




先生の講演会


 この日の「心の友」向け講演会は、通算七回目、第一回のテーマをマニア向けにバージョンアップさせた内容であるということが、事前に告知されていた。

 冒頭で「今日はマニア向けの話をしますから、録画や録音は禁止します。メモも取らないでください」と、お話があった。録画録音が禁止というのはいつものことだが、メモも禁止というのは初めてな気がした。僕は、それを聞いて少しほっとした。

 あまり熱心にメモを取ると、自分の存在がバレるかもしれないと思ったし、メモを取るなら取るで、かなり気合を入れないとならないからだ。九十分の講義となると、前回の旅のメモとは全く違う。メモを諦めて、聴くことに集中した方が良いに決まっている。


 先生のお話は、自身の生い立ちから始まり、初めて本を出されるまでの経緯、出された後の周囲の反応、大学教授を辞めて光の学校を開くにまで及んだ。

 御本の解説だから、大筋は本を読んだことのある人なら知っている話だ。それでも、先生のお話は、全く聞き飽きることがなかった。所々で、今まで公開したことのない新情報が含まれていたし、過去の思い出にまつわる、貴重な現物、先生が小学生時代に作った石像とコナン・ドイルの伝記も登場したりして、驚きの連続だった。

 それに加えて、たとえ同じ話をされる場合でも、会場の一人一人に届くように、さりげなく、言い回しや表現方法を変えておられるようだった。

 例えば、僕の小説(万博編)のラストシーンを思わせるような、歴史上の人物の名前をさりげなく話に織り交ぜてくださる一場面があり、僕はすっかり嬉しくなった。

 こうしたさりげない工夫を、毎回参加メンバーに合わせて、随所に盛り込むので、先生の講演会はたとえ同じテーマでも、十回やると十回とも、少しずつ表現が異なるのでは、と思われた。


 そんなわけで、この日の講演会も本当に盛りだくさんだったわけだが、話の本筋の中身については、具体的には触れない。

 しかし、話の本筋からは少し離れた部分で、僕の心に残ったことを、二点ほどお話ししたい。一つ目は、経済学と経営学の違いについて。二つ目は、先生が大学教授を辞められた時に、光たちから言われたことについてだ。


 一つ目、経済学と経営学の違いについて。

 先生は、これだけで、大学の授業なら何十時間もかけて講義するテーマになるのだとおっしゃった。そう前置きした上で、「それを敢えて、一分に縮めて説明すると、経済学はお金の流れを研究する学問、経営学は人の流れを研究する学問」だとおっしゃった。

 経済学は、お金の流れを中心として、お金はどのようにして回っていくのか、景気が良くなったり悪くなったりするのは何故なのか? などを研究している。

 それに対して、経営学は人が中心にある。組織の中で、人の働きを良くして、人の価値を高めるにはどうするか。あるいは顧客、つまり人は何を求めているのか。それを掴むにはどうすれば良いかなど、研究の対象の中心は人である、ということだった。

 この説明は、シンプルでわかりやすく、すんなりと納得できたし、僕の心に深く残った。

 経営学は人が中心という言葉は、経営は人、組織は人、という昔から言われてきた言葉を改めて思い出させてくれた。

 会社で働くということの中心も、間違いなく人だった。しかし、僕らは、会社は人という基本を忘れ、いつもお金のことや、指標となる数値ばかりを気にして仕事をしている。


 先生のお話で気になった、もう一つのことは、先生が大学教授の職を辞された時に、光たちから言われた言葉だ。

 「もう、大学教授という立場で、できることは全てやった。学ぶべきことは学び終えた。だから、今後は、目の前にいらっしゃる一人一人を救う役目に力を注ぎなさい」と、光たちから言われた、とおっしゃった。

 この話そのものは、以前にどこかで聞いたことがあったと思う。しかし、この日、僕の心に深く残ったのには、二つの理由があった。

 一つには、「大学教授という立場で、やるべきことは全てやり、学ぶべきことは学び終えた」という部分。これを自分に置き換えると、「会社員、サラリーマンとして、やるべきことを全てやり、学ぶべきことを学び終えたのか」ということになる。僕も、光たちからそう言ってもらえるまで、会社での仕事に全力を尽くさなくてはならないということだ。

 もう一つは、「今後は、目の前にいらっしゃる一人一人を救う役目に力を注げ」という部分。これが、先日の旅でも、まさに今、目の前でも行われていることなのだと思うと、胸が熱くなるのを感じた。


 講義の本編が終わり、特別サービスとして、先生は、故人との触れ合いに関する最新エピソードを一件紹介してくださった。その話は、ある格闘家の男性に関わる話だとおっしゃる。先日の旅でお会いした、Kさんの話に違いなかった。

 故人との触れ合いのエピソードで、自分が既に知っているお方が登場するのは、初めてだった。先生のお話を聞いている間中、ずっとKさんのお姿が目に浮かんでいた。Kさんのことを思うと、少し目頭が熱くなった。




サプライズコンサートで号泣


 ついに講演が全て終わり、締めくくりとして、サプライズコンサートが行われた。

 「冒頭で、少し触れましたけれども、実は、この会場にピアニストの方がいらっしゃっております。ボストンのバークリー音楽大学を出られて、プロのジャズピアニストとしてご活躍の方です。今日は、その方と一緒に、『Let It Be』を演奏したいと思います」

 そう話された後に、先生に促されて立ち上がったのは、僕の目の前の席に座った男性だった。ご夫婦で来られており、お二人でとても仲良く、先生のお話に耳を傾けていらっしゃる姿を、真後ろから見ていたのだが、まさか、そんなにすごいお方だったとは。

 目の前の男性が、お辞儀をしてからピアノに腰掛ける様子を、僕は驚きと敬意の念を抱きながら凝視した。「リハはしておりませんので、全くのぶつけ本番です」という先生の前置きに続いて、演奏が始まる。

 ピアニストの男性が聞き覚えのある前奏の和音を奏でる。音が柔らかい。その柔らかい音色に包み込まれるようにして鳥肌が立ち、あっという間に涙が溢れた。

 ピアノの音色、ギター、先生の歌声。いろいろなものに包まれて、光の世界の中にいる。完全な放心状態だ。こういう時には歌詞は全く頭に入ってこない。歌詞を吟味する余裕は全くないからだ。しかし、何故か先生の歌う歌詞、先生自ら訳されたという日本語訳の歌詞の断片が心に届く。それは、まさに光の世界にいる、光たちからのメッセージのように聞こえる。光たちが直接、僕に語りかけてくれている。

 「よく頑張ったね。それでいいんだよ」

 僕はいつの間にか号泣している。声を出さないようにするだけで精一杯だ。肩を震わせて涙を流す。

 涙で顔面全体が滝のようになった状態で、曲が終わった。




サプライズコンサートの後のサプライズ


 呆然とした状態で、久しぶりに深く癒されたなあ、などと考えていると、いつの間にか先生が、最後のおまけの話を始めている。何と、僕の書いた小説の話だ。

 慌てて涙を拭き、姿勢を正す。先生に紹介されてしまうかもしれない。何か話さなくてはならないのか、とパニックになりかけるが、先生は「本日、この会場に、小説の作者さんがいらっしゃっております。どこにいるのか、探してみてください」と言うにとどめてくださった。

 皆の前で挨拶という事態を避けられ、ほっとしていると、先生が小説の解説を始められた。僕が先生のことについて書いた小説を、先生ご本人が解説してくださり、皆さんと一緒になって僕自身もそれを聞いている。なんとも、不思議なシチュエーションで、あまり現実感がない。しかも、先生はかなり褒めてくださる。まだ読んでいない方も、読みたくなるだろう絶妙な話ぶりだ。

 僕は嬉しいのと恥ずかしいのとで、何だか現実感がなく、夢の中にでもいるような不思議な気持ちで、先生のお話を聞いていた。

 「もっと詳しく話をしたいのですが、今日はこのくらいにしておきます。なにしろ、書いたご本人がいらっしゃいますから」とおっしゃって、先生の解説は終わった。

 そして最後に、「今日は、アメリカに関わりのある方が、四人も来られています。アメリカデイでした」と言われ、クリーブランドに四十四年も住んでいたというご婦人、シカゴ在住十一年の男性、ボストンに留学していたジャズピアニストの男性、そして僕のことを話され、今度こそ本当にステージを降り、部屋へ戻られた。



講演会の後で


 みんな立ち上がり、帰り支度を始める。スタッフの方が、「皆さん、お気をつけてお帰りください」と声をかける。僕も、ゴソゴソと荷物をまとめていると、タイムキーパー役で、僕の斜め後ろに座っていたMさんが「小説家さんは、こちらの方です!」と、大声で皆さんに僕のことを紹介してくださった。僕は、慌てて立ち上がり、深々とお辞儀した。

 そこで、初めて隣のKBさんも「いやあ、小説に登場させてもらいました」とおっしゃる。僕も「ありがとうございます」とお礼を述べた。

 Mさんも「私も、ちょっとだけ登場させてもらいました」とおっしゃるので「いやいや、メインキャラクターですよね」と、僕は答えた。実際に、先生とその横のMさん、車椅子の女性と娘さんの四人が歩く後ろ姿を見ていた時に、この小説は生まれたのだから、Mさんはメインキャラクターに違いなかった。

 皆さん帰り際に「小説読みました」とか「面白かったです」とか、口々に僕に声をかけてくださった。


 アメリカ帰りの方々と挨拶していると、Mさんが「中で話されてはいかがですか? 先生もそうなさって欲しいと思っていると思いますよ」と提案してくださり、もう一度会場に残って、話をさせてもらうことになった。

 それぞれが、アメリカでの滞在歴や先生との出会いについて話した。

 クリーブランドに四十四年間暮らし、二年前に帰国したばかりというご婦人は、現地の古本屋で、先生の御本に出会ったそうだ。クリーブランドは、日本人の人口がそんなに多い都市ではない。日本語の本を手に取ってみることのできる場所は、限られているに違いない。そんな中で、先生の御本と出会う確率は、まさに奇跡に近い数字になるはずだ。

 「先生が、コナン・ドイルの本が光って見えたという話をされていましたけど、御本との運命的な出会いってありますよね」と、ピアニストの男性が言った。

 「確かにそう思います。私も、誰かが現地に置いて帰ってくれたおかげで、先生の御本に出会うことができた。だから、帰国する時には、先生の御本は全て向こうに置いてきたのです。また、誰かに出会ってほしいと思って」と、ご婦人が答えられた。

 「僕も同じことをしました。これまで先生の御本は、おそらく全て買ったと思うのですが、いろいろな所に売ったり寄付したりして、また買って、ということを繰り返してきました。それが誰かに届くと、嬉しいですもんね」と僕が言うと、 「じゃあ僕も、先生の御本は現地に残していこうかな」とシカゴの男性がおっしゃった。彼は、本帰国が翌月に迫り、前準備のために一時帰国しているのだった。


 それから、話は少しだけ、僕の小説の話題になった。Mさんをはじめ、スタッフの女性たちも加わり、小説についての質問を受けた。皆さん熱心に読んでくださったようで、鋭い質問ばかりだった。

 僕は、できるだけ正直に答えた。本当は、創作上の秘密みたいなことにしておいた方が、読んでくださる方の想像力を刺激して、良いのかもしれないと後で思ったが、僕はその時はできるだけ正直に答えたいと思い、実際にそのようにした。



Yさんと一緒に京都駅へ向かう


 アメリカ仲間との談笑を終えた後、ずっと待っていてくださったYさんと一緒に、光の学校を後にした。京都駅に向かう途中と、駅に着いて新幹線を待つ間、Yさんのお話をお聞きした。

 Yさんは、お年は僕よりかなり上、人生の大先輩だと思われた。建物の外に出て、歩き始めてすぐに、Yさんは単刀直入に話を始めた。

 「小説を読んで、自分がずっと思っていたことを、言葉にしてくれていて、感動したんです」

 「ありがとうございます。でも、いったいどこの部分で、そんな風に思われたのでしょうか?」僕も、聞きたい質問を、ストレートに尋ねた。

 「先生の背中を見ていて、過去の記憶がよみがえったというところです。私もずっと前から、先生の背中を見ていて、なんとなく、遠い過去とつながっているような、そんな感じを抱いていたのです。でも、それが何なのか、はっきりとはわからなかったのですけど、小説を読んではっきりしたんです。私が感じていたもやもやが、はっきりと言葉にされていたので、嬉しくなったんです。それで、是非、直接会って、お礼が言いたいと思っていたのですけど、まさか、こんなにすぐにお会いできるとは、思いもしませんでした」

 「そうですか。先生の背中について歩いた記憶を、お持ちなのですね。そういう方が、自分以外にもいると知って、嬉しいです。こちらこそ、お会いできて良かったです。京都まで来た甲斐がありました」

 「京都には、あまり来られないのですか?」

 「そうですね。僕は東京に住んでいるので、今までのセミナーは、全て東京会場で参加していたのですが、先日のツアーに参加して、やっぱり、京都まで行った方がいいなと思ったので、今回、初めて京都で参加したんです」

 「そうですか。同じ回でよかったです。私は13という数字にこだわりがあって、今回もこの13日があったから、迷わず、今日の回を選んだんですけど、お会いできて本当によかったです」

 「僕は、できるだけ早い回がいいかなくらいの気持ちで、なんとなく選んだんですけど、そんなこだわりで選ばれたのですね。13って、普通は不吉な数字と言われているから、数字にこだわる人はいっぱいいても、13にこだわる人は、あまりいないと思うのですが、なぜ13なのでしょうか?」

 「最後の晩餐の13人目、ユダにこだわりがあるからです。私は、ずっと、ユダに親近感を抱いているのです」

 「ユダに親近感。わかる気がします。僕も、もし自分がキリストの弟子だったとしたら、ユダじゃないかなと思うことがあります。それと似ているのですかね?」

 「私は、自分はユダだったに違いないと思っています。だから、ユダに強い親近感を抱いているのです」Yさんは、語気を強めて言った。

 「ユダに惹かれるところも、何か似ていますね。僕の場合、単に、ユダの弱くて情けない感じが、自分に似ているかなと思っただけで、親近感というほどではないですけど。でも、先生の背中を見て、昔の記憶らしきものを思い出したりするってことは、元々似たようなところがあるのかもしれませんね」

 僕がそう言うと、Yさんは強くうなずいた。


 それから、話題は先生の話に戻った。Yさんは、先生の普段の言動やホームページ、作品の中に、先生の様々なメッセージが隠されているのだと言った。今日の講演でも、自分に向けられたメッセージをいくつか受け取った。過去の御本や歌の歌詞でも、キリストに関連するような表現が、さりげなく埋め込まれているという。具体的な作品名を挙げて説明してくださった。

 先生がさりげなくメッセージを込める、というようなことは、僕も時々感じてはいた。しかし、Yさんは僕よりずっと深く、先生の言動や御本を読み解いていらっしゃることが伝わってきた。元々が注意深い上に、豊かな感性もお持ちなのだと思われた。そんな方に、僕の書いた小説も熟読してもらい、深く共感してもらえたということは、少し信じられないような気持ちがした。


 それから話は、Yさん自身の話に移った。

 「実は、私は今、高校に通っているのです」とYさんは、唐突に切り出した。

 「えっ! 勉強をし直されているということですか?」

 「実は、私は十五歳から働くという道を選んで、ずっと働いてきたのです。それで、仕事も引退して、残りの人生をどう生きるかって考えた時に、何かをきちんと学んでみたいと思ったのです。それで、何を学ぶにしても、まずは基礎が大切だと思って、高校に入ることにしたんです」

 「それは、すごいですね!」僕は驚きの声を上げた。

 新たな挑戦を始めるのに遅すぎるということはない、といった話はよく耳にする。しかし、僕よりもかなりの歳上の方が、孫くらいの年齢の若者たちに交じって高校に入るというのには、相当な勇気がいると思われた。僕は、深い尊敬の念を抱きながら、Yさんのお話を聞いた。

 Yさんは、この春から通信制の高校に通い始め、今、高校一年生の二学期を迎えたところだ。普段は通信制での授業だが、月に何回かは登校日があって、対面での授業もある。若い生徒たちに交じって、全ての授業に参加している。

 「私にも高校生の息子がいるのですが、あの年代の子供たちって体力もあるし、本当にエネルギッシュじゃないですか? そんな生徒たちと一緒に学ぶのって、相当大変ですよね?」

 「そうなんですよ。普段の行動から、全然スピードが違うので、全くついていけないんです。休み時間に、次の教室に向かう準備をしていて、気がつくと、教室に残っているのは自分だけなんてこともありました。自分としては、全速力で準備をしていたんですけどね。若い人と比べると、かなり遅かったみたいで」

 「なるほど、そうでしょうね。若い人のスピードには、ついていけませんよね。私でも、絶対に無理だと思います。でも、そのお歳でも頑張っている姿は、他の生徒さんにも、刺激になるのではないですかね?」

 「ええ、私の名前がオンライン授業のリストにあるだけで、嬉しくなるって言ってくださるクラスメイトもいたりして、とても励まされました」

 「そうでしょうね」僕は、深くうなずきながら言った。

 「それでも、なかなかついていけない授業とかもあって、結構、辛い気持ちになる時もあります」

 「そうですか。そうでしょうね。高校の授業って、科目も多いですし、一つ一つが結構難しいですもんね」

 僕は、もう四十年近く昔の、自分の高校時代の記憶を頼りに、そのように答えた。Yさんは、うん、うん、という感じでうなずくと、さらに、言葉を続けた。その一言は、意外な一言だった。


 「でもね、そんな時は、最近では、『先生との旅』の小説を読み返すことにしているんです。読み返すと、勇気が湧いてくるから」

 Yさんは、本当に心のこもった実感を述べてくださっているように見えた。そして、その言葉は、僕の心に深く突き刺さり、大きな驚きと喜びをもたらしてくれた。

 僕は、自分自身を励ますために小説を書いてきた。毎日、コツコツと小説を書き、その小説を推敲する過程で、繰り返し読むことで、自分自身が励まされてきた。

 その小説が、目の前のYさん、つい何時間か前までは全く知らない御方だったYさんに、確かに届いた。僕の書いた小説は、自分自身を励ますだけでなく、他の方も励ますことができたのだ。

 自分の書いた文章を誰かが読んでくださり、勇気を持ってもらえる。それは、僕にとっては、この上なく素敵で、貴重で、尊いことだと思えた。


 これが、僕のやりたかったことだったんだ。僕の求めていたものは、これだったんだ。僕がなりたい小説家とは、これだったんだ。

 僕はやっと、なりたい自分への第一歩を踏み出すことができたのだと知った。先生の解説の言葉をお借りするなら、経済学、お金の流れに着目すると、僕は小説家とは呼べない。だが、経営学、人の心に着目するなら、僕は自分自身を小説家と呼んでも良い気がした。

 僕は、これからも小説を書こう。できれば、残りの人生の全てをかけて、小説を書きたい。

 僕は、改めて、そう誓った。



終わり、あるいは新たな旅の始まり


 Yさんと別れて、新幹線に乗り、家に着いたのは夜22時過ぎだった。幸福な疲労感の中、荷物を片付けていた。

 帽子がなかった。おまけに傘もなかった。大切にしていた愛着の深い身近な品を、二つ同時に忘れてきてしまった。

 帽子のことは、あれほど気をつけていたのに、昼の寿司屋での二度目の置き忘れに続き、三度目の置き忘れは信じられなかった。しかも、今回はどこで忘れたのか見当もつかない。傘に至っては、今回は持参したものの使うことはなかった。念のため持っていったに過ぎず、ずっと鞄の奥に眠っていたはずだった。

 何かの間違いではないかと思い、家中を探し回った。だが、帽子も傘もどこにもなかった。翌日には、JR東海、JR東日本にも問い合わせをした。「該当品なし」が、両社からの答えだった。

 これは、何かのメッセージに違いあるまい。古い価値観を捨てよ、そう言われている気がした。

 古い価値観という言葉が、具体的に何を意味しているのか、わからなかった。

 しかし、僕は人生の次のステージに進むために、乗り越えるべき課題が目の前に迫りつつあることを、確かに意識した。



(第三章に続く)

クリックして第三章へ